3-23
◇
彼女の人生は、ほとんどが痛みと共にあった。
まだ字も禄に覚えていない頃、母と父に連れられ、白い部屋で眠りに着く。
それからというもの、頭から爪の先に至るまで、痛みが全身を襲った。
『い……ギ、……ああああああぁぁ――――ッ!!!? 痛いィ!! 痛いよォ!!!?』
「頼むよ、エリナ……我慢してくれ。これで僕らは、国王に取り入る事が出来るんだから」
「辛いのは分かるわ、エリナ。でもお母さん達、あなたの為にやっているのよ……?」
薄ら寒い、白々しい言葉が並べられる。
彼らは何を言っているのだろう?
この苦しみを理解していたというのなら、どうして彼らはあんな風に笑っていられるのか。
それだけがどうしても、彼女には分からない。
『……し、て。……ころして、ください』
だってこれを知ってしまったら、もう一秒だって生きていたいとは思えない。
自ら胸を裂き、心臓を握りつぶしても生き続ける恐怖。
脳を磨り潰したとて、陽が昇る頃には目を覚ます絶望。
こんなものは、人間の生き方ではない。
だというのに、どうして?
そして、幾年かの月日が流れ、ようやく痛みを抑え込められるようになった。
それからは王国の実験体として大陸中を連れ回され、B-Raidの操縦を学び、殺すだけの日々。
化物と畏れられ、怪物と吐き捨てられ、頭の中をいじくり回される。
中には優しく接してくれる人……少女もいたけれど、そんなものは極少数だ。
1年に1回だけの休日に両親に会いに行こうとも、新しく出来た子供に愛情を注ぐばかりで見向きもされない。
だけどいつか、あの穏やかな平原の家に家族で帰れるのだと。
そう信じて、少女は来る日も来る日も機械に乗って戦い続けた。
「実験体なんて、気持ち悪い……あなたなんて、産むんじゃなかったわ」
―――その言葉を聞くまでは。
◇
「……なるほど。これが貴様の記憶か、エリナ?」
そうして、アグレアスは静かに呟く。
彼が立つのは、薄く広がる大地。
平原と呼ばれるであろうその場所は、恐らくエリナの故郷だろう。
ならば、背後にある小屋は彼女の生家か。
「何だ、これは……?」
その平原は燃えていた。
美しく咲き誇っていたであろう花々は焼かれ、空は血のように赤い。
頭上の太陽はひび割れ、黒々とした光を放つ。
正しく、ここは地獄だ。
そんな地獄の中心で、エリナはアグレアスを待ち受けていた。
いつか贈った白い服とは正反対の、黒い衣装を身につけた少女。
それは銀の髪とよく映え、しかしいつもと異なる妖艶な雰囲気を感じさせる。
そして、エリナが寂しそうな笑みを浮かべ、口を開く。
「……魔王さ────」
────すかさず、魔王は雷撃魔法を撃ち放った。
「ちょおおおおわああああああああッ!?」
驚いたような声を上げ、エリナは全力でそこから飛び退く。
さっきまで彼女がいたのと寸分違わぬ場所に大きな雷が直撃し、大地を深く抉った。
「何するんですか!? いくら魔王様でも、流石に頭がおかしいですよ!? そういう空気じゃないでしょう、今は!?」
「……む? 違ったか? イリス達と意識を繋げた時は、とりあえず殺し合いを始めたものだが……」
「私を、そういう人達と同じにしないで下さい!」
微妙に端の方が焦げてしまっている服を見て、エリナは嘆息する。
その彼女を眺め、アグレアスは腕を組んで頷いた。
「しかし、意外にも元気そうではないか」
「そう、ですね……表の私の暴走は、この私には影響がありません」
「では、さっさと暴走を解け。意識の深層たる貴様が働き掛ければ、自我を取り戻す事は出来よう」
「それは……出来ません」
目を伏せて、彼女はアグレアスの要求を断る。
声こそ震えていたが、込められている意思に迷いは無い。
アグレアスも、彼女が纏う空気が変わった事を察した。
「何故だ?」
「私はかつて、どんな負荷にも耐えられる人間を目指し、特殊なナノマシン手術を受けました」
アグレアスも彼女の記憶を垣間見た為、それは知っている。
今にして思えば、魔力を利用して人間の身体を強化させ、魔物を葬るつもりだったのだろう。
