九
九
「汽車の時間は遅いが、そんなにのんきにはしていられない。嵯峨行きも考えてはみたんだが、この様子では行ったところで日が暮れてしまう。で、今度のところは見合わせたんだ。その代わりこれから清水寺へ行くんです」
たしかに少しは慌てなければと、時計を見た。時刻はかれこれ四時半である。
「はあ、清水へ。そりゃ思いつきどす。えらいようおますがな。あんたはん、気をつけて行きなはれ。お連れがある言うて面白ずくに、音羽を越えて、稚児ヶ淵なんぞへ行ってはならんえ」
「なんだい、稚児ヶ淵ってのは。そこも名所なのかね」
「名所やいうても、芸子はんが心中をしやはる名所やえ」
「馬鹿なことを言うな」
と笑い棄てたのだが、思いのほか相手は真剣で、清之助を通り越しながら、そのまま外套の袖をつかむと、人混みのなかを向こうへぐいっと引っぱった。
「今日のあんたのお連れはん……お桐はんの姉はんがな、つい近頃、稚児ヶ淵で死にはったんどす」
と、見上げた視線を清之助の帽子のつばから顔へ移して、小さな声で言う。
「それからな、妹はん……」
と、ますます声を低めて、
「……あのお桐はんのことやえ。日が暮れてから稚児ヶ淵へ行こう行こう言うて、男の人を誘いやはる。誰も相手にせえへんなったいう、もっぱらのうわさどすえ。気をつけておくれやはれ」
清之助は、はっと驚かされた。
「私を誘いはしないだろう」
「ま、それも含んでおいでやす」
「行ておいでやす」
「さよなあら」
女たちが口々に別れを告げる。
清之助も挨拶を返そうとして、お桐が見あたらないことに気がついた。ささやくにせよ、本人に聞かれないように人を隔てて距離を取ったのだから、周囲には見あたらないはずである。
はてな、ときょろきょろ見回していると、その様子を見た巡査がニヤリとして、黙ったままぬいっと、象の鼻のように腕を伸ばして指をさした。波うつ帽子の群、庇髪、銀杏返、頬被、てかてかの禿げ頭がうごめく上を、すいっと離れて、真珠貝が精気を吹きだして月夜に飛んだとでもいうような、紫の球がスポンと浮いている。
ハッと帽子に手をかけて、巡査に目礼をした清之助の背中に、身体ごと横殴りにぶつかりそうな勢いで戻ってきた年増の女中がドンと手をついて、
「あれ、風船をお見なはれ、あんたの魂が抜け出いてます」
とっさに味なことを申されるではないか、この姉様は。
清之助は人混みをかき分けていく。
その先には、お桐の浮きだしたような姿が待っていて、
「……またフナを見ておいやしたか」……
……その、フナの一件や、あれこれそんないきさつがあって、二人は今、五条坂の薄暗がりにいるわけだが、路傍に植えられた梅のつぼみからひらりと舞い出たように、そこでまたフナの話が、お桐の口からこぼれたのである。
「あのフナの話は、もう言いっこなし。思い出すだけでもいやな気持ちになる。フナ、フナって、やめておくれ。お前さんは忠臣蔵の高師直かね」
と、二人並んで歩きだす。……お桐の黒縮緬が夕闇に溶けこんで、一番星の輝く空の下に白抜きの紋が浮き出て見える。
お桐は道をまっすぐに進みながら、
「そしたらあんたは判官はんか。なるほど似てどすせえな」
と、ちょっとすねてみせる。
「それは判官の切腹にかけて、自腹を切って飯をおごれという謎かけかね。……なるほどちょっと……」
と言うなり、清之助は言葉を詰まらせた。
お桐は彼の外套の背をつかんで、
「ちょっとどうおしやしたの?」
「たしかに空腹だと言いかけたんだが、京都じゃ東京で言う『きたやま』ってことばはまずいんだっけ。……北山には口寄の巫女がいるから、キスするって意味になると聞いたけど」
「知らんえ、ほほほ」
「いや、身銭を切って豪勢におごってもいいんだよ」
「そしたら私、どうしような」
「そうなったら、君の同僚の三千歳みたいにご飯を八杯でもめしあがったらいいさ。――あの娘はほんとに可愛いね。簪をキラキラさせて、綺麗な着物を蝋燭に照らされながら、お座敷の畳にきちんと座った姿を見ると、姫君様のお成り、というふうにも見えるが、いざとなると振袖姿で置きごたつを飛び越すんだ。蜜柑の汁も喉には通りませんという具合におとなしくしていたかと思うと、湯飲みで冷や酒をあおったりする」……