第0話 赤い山羊は手紙を食べない
アルビス歴 2012年3月14日 深夜2時30分 グラン帝国 帝都ガランタイト 参謀館前
バルケスの森に面した帝都内の東。そこは高い石積みの城壁に囲まれ、職人が年月を掛けて造ったであろう噴水、石像などの高貴なオブジェクトが点在する広大な帝国の敷地。
宮塔と呼ばれる大理石を施された無数の巨大な建造物は、西洋の「城」に近いが高さは「20階建てのビル」ほどある。
昼間は平穏だった空間。だがそこは今、危機迫る状況へと変貌を遂げていた。
何故ならば突如爆風と共に聳え立つ城壁の一部が崩れ、連続した砲撃が敷地内を襲ったことにある。
―――――「襲撃ッー!!」
火災を知らせる為の甲高い鐘の音。緊急事態を告げ繰り返すブザー音。何者かが侵入してきたであろう穴の開いた城壁の上からは大きなスポットライトが敷地内を駆け回る。
緑豊かな広大な敷地の所々で今まさに燃え広がろうとする無数の炎。そこから上がる黒煙を北風が躍らせ、木々、色鮮やかな花の色を不気味に濁らせていく。
「もっと応援はないのか!?畜生!相手はたった数人だってのに!!」
「王国兵なのか!?そんな情報は入って来てないぞ!森から回り込むなど不可能だ!」
重装な深紅の鎧に身を包んだ30人程のグラン帝国の近衛兵。彼らが混乱し、焦るのも仕方ない事だった。
遡れば世界は群雄割拠の時代へと突入してから50数年。周辺諸国を制圧し、勢力を伸ばした2つの国があった。
それが「レグリティア王国」と「グラン帝国」
隣接する2つの国は30年戦争の真っただ中だった。その前線が西の砂漠で交戦状態となれば全ての兵力を投入せざるを得ず、帝都を守護する兵士が少ないのも無理はない。砂漠を突破されれば劣勢に立たされ敗戦の危機を迎えてしまうのだ。まさに最終決戦といっていいだろう。
だが、今の現状は敵襲、奇襲、陽動、そのどれであったとしてもバルケスの森から回り込むような戦術は王国には取れない布陣。帝都周辺の監視網を突破できるはずはないのだ。
得体の知れない敵に右往左往する帝国近衛兵。何よりもそこに襲撃する軍勢が無いのが問題だった。
―――――そして突如、
参謀館前の広場で得体の知れないそれは正体を現した。
「う…う…」
不気味な満月に仰向けるかの如く、甲冑の擦れる音を立てながらドサリと力無く膝を付いた近衛兵。
その口元からは赤黒い血が涙のように流れ、兜と甲冑の間、その首のわずかな隙間に無残に突き立てられたスピア型の槍。
そこから何の躊躇いもなく銀の穂先が近衛兵の首から引き抜かれた時、内臓が締め付けられるような残忍な音を響かると、近衛兵の体液が吹き出し宙を舞った。
血を払うかの如くピッと槍が一振りされた時、その場にいた近衛兵は初めて底知れぬ恐怖を感じることになる。
「お、おいアレって…」
胴、小手、肩当て。そのどれもが黒く堅い牛皮と軽金属を張り合わせた傷だらけの軽装に身を包んだそれ。右手に持っているスピア、そして左手には円錐型の細いランス。何よりも不気味なのが山羊の頭骨をモチーフにした兜。頭頂にある二本の角は弓の弧のように後ろのめりに曲線を描いていた。
その風貌から近衛兵達には思い当たる噂があった。そして各々がその正体の名を口にし始める。
「山羊の兜だと……まさか…断…罪者…なのか?」
「断罪者って…本当に存在したのかよ…!」
――――「断罪者」
それはグラン帝国の法律の制定、執行を司る「審判機関」その直属の執行部隊が「断罪者」と呼ばれる集団であった。
帝国は隣国を吸収し続け飛躍的に拡大していったが、その反面、その心まで掌握できず裏切りや謀反なども多発した事で統率に苦戦していた。
その改善策として十二年前、皇帝から審判機関へ直々の命が下る。
『帝国に内包する裏切り者に裁きを下せる隠密部隊を結成せよ』と。
断罪者は審判機関の最高責任者である「審判」の犬。
逃亡、反発する違法者、犯罪者、異端者、またはその集団への死刑執行、自国の内外問わず「重要人物」「裏切り者」などの暗殺、決して前線に出る事のない隠密集団として暗躍していった。