その目論見はある程度成功し、彼女は超常的なB-Raidで戦場を駆ける事になる。
「実験は、暫くは順調でした。けれど、私はある日、自分自身の制御に失敗したんです」
それが、彼女が家族を殺した日。
守りたいと願い、いつか救ってくれると信じていた人達に裏切られた瞬間だ。
「貴様が、親を殺した日の事か」
「っ、……はい」
「そうか。つまりは、復讐も終わり、生きる意味としていた者達も消えてしまった、だからこのまま意識を取り戻すことなく、もう死んでしまおうと?」
すらすらと、歌でも歌い上げるようにアグレアスは言う。
その様子に、エリナは若干の違和感を覚えたようだが、緊張した面持ちでとりあえず首肯する。
「……ええ、そうで───」
「───いや、それは間違っている」
アグレアスは、きっぱりとそう言った。
「な、何を……?」
「お前の言っている事は正しくない。そう言った」
混乱を顔に浮かべたエリナは、彼の返事を聞いてますます動揺する。
この人は何を言っているのだろう、そう言いたげだ。
「いいか? 精神が磨り減り、本当に生きていたくないと望む者は、例え不死であれど、そのまま足を止めて朽ちていくものなのだ」
それはつまり、緩慢な自殺。
アグレアスが見てきた中で、最も落胆した人間の行いであった。
「だが、エリナ。貴様はそうではなかった。奴隷となっても笑い、生きている」
「それは……」
「安心出来る誰かに仕えていたいという願いはあるだろう。だが、それだけではない理由が……しぶとく足掻いている理由があるのではないか?」
遠まわしに言っているが、アグレアスはその正体に気がついていた。
「貴様の復讐は、まだ終わっていないはずだ」
確信に満ちた言葉。
それを聞いたエリナは怯えたように肩を震わせ、しばらくしてから小さく頷いてみせる。
「…………はい。ええ、その通りです! わ、私は、私をこんな風にした王国が、憎いっ!」
怯えた表情のまま、血を吐くようにして叫ぶ。
恐らく彼女は、生まれて初めて人を呪ったのではないか。
そんな事を思わせる、ひどく拙い叫びだった。
それを聞き、アグレアスは嬉しそうに顔を輝かせる。
「うむ、そうだろう。そして、エリナ。ならば貴様は、その為に生きればいい。貴様に理不尽な運命を押し付けた人間を打倒しろ」
「で、でも、復讐の為に生きるだなんて……そんな事が許されるんですか……?」
「許す。この俺が許そう!」
燃え盛る火の海の中で。
快活に笑って、アグレアスは言った。
「貴様の主人である、この魔王が許す。他に誰の許しが必要なのだ?」
「……あなたは、本当におかしな人ですね。でも、私を許してくれる人なんて、あなたくらいです」
困ったように、けれど少し嬉しそうにエリナははにかむ。
「────私は、生きていてもいいんですね」
「……無論だ。貴様は弱い。だから、この俺がずっと守るとも」
「ふふっ、告白されちゃいました」
彼女が白い肌を薄く紅潮させ、目の端に涙を浮かべている理由はきっと、悲しさでは無いのだろう。
親から否定されたものを、やっと取り戻す事が出来た安心感。
親という存在がいないアグレアスだったが、そう推測する事は出来た。
(……まさか、俺がここまで人間に肩入れする事が来ようとはな)
「さて、ではさっさと表の暴走を止めるぞ」
「は、はいっ! あっでも、その前にあれを倒さなければいけませんね」
「なに?」
瞬間、アグレアスの立つ場所からほんの少し離れた地面から爆発が生じた。
アグレアスもそれに巻き込まれ、彼方へと吹き飛ぶ。
爆発は連続せず、狙いすましたかのよう。
見るものが見れば、それがB-raidの砲撃である事が分かっただろう。
「げほっ! な、何事だ!?」
「あー、懐かしいですね! 今のはきっと滑空砲です! ちょっと型が古くて取り回しが悪いんですけど、丈夫だったので重宝してました!」
そんな事は聞いていない。
だが、エリナが顔を向けている方を見れば、原因が分かった。
彗星。
そうとしか形容出来ない速さで、一つの物体が飛んでいる。
「……何だ、あれは?」
「現役時代の私の愛機、バルムンクです」
