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第1章:精神移動者

 慣れた手つきでブレナン氏はケーブルで繋がれていった。コフィンと言う悪趣味な名前で呼ばれる専用の容器に入れられたブレナン氏1人に対し、4人の技術者が周りを取り囲み作業を進めていた。丁度今、両目に専用のゴーグルが付けられるところだ。ゴーグルの他には心拍を測るための計器だったり、酸素ボンベに繋がれたマスクだったりが繋がれているのが見えた。だがそれよりも眼を見張るのは頭部に繋がれたケーブルの数だ。10、いや20本はあるであろうか。記憶や精神や五感、人間の存在に関わる全てをデータとして保存するということは、膨大な量のデータを移動させるということだ。その為1本や2本のケーブルでちまちまやっていくわけにはいかない。そこで最先端のデータ転送ケーブルで部分ごとにコピーをして、コンピューター上で結合させるのが現在一般的な方法である。


 そうしてブレナン氏はケーブルまみれの身となったわけだが、彼はまだ意識はあった。そしてこれから起こる事についての期待感に溢れていた。精神が、記憶が、肉体以外のすべての感覚が自分の体からコピーされ、全く別の空間へ移動する。それでいて自分はここにいて、帰って来る精神と持ち帰ってきた記憶で精神の移動先で起きた全ての出来事を追体験する。そんな経験が本当にあり得るとこのCyberMoving社のお偉方は言うのだ。そしてその体験を今から数分後に自分が味わうのだ。これ以上の興奮があってたまるものか。


 ブレナン氏は技術員にひと声かけて、技術員から小さなボイスレコーダーを受け取った。この時、この瞬間の興奮を残しておきたいと思ったのだろう。多くのケーブルが繋がった腕を動かし、やっとの思いで口元へと持って行ったが、時既に遅く彼の精神移動へのカウントダウンは始まっていたようだ。彼の酸素マスクから微量の麻酔薬が体の中に流れ込み、声を発する前に彼の意識は眠りの世界へと旅立った。そしていつもの事のように技術員はボイスレコーダーを拾い上げ、腕を所定の位置に戻し、コンピューター端末へ向き直った。モニターは興奮度を示すグラフが落ち着きを見せ、精神のコピーに適した数値に達したとの表示が点灯すると自動的にコピー作業が始まった。


 コピー作業自体は20分やそこらで終了する。そこから次はそのデータを目的地のサーバーへと移動させる作業が始まる。しかしここがちょっとした問題だ。人間の脳の容量は約4テラバイト。そこに諸々の情報を合わせて移動させると膨大な量になる。それを一つ送るだけでも大変なのだが、CyberMoving社はこの本社研究所の施設だけでも10人の精神移動が並列で行われている訳で、その送信順は言ってしまえば早い者順なわけだ。今日は同時間にシアトルへの転送依頼とロンドンへの依頼、ストックホルムへの依頼など立て続けに行われている上に、他社からの受け取りも発生しているため通信回線は混雑を極めていた。結果ブレナン氏の精神コピーデータの移動は1時間半ほど後にようやく始まり、衛星通信回線を通じて送信されていった。


結局ブレナン氏が移動先の北京の研究所で目を覚ましたのは作業開始から2時間半ほどした後だった。ぼんやりとした視界が徐々にはっきりしていく感覚は人間の感覚そのものだが、腕を動かし目をこすろうとした時に見えたそれは紛れも無く金属の体だった。ブレナン氏の精神は無事に簡易移動体の中に納められ、ブレナン氏として動き始めているようだ。そこからは簡単なチェックが行われる。簡易移動体と意識の同調、言語に関する確認作業、人間倫理に関するチェックなどが行われ、それらをブレナン氏(の簡易移動体)はパスしていった。そうしてブレナン氏が北京の街の中へ簡易移動体として移動を果たしたことが認められ、彼は車に乗り込んで北京の街へと走り始めた。





 15分後、ブレナン氏の簡易移動体は北京市内のホテルの会議室にたどり着いた。若干違和感があるかもしれないとの事前のイメージとは異なり、ここまで簡易移動体は彼の考える事を全て正確に表現してきた。車よ動けと思えばアクセルを踏めるし、止まれと思えば普通にブレーキを踏める。ドアを開けようと思えば人並みの力で開けることだって出来る。何より驚いたのはどうせ簡易移動体だからと階段でホテルを目指して歩いてみたところ、体が疲労感を感じたということだった。階段の先にあるホテルに辿り着いた時には汗こそかかないものの普段の自分がいかに運動不足の状態であったかを簡易移動体に教えられるという思いもよらぬ結果に移動前から存在していた興奮は最高潮を迎えていた。あぁ、なんて素晴らしい!この機械の体は紛れも無く私なのだ。これが精神移動というものなのだ!しかしホテルの入口にたどり着いた時、ドアマンの目線は彼を人間として捉えていなかったように見えた。少なくともあの目は荷物の持ち運びを行うようなサービスボットを見るようなそれで、彼が精神移動の簡易移動体を身にまとったブレナン氏であるとドアマンが理解できなかったとしたら、ドアマンはこの時刻にはドアマンではなくなっているはずだろう。正直ブレナン氏は頭には来ていたが、そこに現れたホテルの支配人であるリュウ氏が彼を見つけてくれたことで、ドアマンはこの時間でもドアマンのままでいた。