だがそれさえも帝国の人間にとって「噂程度」だったのだ。
亡霊部隊さながらに所属者の名前はもちろん、資料ひとつ存在しないのだ。その場に部隊の存在を証明する証拠なども発見されず目撃者も少ない。長年詳細が明かされることは無くその功績だけが積み重なっていった。
「貴様に問おう。この極めて悪質かつ残虐な行為、ここを参謀館前と知っての狼藉か。審判機関の断罪者と言えタダでは済まんぞ」
謎の集団に次々と葬られていく近衛兵達を横目に、貫禄のある低い声で腰に携えた長剣を右手で抜き取った中年の男。恵まれた体格、左手に持つ丸盾と深紅の鎧は周りの近衛兵よりも高貴な装飾。その胸元に幾つかの勲章がある事から兵長クラスである事が伺える。
「お前に用はない」
山羊の兜から漏れるその声で殺された近衛兵の喉元を突いたのが若い男だと分かる。そして男は背中に掛けているランスの柄に手を掛けながら、そのまま参謀館を前に立ちふさがる近衛兵長に視線と身体を向けた。
「その風貌といい、ランスとスピアの異槍の使い手……貴様が噂に聞く断罪者、山羊…いや赤山羊だったか」
落ち着いた表情で淡々と考察する近衛兵長。帝国正規軍の彼でさえその存在は不確かなものだったのだ。
「そんなのどうだっていい」
赤山羊と呼ばれた男は首を小さく横に振りながら右手に持っていたスピアを地面に突き刺すと、胸元から一通の書面を近衛兵長に見せつける。そこには皇帝と審判の書面、印が押されていた。
「帝国法第129条、帝国の内政的機密情報及び軍事機密情報の漏洩により参謀ファーシルは死刑に処す。そこを退け」
そう言って赤山羊は丸めた書面を近衛兵長に投げつける。それを拾った近衛兵長は書面を広げ、目を通すがふっと鼻で笑い書面を破り捨て、兜の面部を下げ武器を取る。
「私もここの守護を任せられた身でね。相手が断罪者だろうが架空染みた組織におちおち退くわけにはいかんのだよ」
「見上げた忠義なのは認めるが、今お前がした行為は法に触れる。ルドレー上級近衛兵長」
「私の事を知っているのなら、尚更だ。今は味方同士争っている場合ではないだろう?」
「法に感情論は適用しない」
「所詮は審判の家畜か。だったら山羊は山羊らしくそこに落ちている手紙でも食って大人しく帰るんだな」
気付けば赤山羊の周りを囲むように重装に身を包んだ十人近い近衛兵が長槍の穂先を向け構えていた。少数とは言え近衛兵団は帝国正規軍の中でも上層に位置する集団。ルドレーと呼ばれた男含め、皆手練れの兵士である事から単騎で囲まれる赤山羊にとって不利な状況なのは間違いなかった。
「帝国法第152条 約定の不当な破棄、改ざんは皇帝及び審判機関への反逆として…」
「何をぶつぶつと。この状況で…――――――ッ!?」
―――――衝撃。
突如、砂埃が渦巻く中、力任せに円盾を前に突き出し態勢を崩して後ろのめりになるルドレー。
それもそのはず。瞬きを一度する間に丸盾をスピアが貫通し自らの肩をも抉っていたのだ。ルドレーはわずかに感じた殺意からかろうじて本能的に急所を反らすことが出来ていた。ルドレーの人間離れした怪力でなければ肩ごと失っていただろう。
「なんという……!」
盾を貫通する一撃など早々目にするものではない。だが相手は審判機関直属の断罪者。噂を鵜呑みにするわけではないが、ルドレーは少しでも油断した事に後悔をした。
「帝国法第131条 執行対象を処する際の妨害行為は死罪となる」
赤山羊は盾を貫きルドレーの肩に喰らいついたスピアを引き抜くと、そこから流れるように背中のランスを手に取りルドレーの首元を狙う。ルドレーはその突きを咄嗟に長剣でいなし後ろに距離を取るが傷の深さからかたまらず片膝を付いてしまった。
「兵長ッ……!!」
そこから迫力ある交戦に身体を引いてしまった周りの近衛兵達はすぐに士気を取り戻し、ルドレー援護の為、赤山羊目掛けて背後から向かっていく。
―――――!?
