終焉のプロローグ
「はぁ……はぁ……」
私は走っていた。
本来の人間としてではなく、一つの生物として。
逃げていたのだ。恐ろしいものから。
食われる前に逃げなくてはいけない、草食動物のように。
ただ、逃げる対象はライオンなんてものじゃない。かといって、ファンタジーに出てくるような怪物でもない。
人間だ。人間に追われているのだ。
正直なぜ私が追われているのかわからない。
走る度に以前は誇りに感じていた長くて綺麗な黒髪は汗が染み込み、口に入る度にその場に座って吐きそうになる。
でも、そんなことはしていられない。当たり前じゃないか。逃げなきゃ捕まる。
なぜ、こんなことに?
原因ははっきりとしていた。
突然空を覆い尽す光。
その光は刻一刻と明るさを増し……
私たち……いや、おそらくは世界を飲み込んだ。
何かの災害?いや、違う。
光が過ぎ去った時、景色は変わらなかった。
そう、『景色は』変わらなかったのだ
その時、高校生の私は二人の友達と仲良く下校中だった。
しかし、その光に覆われたとき……
その場は私だけになっていた。
その後は、何故かは知らないが現在にいたる。
高校でも茶道部で運動には縁がなかった。だけど、何故か平均よりかなり速かった。
でも、筋肉と心臓と肺は鍛えてない。この逃げはそう長くは続くはずもない。
「んくっ……!!」
ふくらはぎに突然激痛が走り、足がもつれる。迫りゆく地面が、まるでスローモーションのようだった。とっさに腕を出し顔を守った。いや、守るというより、迫る地面が怖くて目を覆っただけか。
それでも立ち上がろうとした。この場での立ち止まることは……死だと直感したからだ。
「あぁ……!」
けれど現実は残酷だ。どうやらつってしまったらしい。もしかしたら筋断裂の可能性もある。
足には激痛が走り、無情にも自分の体重さえもさえ支えられないくらいに損傷している。
「はぁ……はぁ……いつまで逃げるのかと思ったよぉ…」
仰向けに転がっている私を見下ろすのは、ひょろ長い影だ。
それは声からして男性だ。背は高いが全体的に細い。細いといっても、不健康的な細さ。まるで骸骨だ。
黒縁メガネをかけている顔面は……頬は痩せこけてニキビだらけで正直恋愛の対象から真っ先に外れるものだった。
彼はあまり運動なれをしていないみたいだ。だからこんなにも私は長く逃げられたんだ。
そんなことをボンヤリと思っていると、男の顔にニチャっとした笑みが張り付いた。
ゾワッ……と凄まじい不快感が背筋を走る。
嫌な予感がした。
「僕の周り……だぁれも居なくなっちゃったんだぁ……。家族も居なくなって……友達に電話しても繋がんなくて……」
彼は不安そうに顔を歪めた。あぁ、彼も不安で不安で仕方がなかったかもしれない。誰も居なくなって……悲しかったんだろう。なのに、私は逃げた。かわいそうなことをした。
そんなことを思った私の心境は最悪の裏切られた。
男はズボンのベルトを外してズボンのチャックを開けて言ったのだ。礼の気持ち悪い笑みを浮かべて。
「交番にも……だぁぁぁれもいなかったんだ♥」
その先のことを幸か不幸か……私はわかってしまった。犯されるのだ。警察がいないから助けも来ないだろうと。
だから犯されるのだ。
「いや……こないで……やめて……!」
私はまた立ち上がろうとして足を地面に立てる。
瞬間、ビキッと足が悲鳴をあげ崩れ落ちた。激痛のあまり声も出なかった。
男は息を荒げながら自慢げに変なことをくちばしった。
「あの光のおかげか……僕は異能を手に入れたんだッ!…これで、今まで散々馬鹿にしてきた奴らを……」
い、の……う?
私は苦痛と諦めが支配する頭の中で聞きなれない単語を反復していた。
だめだ、脳が考えることを放棄してる。
男が震える手でおもむろに出したそそり返った男性器を見ても、ただ虚無感だけが頭を支配する。
制服のスカートの中に手を入れられ、自分の股間が唐突に冷たさが覆われるのがわかる。
下着を脱がされたのだろう。
そうされて、ようやく私の思考回路はわずかに機能した。
死のう。
こんなことになるくらいだったら死んだ方がいい。
そうだ、舌を噛もう。それだったらできる。痛いかもしれないけれど、もう慣れた。
男はそそり立つソレを私の秘部に押し付けている。
その時には私は舌を両顎の歯に挟み込んでいた。
もう、死ぬつもりだった。
「お、お前らが……お前らが悪いんだ……僕を……僕を悪く言うから……」
男がそう言うのが聞こえる。
でも、そんなこともどうでも良くなっている私は何も言わず、目を閉じた……さぁ、死のう。
ブシャッ……!!
