つめあと
爪痕を残したいんだと彼女は言った。
「わすれられるの、いやだもの」
僕の心にも、身体にも、自分という人間がいたことの「証」を残したいんだそうだ。
僕にはよく意味がわからなかったが(そもそも、僕は自分のいた「証」なんていうものは、根こそぎ消し去りたいタイプの人間だ)好きにさせてやろうと思って、彼女のなすがままにさせていた。彼女は嬉しそうに目を細めたあと、僕の身体を抱きしめた。
「じっとしてて」
彼女の囁く声に、少し身を硬くする。爪痕というからには、引っ掻いたりなどされるのだろうか。しかし、覚悟していた痛みはいつまでもこない。ちらと彼女の様子を窺うが、抱きついたまま、動く気配がない。
その内、僕を抱く腕に力がこもった。まるで、縋り付くかのように。
「……なにもしないの?」
「してるよ」
彼女の声がする。その声は、普段よりもずっと穏やかで、落ち着いていた。
「……爪痕、つけるんじゃないの」
「今、つけてる」
腕にまた、力がこもる。しかし、どんなに強く抱きしめたとしても、僕に傷がつくことはない。
彼女の狙いはわからなかったが、僕はそのまま立っていた。
すると、彼女がぱっと僕から離れた。
「ほら」
唖然とした表情の僕を見て、彼女は勝ち誇ったように笑う。
「これで私の体温がわすれられなくなったでしょ」
全身で感じさせてあげたからね、と呟いて、また笑う。
「ぬくもりは、何にも勝る記憶だよ」
確かに、僕の身体には、ぬくもりの残滓だけが残っている。
そう、もう君に逢うことのできなくなった、今でさえも。
「――私のこと、わすれないでね」
記憶の中の君は、そう囁いて、笑った。
(了)
好きなひとの感触はいつまでも身体の内に残っているものだと思って書きました。何故彼と彼女がもう逢えないのかは読んで頂いた方の解釈におまかせしたいと思います。