が、その場の流れを断ち切り、たちまち宙へ跳ねあがる近衛兵の兜。
凍り付いた一拍の静寂。
荒々しい血しぶきに背を向け鞘に大太刀を収める黒いローブ姿の断罪者が現れたかと思えば、
「……ッ……!!」
城壁上から砲撃音と共に近衛兵の胸部に突き刺さる鉄の杭。同時にその衝撃に耐え切れず浮いたその身体はそのまま近くの木肌にグシャリと打ち付けられた。
「……貴様らァ、許さんぞ」
次々と自らの部下達が蹂躙されていく様を見せつけられたルドレーは怒りを抑えるように声を震わせ立ち上がる。
「血に染まる二本角、赤山羊とはよく言ったもんだ。少しはやるようだが、これならどうか――――」
肩に深手を負ったルドレーだったが、再び武器を構えなおし目を瞑ると周辺の空気が一気に歪む。肉眼では分かりづらい半透明の白い霧のようなものが渦巻き、ルドレーの身を纏わりつくように包んだ。
「神化か…お前も戦神使いだったな」
―――――「戦神」
それは、万物の神々をその身に宿し、運命に抗う力。
神の加護を受けることでその神特有の能力を発揮する事が出来る。さらに自分の戦神をその身に神化すれば加護以上の能力を発揮する様はまさに神の所業といえよう。
ただし神化はその身を著しく削り、バイタルに強く影響する。使い方を間違えれば衰弱死など大きな危険性を伴う事もまた常識だった。
ルドレーの体中の血管は内なる力を見せしめんと膨張する。甲冑の隙間から伺える筋肉は胎動し、肩の傷口を無理矢理塞いでいった。もはや先ほどのルドレーとは覇気含め別人のように違うのは明らか。
赤山羊はルドレーに向け二本の槍を構えると、黒いローブ姿の断罪者が赤山羊の背中越しに声を掛ける。
「ひとりで大丈夫」
恐怖や高揚、感情さえも伺わせない女の声。疑問符というよりも吐き捨てたかのような冷たい声色。
「気持ちだけで十分だ」
「噛み合わないしね」
女が呆れたように小さい溜息を突いた時、赤山羊の正面にいたルドレーが怒りに満ちた様子で声を荒げた。
「我が戦神は貴様の山羊とは比べ物になるまいてッ……!」
「猛牛か」
ズシンと一歩を踏み出したルドレーは剣を大振りし威嚇する。赤山羊にはその背後に先ほどの白い霧で模られた実態のない猛牛の半身、戦神が見えていた。
「兵長に続けッ!!」
そして赤山羊を取り巻く近衛達もルドレーと同じく「戦神」をその身に宿しているのかそこら中で白い霧が渦巻く。その光景を見渡した断罪者の女は再び赤山羊に向かって呟いた。
「あなたと同じ雑種が8人」
「さすがに手を貸そうか」
「単騎の方が楽」
「噛み合わないからな」
そんなやり取りの末、断罪者二人は真逆の方向に地面を踏み込んだ。
断罪者の女は「雑種」と呼んだ近衛兵に対し優位な立ち回りで交戦。何よりも暗闇から突如現れる無数の鉄杭が近衛を捉えたりと仲間の援護もあったからこそだった。決して連携が苦手ではないのに「単騎の方が楽」と言ったのはそういう意味である。
そして赤山羊とルドレーは一進一退の攻防を繰り広げていた。
「赤山羊と恐れられたとは言え、貴様の戦神の加護では時間の問題だなッ!」
神化により更に怪力、機敏性を得たルドレー。剣の一振りは空間を強引に引き裂くような太刀筋で赤山羊を襲うが、彼もまた不規則なステップを駆使した独特な立ち回りでその重い一撃を避けていく。
しばらく膠着状態が続いたが、状況の変化は突然訪れた。
「ちょこまかと……小賢しい奴めッ……!!」
ルドレーは何度も大きく肩で息をする。何故ならば一度は塞がれた肩の傷が再び開き、地面に垂れ流すほど夥しい出血を伴っているのだ。もはや致死量を超えるほどに。
その様子を見た赤山羊は息切れ一つせず冷静に助言する。
「ルドレー、そろそろ離神した方がいい」
「……降参しろと?馬鹿を……いうな!俺は近衛兵長だぞッ!」
「別にお前が死ぬのはどうでもいい。その後始末が問題だ」
そう言い放って槍を構えなおしルドレーに強い踏み込みから加速して向かう赤山羊。その身を包む白い霧が現れた時、初めて赤山羊は神化を遂げる。
「山羊如きがァァァァア!!」
神化した赤山羊は次で強力な突きを使い決めに来る、初手がスピア、二手目が急所を狙うランス。今までの戦い方からそう読んだルドレーは盾を突き出し、スピアを抑え込んでから剣でランスを捌いてそのまま一撃を与える算段を組んだ。
神化したとは言え、その戦術、考え方、癖までは変わらない。そこはあくまでヒトなのだ。
そしてその読みの通り初手のスピアを盾で防ぐ。再び貫通はしたものの、今回は穂先を回避する事に成功。
「若いなッ!!これで終わりだッ!!」
経験がモノを言う、そう二手目のランスを捌こうとしたが、その先が急所への軌道でなかった事に動揺する。
―――――!?
