第3話 有効活用と初めての夫婦喧嘩
気まずい雰囲気の中、外に行ってしまったオラリオ。
残されたはエーリンは荷物の整理を始めるが――?
カバンを寝室に移し、順番に開けていく。
中身のほとんどは身だしなみを整えるもので、衣類、化粧道具、少しのアクセサリー。詰められているものは、所有していた中でも特にお気に入りのものばかりだった。
「――ありがとう、ユミル」
この荷物の多くを準備してくれたのは侍女のユミルだった。ユミルは濃やかでよく気が利き、私も信頼を寄せていたのだ。
そんなユミルでも、まさかこんな展開は予想ができなかったのだろう。
「とても残念だけど、これを着る機会は訪れそうにないわ」
見知らぬ土地に見知らぬ相手と二人きり。
領主館に入れないばかりか、手助けもない。
そして充てがわれた部屋には全てが足りていない。
――これではまるで死ねと言われているようではないか。
そう思ってもおかしくない現実が、ここにはあるのだ。
「あら?」
そうしていくつかのカバンを開けた時、私はその中にしまわれた、一枚の肌着を取り出した。
「これは――」
無駄な装飾が控えられた、手触りの良い、純白のシュミーズ。
これは私が思春期の頃、肌荒れと湿疹に悩まされた時に作らせたものだ。私はそのあまりの着心地のよさにすぐに虜になり、以来愛用していた。
しかしほどなくして、『貴族令嬢が身に着けるには品格に欠ける』として、処分するように言われてしまったのだ。マクワイヤ家の女性教育は厳しい。姉や母にまで言われてしまえば、それに逆らうことはできない。私はひどく落ち込んだ。
それを見たユミルは、処分するふりをして、とっておいてくれたのだ。
『だって、もったいないじゃないですか。こうしてくつろげる特別な日に着ましょう。有効活用ですよ、有効活用!』
以来、来客がない日などは、こっそりとこれを着せてくれたりもしていた。それは私とユミルだけの秘密だった。
「――あなたの想い、たしかに私に届きましたよ」
肌着を胸に抱きしめ、こみ上げるものをこらえる。瞳を閉じれば、ユミルの笑顔が浮かんできた。
私には敵が多かったかもしれない。それでも、私を信じてついてきてくれる者たちも確かにいたのだ。
――こんなところでくじけてはいけない。
「有効活用、しなくては」
私は立ち上がり、肌着を握りしめると、歩き出した。
■■■
ほどなくして、再び扉の開く音がした。見れば、オラリオが不釣り合いな木桶を持って帰ってきた。
「おかえりなさいませ。オラリオ様」
玄関で出向かると、オラリオは驚いたようだった。
「休んでいてくれて構わなかったのに。……いや、私の言葉足らずであったか」
「そうは参りません。オラリオ様が働いてくださっているのに。――ところで、さっそく桶の水を分けて頂けないでしょうか」
「ああ、かまわないが」
「ありがとうございます」
私はそう言って、桶を受け取ると、食卓の机のそばに置いた。
そして、それを浸した。
「何を?」
「机の仕上げを」
十分に水を吸ったそれを絞り、そして机を拭いていく。
「お待ちくださいね。これで、使えるようになりますから」
から拭きでは取れなかった汚れが、みるみる綺麗になっていく。机はまるで水を求めていたかのように、拭いた部分が艶やかに輝いている。やはり、私の見立て通り、この机はなかなかの代物だ。
「待ちたまえ」
しかし、それをオラリオは見過ごしてくれなかった。
「それは、もしや貴方の服ではないか?」
背後から、冷たい声と共に圧が押し寄せた。
私は深呼吸してから、笑顔を作り、ゆっくりと振り向いた。
「お見苦しい所をお見せいたしました。ご推察の通り、これは私の肌着です」
机に横たわる、灰色の布。
それは、ユミルが持たせてくれた、お気に入りの肌着だった。
「ご安心ください、オラリオ様。身に着ける物は清潔を心がけております。これも侍女のユミルが丁寧に――」
「――そういうことを言っているのではない!」
オラリオの声が、部屋に響き渡った。
「それはあなたの大切なものだろう。それとも、まさか、その価値がわからないとでもいうのか」
そのあまりの圧に腰が抜けそうになる。人から怒鳴られたことは初めてではないが、それでもこの距離、この状況。オラリオという堅物が放つ圧に、体がめげそうになるのを感じた。
「もちろん、理解しております」
「ではなぜ!」
オラリオがムキになるのにも、理由がある。
服は令嬢にとって命の次に大切なものと言われている。絢爛豪華なその作りは、宝石よりも高価であることも珍しくなく、その一着を作るだけで、平民一家の生活を年単位で補えてしまうほどの価値があるのだ。
そして何も価格だけが全てではない。特別に仕立てられた衣服を身に纏うということは、同時に、地位、名誉、そして一族の想いと責任をも纏うということである。
だから、令嬢は服を大切にする。
間違っても、雑巾にしてはいいものではないのだ。
「大切なものだからこそです」
――でも今は、状況が違うのだ。
「これから、ここで生活をしていくんです。このテーブルは、きっとその中心となるでしょう。それが汚れたままでは、何も始められません」
環境は人の心にも作用する。これだけ汚れた環境で生活すれば、心も荒んでいくだろう。見知らぬ土地、見知らぬ相手、家族も友人もいなければ支援もない。その上、心まで病んでしまえば、そこに幸せを築くことなど、到底無理だ。
――だから、掃除するのだ。憂いを払拭するためにも。
「恥ずかしながら、私の荷物では部屋の掃除もできません。こんな状況で役に立ちそうなものを、何も持っていなかったんです。でもこの服なら、せめてお部屋をきれいにできるではと、そう、判断しました。――有効活用、しなければ」
ユミルが残してくれた服。もう着ることはかなわない。けれど、新しい生活の礎になってくれる。それがきっと正しい使い方なのだと、私の心がそう言っているのだ。
「……貴方の言っていることはわかった」
少しの間のあと、オラリオが静かに言う。はっとして顔を上げれば、しかし彼は眉間に皺を寄せたまま、言った。
「だが、受け入れられない」
「――! ですが!」
何かを言いかけた私を静止するように、オラリオは私の両肩をそっと、しかし力強く掴んだ。
「今日はもう休もう。我々は疲れている」
「……わかりました」
「さぁ、それを置いて、貴方はあちらの部屋を。私はここだ。起きてくるまで部屋には入らないと誓おう」
オラリオは私の背中をそっと押した。黙って行け、ということだろう。
「――失礼します」
「よい夜を」
私はその案内のまま、その場を立ち去る以外になかった。
良かれと思ったことが理解されないと悲しいですよね。
スタートから気まずさ満点ですが、二人はどうやってこの局面を乗り越えていくのか、
お楽しみにいただければと存じます。