戦の果て 弐
翌日目を覚ました私は、男が眠っていることを確認し、そっと家を出た。
私と出会ったことならば、夢とでも思ってくれればいい。存在しえない娘を、彼は家に泊めたのだから。
「ありがとうございました」
お礼を告げると、心なしか彼は微笑んでくれたように思えた。
それに満足した私は、方角を確認して歩き出した。何も、走っていく必要はないだろう。
外はまだ少しだけ暗くて、正確な時間はわからなくとも、朝早くだということはわかる。
今日は泊めてくれる人に会えたけれど、何日もそんな幸運は続かない。あまりゆっくりしていても、それには危険が多いから気を付けないといけないね。
歩きながらのんびりと考える。
そう言えば、私の脱出にもう気が付いたのだろうか。探しているかもしれない。
女装しているから疑われないと思うけれど、どうだろうか。
少なくとも『源頼朝が逃亡した』みたいな感じで指名手配をされたとしても、それは大丈夫だと言える。ただ、あいつらの目を誤魔化せるかが心配だ。
女装くらいはさせられたこともあるし、やはり逃げるが勝ちかな。
途中で馬も入手し、私は食事も摂らずに走らせ続けてきた。
急ぐ必要はあるまいが、不安というものはある。仲間がいるという場所へ、早く向かいたいという気持ちは、決して弱くない。
疲労困憊とはならないほどの急ぎ方で、私は方角を確認しながら一人で進む。
もう日が暮れて、外はすっかり暗くなっていた。だがその日のうちに、それらしき場所へは着くことができた。
当然、入ろうにも疑われて止められてしまう。
そんな中で私は、父上に仕えてくれていた、懐かしい人たちを見つけたのだ。そうしたら、駈け寄らずにはいられないだろう。
上に立つには、下からの支持が必要だ。だから、そういうことにして、私は小走りに寄っていく。
ま、本当はそれがだれなのかすらわかっていないのだけれど。
源家と思しき紋章と、聞こえてきた会話に、父上に仕えた人なのだろうと推測しただけのこと。
「久しぶりだな。打倒平家に立ち上がってくれて、ありがとう。源家を忘れないでいてくれて、ありがとう」
近付いても、まだ私がだれであるのかわからないみたいだ。女装しているからかな。
「父義朝の死から、早や二十年が経とうとしている。今こそ、その仇を討とうではないか」
仕方がないので、あえて源義朝が父であることを伝えるように、かたき討ちの言葉を述べた。
源家の息子であることをわかってもらえれば、拒まれはしないだろう?
私が長男じゃないからって、わかってくれるはずだ。ちゃんと受け入れてくれるはずだ。
「頼朝だ」
一人が私に語り掛けてくれようとするが、名を呼ぼうにも、間違ていたことを考えて呼べなかったのだろうか。そっと、私は名を伝えた。
「あぁ、頼朝様にございますね。よくぞ、生きていて、ここにいらして下さいました」
なんと良い響きなのだろうか。頼朝様、か。跪かされてばかりだったから、こうして跪いてもらうというものにも、あまり慣れない。
ただ、気分は良いものだな。
これからはだれも私に仕え、私のために戦ってくれるのか。これからは、私が何もを操るようになるのだ。
私の時代がやってくる。
「兄上はどうなさったのだろうか」
はっきりと父の死については聞かされた。枕元に立ったのだから、あのときには、もうきっと死んでいたのだろうと思う。
しかし兄については聞かされていないので、死んでいるとは思うけれど、一応問い掛けてみた。
私が一番でなければならない。だからもし兄上が生きているなんてことがあれば、消えてもらわなくちゃだものね。
「はっ、畏れながら。頼朝様がいらっしゃるまで、一族諸共、その……」
「殺されたものと?」
意地悪くもそう言った私に、小さく頷き返してくれた。
情報管理に抜かりはなかった、ということか。
ならば兄上がどこからか現れる、なんてことさえありえるんだね。
「私が生きていたように、兄上も生きているかもしれない。もしかしたら、父上も生きているかもしれない。弟も、生きているのかもしれない。もしかしたら、いつかみんなと再会して、前みたいに笑えるのかもしれない」
悲しげに語る私に、だれも悲しげな表情を浮かべてくれた。ご機嫌取りのためにつちかった演技力が、ここでも役立っているというわけだ。
もう感情を面に出すようなことはないだろうし、表情を作ることもできよう。
私が頂点に立つためには、あの辛い日々も必要なものだったのだろう。
脱出に成功した今だから、そうも思える。耐え続けてきたあの日々は、無駄な日々ではなかったのだ。私に我慢を教えてくれた。
武士の子として育てられ、誇りを持っていた私は、それまで我慢など知らなかったからね。
「でも私は、それが叶わぬ願いなのだとしても、みんながそこにいてくれれば構わない。だれもが幸せになれる世を作ろう」
実際の私が導くのは幸せの世ではないだろう。辿り着く場所を私は知っている。
――戦の果て。