電流がショートしたような音と共にそのランスの先はルドレーの顔を横切っていたのだ。そしてそのままランスの先に目をやると、
「馬鹿なッ……」
あろうことか実態のない猛牛の戦神の片目に突き刺さっていたのだ。
苦悶する猛牛の戦神。ルドレーが驚くのも無理はない。戦神使い同士であれば、神化すると空間に浮かび上がる程度ではあるがその姿を目視できる。しかしそれは実体が無く触れる事など出来ない亡霊のようなもの。
その戦神を消滅させたいのであれば、巫女により永久離神させるか戦神使いである対象を殺害する他ないのが常識なのだ。
そして猛牛の左目を潰した赤山羊はルドレーの顔面を蹴って、空中で大勢を立て直し後方に間合いを取る。
「……あり得ない。戦神に直接……攻撃を加えるなど……!!」
再び膝を地面に着けてしまったルドレーは瞬きを忘れ地面を見つめて愕然としている。その一連の光景に周りの近衛兵達も驚愕と混乱を隠せていなかった。
さらに再び立ち上がろうとするルドレーだったが、立ち上がれない事に気づく。激痛と共に自分の身体を見ればいつの間にかいくつもの深手を負っていたのだ。
どの傷の位置も重装の甲冑、そのわずかな隙間に針を通すような所業でなければ到底付けられないような傷。
「気付いてなかったのか。これだから脳筋の戦神は鈍い」
戦神が直接傷付けらたからか、その加護が弱まった事でやっと自分の状態に気付いたルドレー。痛みさえも麻痺させてしまう戦神の加護は麻薬とも言えよう。
そして、決着があったかのように思えたがルドレーの様子がまたしても異常なものとなる。
「あり……得ない……アリエナイアリエナイアリエナイ」
瞳孔を収縮させ何かに取り憑かれたかのようにブツブツと口元を動かすルドレー。
「神蝕状態が始まってる。あいつ、喰われるよ」
断罪者の女は近衛のひとりを切り捨てると赤山羊に向かってそう言葉を掛け忠告する。
「これで四件目か」
そう返した赤山羊の先、地面に崩れ落ちるルドレーを取り巻いていた白い霧は徐々に黒へと濁っていく。同時にルドレーの骨格を内側から壊すかのように膨張する身体。耐え切れず兜は脱げ落ち、肉体は胎動し右腕だけが異常に変化していた。
肘の骨は皮膚を破って突き出し、一回り大きくなったその肉塊。目は白を剥いていき、血の混ざった唾液をあんぐりと開けた口から垂れ流すその姿はルドレーという男を失いつつあったのだ。
「オレハ……戦神ツカイノ…コノエヘイ長!!」
マリオネットのように不自然な動きで立ち上がったルドレーは、
「兵長……ッ!!大丈…ッ!?」
―――――!?
あろう事か駆け寄ってきた近衛兵を膨張した右腕に握られた剣で縦真っ二つに叩き切ったのだ。そこはもはや近衛兵のものだった臓物が散乱し、残虐性極まりない地獄絵図となる。
「オレハ、ルドレー、ルドレー?何をしてイル?何でこんな事に…シン化がオサマラナイ!ナンデ?ナンデ!!」
まだルドレーの自我が残っているのか、それで尚、右手の剣と左手に握った近衛の半身を振り周し暴れまわる化け物。その背後では怒りに満ち溢れた戦神の猛牛の片眼が赤黒く光る。
「アカ、ヤギッ!ぎぎぎ!オマエッ…!キサマ?センシンにフレルなんてェェ!ヤギはカミを喰ッテ死ネェェぇ!!」
大地を切り裂くような暴れまわる化け物の一撃を眼前で回避し間合いを詰める赤山羊。
「最期に教えてやろうか。残念ながら俺の赤山羊は――――」
そういって赤山羊はスピアを地面に突き刺すと、高跳びのように化け物の頭上に舞い上がり、
「神を喰うんだよ」
戦神の額を貫くようにランスを突き立てると、猛牛の戦神を模る濁った霧が砕け散るように消滅。そこにいたのは戦神の加護と人の形を失った化け物だけ。
「オレハ……俺は―――――」
戦意さえも失ったままこちらを呆然と見つめ立ち尽くす化け物に向かい、赤山羊は地面に刺さっていたスピアを抜き取り、
「審判機関の名において、ここでお前を断罪する」
自分の姿を映すその急所目掛け向かっていくのだった。