 リュウ氏はブレナン氏よりも前に精神移動を経験した人であり、その後も複数回にわたって精神移動を重ねている。主要な都市に自分専用の簡易移動体を保管してもらっているとさえ言った。ホテルの会議室での対話はそのような精神移動に関する雑談から始まり、最近の経済と政治の話になり、やがて仕事の話に着地した。ブレナン氏は自身の経営するホテルをリュウ氏に売り渡すためにやってきたのだった。リュウ氏はその為にブレナン氏の元へ幾度か訪れており、それはいずれも簡易移動体の姿であった。それを見てブレナン氏は精神移動に夢中となり、遂にこうやって簡易移動体の体でリュウ氏の前に現れることが出来たのだ。ただ、それの為の投資に今回のホテル売却で得られる資金の約3割に当たる金が消えていったことは確かであるが、そんな事はどうでも良かった。彼の感じている感覚が、数時間後移動前の記憶のまま眠るブレナン氏本体に戻った瞬間のことを考えて、一刻も早くこの地を離れてしまいたいとさえ思っていた。そもそも契約の調印など対面する必要すら無く、画面を通じた会話や電子媒体を使用したサインですらその効力が発生するというのにここに簡易移動体として存在しているのは、ただただブレナン氏がやってみたかったという単純な理由の他にない。だからここ北京のリュウ氏に簡易移動体の姿で会うことが出来た時点で彼の目的は全て終わっていたと言っていい。ホテルの売却など、どうせ会社の経理部がおおよその計算をして上手くやっているのだ。ブレナン氏はそう思いながらリュウ氏の言葉を右から左に聞き流しつつ、右足が震えているのに気がついた。簡易移動体も貧乏ゆすりをするのだなと思った。





 契約を終わらせたブレナン氏はリュウ氏の食事の誘いを丁重に断り(ちなみに簡易移動体でも味覚を感じることは出来る)、北京のCyberMoving社研究所へ急いだ。予定よりも早い帰還に技術者は若干の困惑の顔を見せたものの、すぐさま簡易移動体からの精神と記憶の抜き取り作業が行われた。抜き取られた記憶はすぐさまCyberMoving社の本社研究所にあるブレナン氏本体に据えられた端末へ送られた。今回は予定より早い作業開始のために待ち時間なく転送が行われた。そしてブレナン氏への記憶書き込みが行われる。コレは元となった記憶との照合作業から始まる。元の記憶と新たな記憶との違いを自動で読み取り、その部分のみ上書きを行うのだ。全てを書き換えるほど脳は上手くできていない為で、違いがある部分のみを書き換えを行うのが現在の形だ。かつての実験で実験用マウスがすべての記憶の書き換えにより強烈な脳の疲労を感じたという例がいくつも出ている為で、精神移動に関する国際条約により彼自身の記憶を元に上書きがされていった。


 そうしてブレナン氏が元の肉体で目を覚ますまで1時間が経過し、全てのケーブルが外された時に彼は勢い良くコフィンの中で立ち上がり天に手を突き上げた。私はここにいながら北京の街であのリュウ氏に出会っていたのだ。これで精神移動者の仲間入りをしたのだ。彼は大声で叫びながら興奮していた。技術者は微量の精神安定剤の投与を検討したが、それはブレナン氏自ら拒否した。ブレナン氏は叫んだのだ。コレを興奮せずに体験できるやつなんて居ないと。ブレナン氏はその後出発時とは比べ物にならない程の様々なチェックを受けることとなった。運動力、言語力、倫理など多岐にわたった。しかし、それらを満面の笑みでパスしていくブレナン氏は、たまに目をつぶったかと思うとその記憶に浸っているようだった。肉体と精神の間で疲労度に関する値で若干の誤差はあったものの、全て許容値だった。そうしてブレナン氏はここに正常に肉体への帰還を果たしたと認められるわけだが、それよりも前にブレナン氏は自分がここに居ることをしっかりと感じていた。なぜなら、自らの右足が小刻みに震えているのに気がついたからだ。

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