『カメラ』
「はぁ〜」
一日を乗り切った達成感とその疲労を吐息に出して、ベッドに寝転んだ。ピンク色のパジャマを着た亜美は、壁に掛けられた時計を見て時刻を確認した。
………十時。寝るには早いが、かといって何かしようとは思わない時間だ。宿題は学校で済ませてしまった。
気だるさかからか、気まぐれからか。何となく見慣れた自室を見渡した。亜美が中学生に進級してやっと獲得した一人部屋だ。既に高校生である兄の部屋を、小学生の自分はすごく羨ましがっていた覚えがある。ずっとそこにいたいとさえ思い、実際駄々をこねていた……気がする。
壁紙は薄ピンクを基調とした花柄。派手すぎず地味すぎずという亜美の信条にぴったり当てはまっており、店で見かけた時に即決したぐらいお気に入りの一品だ。
手作り感溢れる木製の棚には好きなアイドルの写真立てが置かれており、部屋の所々は数々のぬいぐるみで埋まっていた。亜美の好みから出来たこの部屋はいかにも女子らしく、友人からも好評だった。
「そういえば…」
ふと思い立ち、ベッドから離れる。
亜美の目についたのは一つのぬいぐるみだった。特に変わったところはない、触り心地がふわふわのクマの人形。確か誕生日に友人に貰った物だ。年月に合わせて毛並みが黄ばんできている気がする。よく見ると紐がほつれていた。首にかけられたリボンにも汚れがついている。…正直この部屋には不釣り合いな存在だ。
「早紀には悪いけど、そろそろこのクマも引退かなぁ」
早紀は小学からの友達だ。互いの家に遊びに行ったり、お泊りをしたこともある。あの頃の早紀は亜美にべったりで、何をするにも後ろをついてきていて可愛らしかった。中学に上がってからはあまり話す機会がなかったが、今でも顔を合わせれば挨拶ぐらいはする。
そういえば、ぬいぐるみを貰ったのは中学校の入学式だった。誕生日と被ったその日に、彼女は大きな袋を持ってきた。子供っぽくてごめんね、でもこのクマがうちだと思って大事にしてね。―――確かそう言っていた気がする。
そんなことを言っていた友人からのプレゼントを捨てるのは気が引けるが、このまま置いておくのも躊躇われる。むしろ今までで気にならなかったのが不思議なぐらい周りから浮いていた。
「今度イトコが来た時にでもあげちゃおうかな」
亜美には今年三歳になる従姉妹がいる。丁度ぬいぐるみなどを気にいる年齢だろう。古い物を押し付ける形となってしまうが、捨てるよりは気が楽だ。
最後に『ありがとう』の気持ちを込めて、ポンポンとクマの頭を撫でる。数年間部屋で自分を見守ってくれた礼だった。
「………」
黒いビー玉のような瞳が、こちらを覗いているような気がした。亜美は口角をあげたまましばらく動けなかった。
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「亜美!」
翌日声をかけられたのは、学校から帰る途中の道を歩いている時だった。
振り返って素早く人物を確認する。
「あ、早紀か。この時間に会うの珍しいね」
早紀は卓球部に所属しているため、この時間帯は丸々部活の活動時間に被るはずだった。
「今日は休みにしてもらったから。…ちょっといい?」
「え…うん」
ふと昨晩のことが蘇る。…が、そんなはずはないだろうと不安を掻き消した。早紀が昨日のことを知っているはずがない。
「あのさ…。うちが亜美の誕生日にあげたクマ、覚えてる?」
心臓がぎゅっと掴まれたような錯覚。
「あぁ、最近家に来てないから…知らないんだっけ」
そういえば、中学になってから早紀が部屋に入った記憶はない。つまりはあのクマが置かれていることもしらないというわけだ。
「中学になって、大会やらテストやら予定が増えたからねぇ…。って、それなら亜美の部屋にまだあるんだ」
「……うん、部屋にいるよ」
今は。そう心で付け足しておく。
しまったとも思った。余計なことを言わなければ、『いつの間にかどこかに行っちゃった法』で済んだのに。
「そっか」
「あのぬいぐるみががどうかしたの?」
「うん…アレ、だいぶ昔にあげたやつじゃん。何か急に思い出して。飾ってくれてるのは嬉しいけど、かなり汚くなってるだろうなって」
「あ、それなら…」
この会話の流れなら、クマの受け渡しについて話しておける。そう思って口を開いた。これで引け目を感じることなく従姉妹に渡すことができる。
「あのクマ、うちが一旦引きとるから」
「え?」
予想外の申し出に返答に困る。
従姉妹の件を言える雰囲気ではなくなっていた。
「うちが綺麗にしてまた渡すよ」
「いや、いいよいいよ!悪いし!」
「いーのいーの。洗濯しないでって言ったのうちだしさ」
そういえばそんなことを言っていた気がする。絶対に洗ってはだめだと。だから母にもその旨を伝え、以来一度もあのクマは水に触れていない。
