序章:精神移動理論の今
例えば二人の男女がそれぞれ小さな部屋に居るとしよう。男の手にはリンゴ、女は何も持っていない。2つの部屋は厚い壁で句切られ、扉や窓はない。この状況で男の手の中のリンゴを女の手に渡すにはいかなる手段があるか。
2037年、マーシャル・クレイトンの発表した論文はこのような一節から始まっている。いわゆるクレイトンのリンゴという問題だ。厚い壁に遮られた部屋から部屋へいかにしてリンゴを移動させるのかを投げかけたものだが、わかりにくければ密封された箱に触れずに中身をどうやって取り出すかという話にしてもいい。
クレイトンは論文の中でこんなことを言っている。リンゴを受け取る女の方は、男の手にしているリンゴの形や色、味、その大きさの全てを知っているのか、いやいないはずだ。それならば女の手の中に突然物体が現れて、それをリンゴと視認することが出来たとするならばそれはリンゴであり、たとえ男の手の中からリンゴがまだ存在していたとしても女の方から見れば女の方にリンゴが現れた事になり、それはどこかからか移動してきた事実が残る。女は男の手の中のりんごが女の手の中に移動してきたと錯覚するだろう。
この論文は学会においては基本的には無視され続けてきた訳だが、この理論の肝はいかにしてリンゴが移動したかとか男と女がどうやって密室の部屋に入れられたのかとかそういうことではない。要するに、男の手の中にリンゴがあるのに、女は手の中にりんごを手にしたことで男の手の中から移動してきたと思うという点こそ、この後の理論拡張の主要なポイントとなったわけだ。
2043年、アンソニー・シモンズはこの理論を大きく拡張した。というよりは、全く別物にしてしまった。クレイトンの理論は移動してきた物質を第三者的な視点から観測しているが、シモンズはそれを移動する物体そのものに当てはめることにした。その上で2年前に発表された記憶・精神分離応用理論、要するに脳内記憶と精神のコンピューターへのコピー、肉体への復帰の理論を絡ませて、肉体からコピーした記憶や精神を移動させ、別の場所で別の肉体、別の入れ物に入れる。そうするとコピーされた精神はその場所での行動をコピーされた本人として行うことが出来る。その場で行動を行った後のコピー体は改めて精神や記憶をコピーされ、元の肉体へ戻される。すると精神と記憶のみが移動しただけにもかかわらず、移動先の経験を持った肉体がそこに出来上がることになる。
シモンズの理論はその後幾人かの手を経て修正と拡張が行われ、2050年台には実用可能な非物質移動型の遠距離転移理論として確立し、みなさんも経験している通り様々な分野に応用されている。精神の遠距離移動は当然として、ヴァーチャルワールド、つまりはゲーム分野への拡張は眼を見張るものがある。また、いずれ記憶や精神のコピーとしてだけではなく、それ自体が電子生命体となりうるといった理論も現在展開されているのは報道のとおりだ。
果たしてクレイトンのリンゴは確実に男から女の手へ移動した訳であるが、我々はこの理論のどの程度を理解し、どこまで実現できたのであるかはまだ解らない。研究途上の理論であることは確かだが、そのそこがまだはっきりと分かっていないのが実情だ。しかしながら、この理論が着実に世界を変えつつあるのは確かだというのは異論がないところだろう。
(2068.10.18発行 ScienceWizards Watch紙 / マイケル・クレイグ「精神移動理論の今」より引用)