インフィールドフライ
夏、それは俺が一番嫌いな季節だった。
それは勿論、暑い、じめじめする、などなど……。そんな感じでその他諸々な要因もあったが、一番の理由は、高校野球の季節だからだ。
今、乗っている電車にも高校球児らしき人が何人か乗っている。現在、八時過ぎだから丁度練習帰りなのだろう。
一度テレビを付ければ○○のダルビッシュだの、平成の○○だのが一杯紹介される。俺が高校野球を嫌っている理由はダルビッシュが多すぎる! とかそんな理由では勿論ない。○○のダルビッシュは現在三十五人いると言うのが理由では断じてない。
自分の六年前を思い出す、というただただそれだけの理由である。
六年前、俺はその辺の坊主と同じく、髪を丸刈りにしてグラウンドに立っていた。勿論、高校球児として。
俺の母校は決して強豪校ではなかった。いつも良くて三回戦止まり、強豪校と当たった時は一回戦負けなんかもざらにあった。
しかし、俺が高三の時は違った。一回戦、二回戦とも強豪校だったが、何かにとり憑かれたかのように打ちまくった。そして面白いように相手打線を手玉に取る事が出来た。その時、俺も一番セカンドとして毎試合スタメンで出ていたが、毎打席のように塁に出て、チャンスを作っていった。こうして、破竹の勢いで勝ち上がり、等々決勝戦まで行くことが出来た。
決勝の相手はいつもは俺たちと同じ良くて三回戦までの高校。これまでの試合も強豪は軒並み俺たちが倒していたため、のらりくらりと勝ち上がったような戦い方だった。
俺たちはこの時、勝利を確信していた。そして念願の甲子園へ行くということが、現実になるものとばかり思っていた。
でも、現実はそう甘くなかった。地区大会決勝、あれは小雨の降る試合だった。
この大会では、何処の高校も止められなかったマシンガン打線を五回に四番が打ったソロホームラン一本に抑えられた。そして、こちらはなんとか点はやらなかったものの、毎回ランナーを背負う苦しい展開だった。
そしてその一点リードのまま迎えた九回裏、ツーアウトから連打を浴び、ランナー一二塁。一本打たれたら同点、長打を打たれたら逆転の場面。
うちのエースが渾身の一球を放った。バッターはそれを打ち上げた。
そのボールはふらふらと上空に上がり、そしてセカンド方向に飛んできた。俺はいつものように落下地点に入り、そしてしっかり捕球した、はずだった。
この後は詳しく覚えていない。ボールをこぼしたのか、それともまず落下地点を見誤っていたのか。
ただ、ライト側のスタンドで大きな歓声が上がった事だけは、覚えている。
この一球で、俺たちは敗北し、そして夏が終わった。
「ほほう、そんなことがあったんですねえ」
そんな声が隣の席からした。
「……え?」
「いやあ、悲しいですねえ。貴方があのかの有名な元五日市高校野球部の箕田さんですね?」
「有名ってどうゆうことだよ」
「六年前の夏、貴方はネット上の某有名掲示板で奇跡の二塁手として有名になったじゃないですかあ。『物語のように最後に落球した二塁手』として」
「やめろ、まじでやめてくれ……。てかなんで知ってるんだよ!」
「ははあ、現代社会って怖いですねえ」
そう言って隣の席にいる女性はにやにやと笑った。年齢は俺より少し下に見える。
確かに俺はあの時、ネット上で少し騒がれたりした。でも、今はもう忘れている人も少なくないはずだ。
でもこの女は違う。何故か知っている。と言うか、何故か顔も覚えられている。なんで俺はこんなやつにトラウマをほじくり返されなきゃならないんだよ……!
「まあでも、結果的には良かったですよお。甲子園に進めなくて」
ここで俺は、堪忍袋の緒が切れた。
「なんでだ? おい、なんでお前にそんな事が言えるんだよ!」
「まあまあ、静かにしてくださいよお。電車内ですよ? まあ、それにちゃんと理由があるんですってえ」
「理由……?」
「まあ、それは一旦置いといてえ……。これから何処へ向かわれんですかあ?」
「なんで置いとくんだよおい!」
「しーっ。周りからにらまれてますよお……?」
そう言って指を指された方を見ると、本当におばちゃんに睨まれていた。
「ともかく、これから何処に行くんですかあ? まあ、知っているんですけどねえ」
「じゃあ、何処だと思うんだよ」
「みなとみらい駅で集合して、そこから徒歩で赤レンガ倉庫を散策、そして日本丸公園を通って最後はランドマークタワー、ですよねえ?」
「なんで、お前……」
思わず絶句した。全て、これからの予定通りだった。
「ふふふ。だからまあ、隠し事は無理ってことなんですよお?」
そう言ってこの女はまた、ニヤニヤと笑った。そして俺は願った。この女を早くここから消してくれ!