どちらにせよ亜美は進んで洗う気はなかった。かなり大きなぬいぐるみなため、手洗いするには一苦労だったからだ。
「じゃあ…お願いしようかな」
「ん、明日持って来てね。じゃ!」
断れない雰囲気に、亜美は疲れた笑顔で申し出を承諾した。反して早紀は屈託ない笑顔を見せ、ぐるりと背を向けて駆け出して行った。亜美にはそれが喜んでいるように見えた。
翌日。不思議に思いはしたが、亜美は約束通りぬいぐるみを持ってきた。
放課後早紀の元へ行き、紙袋に入ったそれを渡す。
「うわ、やっぱ汚くなってるね。それじゃ今度洗って返すから」
「わざわざありがと。今度お礼するね」
「いいって。大好きな亜美のためだもん」
心から幸せそうな笑みでこちらを見上げてきた。
その笑顔がほんわかというより粘着質なものに思え、少しゾッとする。早紀の目がクマの目と重なって見えた。
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クマの件があった後、早紀と接する時間が長くなった。というより、早紀が絡みに来る回数が増えた気がする。
休み時間にわざわざ話しに来たり。
部活を休んで家に遊びに来たり。
部屋に入れなければ怒ったり。
普段何しているかしつこく聞いてきたり。
いつもと違うことがないか尋ねてきたり。
………たまに煩わしく思えるほど、早紀はよく亜美の元に来た。
「早紀、どうしたの?最近ちょっと変だよ。部活休みがちだって先生が怒ってたし…」
「いいの!部活より亜美の方が大事」
「はぁ、そう…」
「それより、私の代わり―――クマを綺麗にするまで待っててね」
にっこりと、いつもの笑顔を浮かべた。
まるで小学生の早紀に戻ったみたいだ。ただ、今亜美は中学生。昔のノリについていけるわけがない。早紀の前では笑顔だが、心はちっとも笑っていなかった。
はぁ。
早紀の隣で何度目かのため息をついた。
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「亜美、できた!できたよ!ほら、新しいクマ!」
「え?新しい?できた?」
「あ…うん、ほら、新品みたいに綺麗になったでしょ?」
弾んだ声でそう声をかけてきたのは、やはり早紀だった。その腕にはあのクマのぬいぐるみが抱かれている。数日前の記憶とは全く違う。触り心地の良い毛並みが蘇り、リボンはしっかりと首に巻かれ、色も黄ばんだりはしていなかった。本当にあの汚れたクマなのか、と口にしようとしたが、それでは早紀に失礼になるのでやめた。お礼を言って受け取る。クマの丸い黒瞳と目があい、思わずそらす。
「ちゃんと今までと同じ位置に飾ってあげてね。あそこのポジションすごくいいから」
クマと全く同じ目をした早紀が嬉々として言った。
なぜ人形がいた場所が分かるのか、それとも言い方の問題なのか。モヤモヤしたまま、亜美はその願いに黙って頷いた。
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それからいつものように家に帰り、綺麗になったクマを定位置においた。その愛らしさは、亜美の部屋に恐ろしくよく溶け込んでいる。クマが部屋に合わせたみたいだった。
見ると、リボンが青からピンク色に変わっていた。大きな汚れを消すのはさすがの早紀でも無理だったのだろう。…それにしても、良くもまぁここまで修復できたものだ。
何となく不気味さを覚えはしたが、それ以上気になることはなかった。
汗ばんだ制服から部屋着に着替える。横を見ると、件のクマと目があった。常に見られているような…監視されている感覚にとらわれる。
ごくり。口腔に溜まった唾液を飲みこむ。
「亜美ー、ご飯よー」
「……はーい」
ぬいぐるみから目をそらすと、階段をトントンと降りていった。
母、父、兄。家族が勢揃いしていたことに少し驚く。父がこの時間帯に家にいるのは珍しい。
料理の置かれたテーブルにつき、隣に座る兄に笑いかけると、父が唐突に話し出した。
「俺の会社の後輩が言っていたんだが、最近カメラブームがきてるらしいんだよ」
「カメラブーム?」
「あぁ」
父は広報職についている。そのため様々な仕事との関係を持ち、社会全体の取り組みを把握しようとしている。とある俳優の悪い噂を父が冗談交じりに話し、その一週間後にはその件がテレビで大々的に放送されている、という一件があったほどだ。
―――未来を先取りする。亜美は父の仕事をそう解釈している。
役職も役職なので、人との繋がりも多い。つまり幅広いジャンルの知識を深めているのだ。その情報量に亜美はいつも感心していた。今回も周りから新たな話題を仕入れてきたのだろう。
「といってもな、若い子たちがカメラを片手に風景を撮る、なんて和やかなものじゃないんだ」
「え?どういうこと?」
