第5話 初めての朝食とライ麦パン
オラリオに謝罪と感謝を伝えると心に決めたエーリン。
扉を開けて朝の挨拶をするが――?
「おはようございます。オラリオ様」
私は扉を開けるなり服の裾を掴み、腰を落とした。貴族令嬢としての身だしなみは落第だが、せめて所作だけでも失礼のないようにしたかったのだ。
「ああ。おはよう。よく眠れたか」
オラリオはすでに起床していたようだ。
「おかげ様で」
「それはよかった」
シャツにベストというラフな格好が新鮮な印象だ。昨日はぴっしりと撫で上げられていた髪も幾分崩れ、程よい抜け感が出ている。不思議なことにこの塩梅が、張り詰めた雰囲気のオラリオの印象を和らげており、優し気に見える。
「お早いのですね。起床が遅くなり申し訳ありません」
「習慣だ、気にしないでくれ。――ところで」
オラリオはそう言って私に正対すると、突然跪き、頭を下げてきた。
「昨日はすまなかった」
彼の思いがけない行動に、面食らってしまい、思わず言葉が出てこない。
「貴方の覚悟を見誤っていた。至らぬ私をどうか許してほしい」
「そんな、頭を上げてください!」
貴族社会において、男女の役割は明確に区別されている。男が女に頭を下げることなど、余程のことである。実際に私はこうして頭を下げられたことはない。
「むしろ謝らなければならないのは私のほう――」
慌てる私の視線の向こう側、背の高い彼が跪いたことで見えてきた光景に、思わず言葉を失った。
「――部屋が、きれいに」
部屋が綺麗になっている。
そう見えるのは、何もこの部屋に日が差し込むのを初めて見たからではない。実際に、綺麗になっているのだ。
見回すと、いたるところに張り巡らされていた蜘蛛の巣は消え、掃除途中だった机も椅子も輝いている。視線を落とせば、床の埃もかなり綺麗になっている。
――これをオラリオ一人で?
「ああ。申し訳ないが、それを使わせてもらった」
オラリオが指をさすその先には窓がある。その枠に、真っ黒な布がかけられていた。
「それは――」
それは、私の肌着。私が昨日、机を掃除するためにおろした、純白のシュミーズ。
すでに灰色だったそれは、部屋の汚れをより取り込んで、黒くなっていたのだ。
「――新たな生活の礎に。無礼を承知で、有効活用させてもらった」
有効活用。それは私が口にした言葉。
「まさか、こんな理由であなたの肌着に触れることとなろうとは」
彼は私の言ったことを覚えていてくれた。
思いを汲み取ってくれたのだ。
「……お恥ずかしい限りです」
そう思うと、顔が紅潮していく。
「おかげで、捗った。まだ十分とは言えないが、一つ落ち着くことはできるだろう。なにせ、ここで生活していくのだからな」
私から謝ると決めていたのに。
結局、先を越されてしまった。
くやしさに似た感情を覚えると同時に、ほっとする。
「――朝食の準備をしましょう」
せっかく彼が率先して動いてくれたのだ。その恩に報いなければ。
「できるのか?」
「パンを切るくらいでしたら」
私は見まねでナイフを振るう仕草をする。それを見たオラリオは、目を丸くした後、頬を緩ませていった。
「頼もしいな」
彼の笑顔を初めて見た瞬間だった。
■■■
使用人達が積んだ荷物の中には、向こう数日分の食料が入っていた。いくら僻地送りとは言え、無駄死にさせるにつもりはないらしい。
食料の内訳は、ボトルに入った水と、硬いライ麦パン、そして塩漬けの燻製肉。あとは胡椒に、果物のジャム。これは私たちの食文化の中では日持ちが良いとされる食品たちだ。
食品を包んでいた紙を広げ、お皿代りにテーブルへ並べていく。メニューは、薄く切られたジャムパンと、燻製肉のサンドウィッチ。質素ではあるが、それでも贅沢な朝食だった。
「懐かしいな」
いくらか食べた所で、オラリオがつぶやく。
「パンがですか?」
「ああ。特にこのパンの硬さとかな」
私は驚きのあまり、目が丸くなる。
「意外ですね。オラリオ様はそういったものは召し上がらないかと」
ライ麦パンは日持ちしやすいのが特徴で、湿度にさえ気を付けておけば、一週間ほどはもってくれる。これは小麦由来のものと比較して倍近い。引き換えに食感は硬く、その味も貴族からの評判はあまり宜しくないので、テーブルに並ぶことは滅多にない。ゆえに、非常食としての向きが強いと言える。
一方でこれはあまり知られていないことだが、宮廷や貴族邸宅などで最も多く作られているのは、小麦由来のパンではなく、このライ麦パンだったりする。なぜかと言えば、貴族付きの料理人達はいざという時の備えの為に、数日置きに決まった数のライ麦パンをこしらえているからだ。備蓄用のパンは痛む前に入れ替えられ、古い物は使用人達で分配することで、極力無駄にならないように工夫しているのだ。
数ある令嬢の中でも、この事実を知る者は限られるだろう。なにせ、彼らは下々の生活になど興味がないからだ。むしろ、それを知る私の方が異端なのだ。
――そんなライ麦パンを食したことがある。
オラリオの立場を考えると、なかなかに信じがたい。
「そんなことはないさ。特に、手軽さなどは替えが効かないだろう?」
ライ麦パンはべたつかず、片手で簡単に食べられる。いちいちテーブルマナーが求められる貴族の食事に比べれば、その手軽さは天と地ほどだ。
「私の家は代々軍人を輩出していてな。おかげで、幼少のころから厳しい鍛錬に駆り出された。しかし、私の関心の常はそこじゃなく、どちらかと言えば、本を読んでいることの方が好きだった。特に、政治・経済は面白い」
オラリオは窓の外を眺め、眩しさに目を細めている。眩しいのは、昔の情景なのかも知れない。
「勉学は、いくら時間があっても足りない。訓練と勉学を両立することは簡単ではなかったんだ。そこで、どうにか時間を捻出できないかと模索していた」
図らずしてオラリオの過去が語られる。どうやら、真面目なのは生来の気質らしい。
「――それが、食事の時間だった、ということでしょうか」
オラリオは両腕を開き、肩を竦めた。
「おかげで捗ったよ。鍛錬後の移動中に食べるパンは最高だった。口の中の水分が全て奪われるかのような感じが、特に」
「オラリオ様も、ご冗談をおっしゃるのですね」
「本当のことだ」
ユーモラスなやり取りに、思わず頬が緩む。
ここ数日、ずっと気を張り詰めていたように思う。あの事が起こってからも、そして処分が決定されてから今日まで、こんなに肩が軽かったことはない。久しぶりにちゃんと呼吸ができたような、そんな気がする。
しかし再び顔を上げれば、真面目な表情のオラリオが私を見つめていた。
「――少し、話をしてもよいだろうか」
その雰囲気に、私は頷くしかなかった。
穏やかな朝食を楽しめたのもつかの間、何やら真面目な雰囲気のオラリオ。
一体どんな話がされるのか――
引き続き、お楽しみ頂けますと幸いです!