「ぐ……あぁぁぁぁあぁぁ!!!!???」
唐突に上がる悲惨な叫び声、それが私を犯そうとした男の悲鳴だと気づくのに時間がかかった。
私は目を開けた。夕焼けの眩しい光に目が眩んだが必死に目を凝らした。
そこには、もう一人……人間がいた。
それは……おそらくは少年だ。両方の手に怪しく光る物を持っている。顔は逆光のせいで見れないが……目だけは何故か見えた。
赤く、本当に赤く輝いていた。
怪しく妖しい綺麗で悲しいくらいに赤い。
でも、安心するような……赤。
「な、なんなんだよ!お前ぇぇぇ!!」
男の腕はなかった。何かの刃物で斬られたのか、その断面は血で濡れてはいるが標本のようになっていた。
私は元来、そういうグロテスクは苦手で、このような度を越すものは吐いてしまうくらいだ。しかし、不思議と嘔吐感は全くと言っていいほど押し寄せてこない。いきなり訪れた状況に脳が追いつかないからだろう。
男の腕からはおびただしい量の血が吹き出している。
いずれは死ぬだろう。
「………」
そんな叫びを聞いてないかのように、少年は手に持っていた光る物を男に投げつけた。
赤く怪しく光るそれは、ビデオの巻き戻しのように、元いた位置に戻るかのような自然さで男の額に吸い込まれていった。
ストッ!……と予想外に軽快な音が鳴り響きソレは男の額に元から植えてあったかのように刺さった。
ドサッ……と音がひびき男は棒のように倒れた。
少年はその光景をボーッと見つめていた。
……彼はいったい何者だろうか。なんで私を助けてくれたのか……。
そんな疑問の嵐は唐突に止んだ。
彼の膝がガクッと折れ曲がったかと思うと、崩れ落ちるように倒れたからだ。
私はその光景を何も出来ずに見ていた。頭の処理が追いつかない。
ただ、自然に立ち上がった。怪我をしたのは右足で左足だけで立てば楽に立てた。さっきはよほど混乱していたのだろう。
そうして、冷静さを取り戻した私はさっき起こった出来事を思い出して、吐き気を催した。
私は倒れている少年に背を向け、一人嘔吐した。
そうだ、私は……犯されそうになっていたんだ。
私は処女で……危うく大事なものを失うところだった。
そして、自分の命でさえも……
そう考えたら、急速に少年への思いが疑惑から感謝に染まる。
私は、恩人に対して最初に感謝もせずに疑った。最低だ。ほんとに最低な女だ。
私はこちらに背を向けて横たわっている少年の体を仰向けにした。
少年の体は予想以上に細く、そして白かった。
髪は黒く、ほんの少し長めかもしれない。
まるで寝ているかのように目を閉じてる顔は、比較的童顔であどけなさが色濃く残る。
おそらくは中学生だろう。顔立ちは整っているのだが、かっこいいというより少しかわいらしい印象をうける。
「ん……なにこれ」
私は彼のそばに落ちてた黒いものを拾った。
それは財布だった。
中を見るのは……マナー違反かもしれないけれど、この非常事態だ。少し躊躇しながらも中身を見た。
現金は入ってなかった。いや、現金を使ってどうするということでもないのだ。もう人がこんなにも居なくなっている中で金が使えるとは思えない。
私が欲しいのは身分がわかるものだ。身分証明、運転免許証、そして学生証。はやく彼のことを知りたかった。名前だけでも、一刻もはやく。
それはすぐに見つかった。ポイントカードなどを入れるスペースに無造作に入っていたからだ。
少し意識がない彼に、心の中でごめんなさいしてから学生証を読む。
通う学校はこの辺でかなり有名な進学校だった。おそらくは全国クラスだろう。中学二年生で、年齢は13歳、誕生日は12月25日、クリスマスだ。
そして、一番知りたかったことがあった。
私は思わず呟いていた。
「名前は……橘……誠……」
普段なら鴉の鳴き声がうるさくなるこの時間、静寂をこの世界を包んでいた。
これが私、箕輪夜弥と彼との出会いだった。