てっきり今流行りのアプリについての話かと思っていた。ちょっとオシャレなお店に行ったり、スイーツを食べたりしたら、人々はすぐに写真をネットに公開する。写真を撮ることと遊ぶこととの目的が混合していると思う。
「待てよ。それ、亜美にとったら気分悪い話なんじゃないか?」
「亜美、おしゃべりは良いけど手が動いてないわよ。ご飯冷めちゃうでしょ」
「はーい」
兄が父を止めるのと同時に、母が手を拭きながら亜美を注意した。父と兄はすでに食事をすませた様子で、湯気だったコーヒーカップを手にしている。
厚みのあるハンバーグを前に、お腹がきゅるると音を立てた。いただきますを言って欠片を口に放り込む。
「それで、お兄ちゃん。私にとって気分が悪い話ってどういうこと?」
「…父さんがいうブームについてだよ」
「えぇー。それじゃわかんない。本当のカメラブームは何だったの?」
亜美の想像していたカメラブームではないらしい。父が話すなら、それはこれから来るブームのことなのだから。
「まぁ、あれだ。…犯罪」
その言葉に「あぁ」と納得した。
やっと父の言いたいことが分かった。兄が止めたのも頷ける。
兄はそういうところに気を使えるし、人に優しい性格だ。亜美は小さい頃からそんな兄を慕っていた。
「で、何でお父さんはいきなりそんなこと言い出したの?」
少なくとも食事時にふさわしい話題ではない。
「分からん。亜美も気をつけろよ、とでも言いたかったんじゃないか」
「だったら何で疑問形にしたんだよ、父さん」
分からないと眉を寄せる父に、兄がくすりと笑う。本当におかしそうだった。釣られて亜美も笑みをこぼす。だってお兄ちゃんが笑っていたから。
「女性のスカートの中まで覗けるもの、浴室内の映像が撮れるもの。変態にはもってこいだろ?」
「結局言うんだ…」
せっかく濁してあげたのに、と兄はまた笑った。その控え目なのに、笑うたびに世界が揺れる瞬間が亜美は好きだった。じっと兄を見つめる。清潔そうに整えられた黒髪、垂れ下がった目、整った顔立ち。妹の贔屓目だろうか。自分と違って兄はかなりルックスが良い。
「それに小型カメラなら、何かに仕込んで相手の部屋を監視することだって出来るんだぞ」
少し興奮気味に父が言う。その内容に亜美はどきりとした。平静を保とうと、もう一口ハンバーグを咀嚼する。
「ふーん。そうなんだ。便利だけど怖い世の中になったね」
「本当にな。プライバシーもへったくれもあったもんじゃないよ」
「ね。それより、このハンバーグいつものとちがくない?」
「お、わかる? それ、俺が作った当たりハンバーグなんだぜ」
三度目の兄の笑顔を見、亜美は無理やり会話を終わらせた。そんな亜美の姿を、母は無言で見ていた。普段なら、『私の作ったハンバーグはハズレとでも言うのかしら』とでも言うところなのに。
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その夜、両親と兄がドラマを見はじめたことを確認すると、亜美はこっそり兄の部屋に入った。電気をつけていないので中は真っ暗だ。廊下から漏れる明かりだけが頼りだった。
壁に掛けられた父のお手製ボード。そこにとめられた画鋲の一つにかかっているのが、亜美があげた犬のマスコットだ。友達と集まって作った初作品を、亜美は迷わず兄に渡した。元々兄をイメージして作ったのだから当たり前だ。 その時の喜びようを思い出すと頬が緩む。懐かしい。
「……」
一瞬の逡巡の後、亜美はマスコットを掴んで画鋲から外した。悲しみを振り切ってそれをポケットに滑らせ、代わりに似せて作った人形をかけておく。見た目では全く判別出来無いはずだ。
そのまま部屋を出ようとし、思い出したように戻る。 整頓された机をそっと撫で、今度は本当に部屋を後にした。
自室に入った途端、すぐさま戸棚に向かう。そしてポッケに入ったそれを取り出すと本の奥に詰め込んでおいた。一仕事終えた気持ちで息をつく。
「これで最後。…最後だから」
固めた決意を胸に、パソコンを起動させた。ぶん、という音が室内に響く。
意味はないのだが、毎回この動作の時には周囲を確認してしまう。右、左。そして後ろ。―――ぎょっとした。あのクマのぬいぐるみと目があっていた。こちらを観察するような、じぃっとした視線。三秒たち、やっと目線をずらすことができた。何故自分がこんなにもぬいぐるみに過剰反応してしまうのか分からない。位置をもっと隅っこにしたいが、早紀にわざわざ変えないでと言われたのだ。亜美の中の良心が許してくれない。
ぬいぐるみのことを無理やり意識の外に押し出すと、パソコンの画面に目を向けた。亜美にとっては至福の時間だった。
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「ねぇ亜美」
「ん?」
「今日はお兄さんを監視しないの?」
にっこりと、瞳を輝かせた早紀が言った。