「そして話は戻るんですけどお。なんで貴方が甲子園でに行かなくて良かったかって言うとお、まあ貴方が甲子園に行くと私が生まれないんですのねえ」
「どういうことだ?」
「分からないのも無理は無いですねえ。ちなみに貴方、もし甲子園に行っていたら今の貴方みたいに一浪して必死に勉強して大学に行かなくてもお、推薦が取れたんですよお」
「そんなの、分からないだろ。推薦なんて来ないかもしれないし」
「いや、それが取れるんですよお。六年前のあの年、貴方が甲子園に出ていたらベストエイトでしたからねえ」
この女は何を話しているんだ……? まるでその先の事が予測できているかのように。
そしてこの女は続ける。
「でもお、貴方は大学で大きな怪我をして野球をやめ、何もかもを投げ出してしまうんですけどねえ……」
「……なんでそんな事が言えるんだ?」
「それは、その時のそれを私はさっき見てきましたからねえ」
俺の思考回路はショート寸前だった。こいつはもしかして、頭がおかしいやつなんじゃないか? でもそれにしてはいやに現実のように物事を喋っている、そんな気がした。
「まあ、とりあえず、貴方はあの時負けていたのが一番の幸せなんですよお」
「……納得できないな」
「納得なんてする必要、ないんですよお? 世の中は基本的になあなあで動いていて、なあなあにしちゃいけないのは結婚くらいなものですよお」
「そんなもんなのかな、世の中って」
「でも、貴方は少し心の荷が下りたんじゃないですかあ?」
そう言われて気が付いた。何故か、俺が最初に抱いていた野球に対する嫌悪が、そして六年前の後悔が、少し薄れていた。
「貴方は許しが欲しかっただけなんですよお。六年前のあの日の、許しが欲しかったんですよお」
確かにあの日から、俺はチームメイトを遠ざけていたし、彼らも俺を遠ざけた。両親や親族は敢えて、あの話題には触れなかったし、友人たちも野球の話題を俺の前ではしなかった。
みんながみんな、腫れもののようにあの話題を扱った。
こうして直接許してくれたのは、この女が初めてだった。
「そうなのかもな。なんでだろうな、でもなんで俺は今さ、凄い泣きそうなんだろうな……」
「今泣くのはやめた方が良いですよお? 腫れぼったい目で会う事になっちゃいますからねえ」
それを聞いて、俺はぐっと涙をこらえた。そうだ、俺は今からデートなんだったな。
――まもなく、みなとみらい駅に到着します。お出口は右側です。
アナウンスが流れた。車窓は暗いトンネルから明るいホームに移り変わった。
「そう言えばお前、何者なんだ……?」
俺は席を立つ直前、そう問いかけた。
「ふふふ、秘密ですよお」
女はにやにやと笑った。
ドアが開く。俺は電車を降りる直前、後ろを振り返った。しかし、そこにはもう、あの女の姿は無かった。
俺は人の流れに逆らわないように階段を上りながら、時計を見た。待ち合わせ時間丁度十分前。丁度良い具合だった。
「あ、そういえば一つ言い忘れていたんですけどお、その鞄に入ってる指輪を渡すなら今日が良いですよお」
「お前まだいたのかよ! それになんで指輪の事まで……」
いつの間にかあの女は私の隣を歩いていた。
「私には隠し事は無理なんですよお? 貴方がここ三ヶ月くらい、ずっと指輪を渡せていないのも分かっていますからねえ?」
そう言って女はにやにやとまた笑った。
「頼むから消えてくれ!」
俺は思わずそう叫んだ。すると
「ではではまた会いましょうねえ」
と言って、女は突然俺の隣から姿を消した。
俺は目を見張った。思わず足を止める。すると後ろのおっさんとぶつかり舌打ちをされた。
この超常現象に首をかしげながらも、何かどうでも良い気持ちになった。世の中はなあなあなのだ。
そして、改札を抜けると彼女はもう既に待っていた。
「ごめん、待たせた」
「うんうん、全然待ってないよお」
何故かこの時、彼女からあの女の気配を感じた。何故だろうか……?
「じゃあ行こっか」
しかし俺はあまり深く考えるのをやめた。そこは今、どうでもいいのだ。今一番重要なのは、どうやって鞄の中の指輪を渡すか、それだけである。
高校時代の在庫品から。