飛竜を易々と超えるスピードで空を飛ぶそれは、厚く黒い装甲を持ち、長大な滑空砲を手にしていた。
先ほどの爆発はアレの仕業だろう。
この世界は、記憶や心の抑圧によって構成されている。
ならばこそ、ああいったものが出てきても不思議はない。
「私はバルムンクで、多くの人を殺してきました。だからあれはきっと、私の心の罪悪感や恐怖が形になったもの」
つまり、バルムンクを倒さなければ、この燃え盛る荒野からエリナを解放する事は出来ない。
自らの復讐を認める事は出来ないのだ。
バルムンクは全身の加速器を噴かし、黒い光となって魔王に襲い掛かる。
「─────面白い!」
対峙する魔王は、いつの間にか剣を手にしていた。
重く、大きな剣だ。
痩せた体を持つ今の魔王では、例え魔法で肉体を強化したとしても扱うのは困難だろう。
だが、彼の身体は変化していた。
体格は筋骨隆々となり、髪は炎ように赤く染まっている。
……即ち、全盛期の魔王の姿へと。
「魔王様っ、その身体は!?」
「バルムンクとやらが記憶から作られたように、俺も俺自身を記憶から作っただけだ」
エリナへ応えながら、攻撃魔法を展開する。
以前とは比較にならない威力の炎や雷による攻撃。
だが、黒い化物はそれらを易々と弾き飛ばした。
表面を見れば、なるほど、表で暴走したエリナを覆っていた泥が防御している。
あれでは魔法は通じないだろう。
だが、
「ならば、この剣で迎え撃つまでだ! ……ちなみにこの剣は、話し合いを求めてきた勇者から巻き上げた聖剣でな、これで奴らを相手にしていると勝手に怒り出して実に愉快愉快」
「……そんなだから滅ぼされたんですよ」
呆れるエリナを尻目に、アグレアスは剣を構える。
そんな様子を警戒したのか、バルムンクは突撃を中断し、手にした滑空砲による射撃を始めた。
中に誰も乗っていなくとも、エリナの戦闘経験から自己判断をしているのだろうか?
「エリナ!」
射撃された砲弾のいくつかを剣で防ぎ、アグレアスはエリナの元へ駆け寄る。
そして、彼女の細い腰に手を回し、飛行魔法を発動させた。
2人は一気に地上から離れ、バルムンクと同じ高度で浮遊する。
燃え盛る大地が眼下に広がり、代わりに近付いたのは壊れた空。
かつて、王国の尖兵となっていた時に戦場とした舞台だ。
「後悔はないか?」
アグレアスは未だに空を飛ぶ事に慣れぬのかもじもじしているエリナに対し、微かに迷いを見せた顔で問い掛けた。
だが、彼女はアグレアスに寄り添う力を強くして答える。
「いいえ。私はまだ、生きていたい」
「───そうか。では、」
彼は前へと向き直り、必殺の突撃を敢行してくるバルムンクへ剣を振りかぶる。
「行くぞ」
そして、突撃が来た。
余りの速度に、弾ける空気。
魔王の剣と胸部装甲が重なり、均衡状態を作った。
剣が軋む。
人間に与した飛竜。
百を越すゴーレムの群れ。
数多の強者を屠った魔法の剣が、人間の作った機械ひとつに圧されている。
「ぐっ……!」
彼一人では、圧し負けるだろう。
だが、魔王の背後にはエリナ。
彼女は最初の衝撃から続く風圧を受け、崩れていた体勢を立て直し、手を伸ばす。
すると、バルムンクの動きが明らかに鈍った。
見れば、加速器の幾つかが停止し、関節部分に何かが干渉している。
泥だ。
エリナを苦しめる、半分魔法の存在とも言える液体が彼女の腕から機体に取り付いたのだ。
急激に速度が低下したバルムンクの胸に、剣が食い込んでいく。
バルムンクは内蔵された小火器を発射して原因を排除しようとするが、全く通じない。
アグレアスに飛んできた流れ弾も、防御魔法によって防がれた。
「これで、終わりだ……!」
最早打つ手が無くなったバルムンクに対し、アグレアスはありったけの力で剣を叩き込んだ。
両断される装甲。
更に、息つく間もなく繰り出された剣戟によって機体そのものが粉砕されていく。
と同時に、エリナの世界自体もその役割を終え、溶けるようにして消え始めた。
家族の思い出が詰まった家も、罪の象徴であるバルムンクも、全てが消える。
エリナだけを残して。