1-6 変わりゆく世界
諦めにも近い感情を抱いていたエリナを見て、アグレアスは何を思ったのかグラムから飛び降りる。
そしてエリナに詰め寄って、彼女の顎にそっと手を添える。続いて自分の顔をぐいと近づけ、
「ふむ」
「え、え、あの」
(顔! 顔が近いです、恥ずかしい……!)
持ち前の暗く淀んだ目つきのせいなのか、顔立ちの割にはどの男にも相手にされて来なかったエリナにとって、互いの息が掛かるほどの距離は初めての経験だった。更に、眼前に迫る顔が意外と端整なそれである事が分かったりしてもうだめだ。
アグレアスはそんな彼女の心境などおかまいなしにゆっくりと観察し、口を開く。
「安心しろ、エリナ。例えどんなにお前が弱くても、俺はお前を護ろう」
それは、つい先ほども聞いたような台詞。
だが、何度聞いても慣れる事は無く、そして何度でも聞きたいと思えるような。
そんな、温かい言葉だった。
「というわけでエリナ、あのボルドーとやらの全財産を奪うぞ!」
「はい……え?」
「見てみろ。あの男、しつこい事にまだ死んでおらん。治療魔法の一つでも掛けてやれば、拷問くらいは出来るはずだ。そこのグラムも売り払ってしまえば十分な資金も得られよう、フハハ!」
我が耳を疑う、そんな言葉が今の状況には相応しい。
エリナを助けると言っておいてこれなのだから、一体どれだけ傍若無人なのだろうか。
ひとしきり笑い終えたアグレアスは、波止場から遠く彼方に見えるアルテリアを睨む。
「エリナ、この辺りは東の地方か?」
「いえ、西ですね」
「なんと……では、よりにもよってあやつの封印を解かねばならんのか……」
アグレアスにしては珍しく、苦虫を噛み潰したような表情をした。
よっぽど苦手なものでもあるのだろうか。
「重ねて尋ねるが、あの辺りに神殿か魔物が封印された場所はあるか?」
「そうですね……」
心当たりがあるとすれば、「猫の像」だろうか。
アルテリア内でも一際長大な建造物、「ベイン・タワー」の最上階に設置されているという曰く付きの品だ。触れれば万病に利くだとか、逆に呪われるだとか噂されているが、確かな話はエリナの知るところではない。
その話を聞いたアグレアスは得心した風に頷き、
「なるほど。では、俺達はボルドーの棲家に移った後、そのベイン・タワーとやらを目指すとしよう」
「でも、魔王様は多分チップが無いのでベイン・タワーには……」
「チップ? まあいい、行くぞエリナ。世界を征服しに、だ」
世界の征服。
未だ誰も成し得なかったその悪行を、彼は本気で成そうと言うのだろうか。
この世界にはまだ、王直属精鋭ブレイド部隊「帝王神剣」がいて、大陸を虎視眈々と狙う恐るべき外敵がいて、数は少ないながらも甚大な被害を及ぼす魔物がいて、その他諸々の脅威があるというのに。
あんなにも楽しそうな顔で、アグレアスは笑っている。
「ああ、世界はこんなにも楽しい。楽しくて、美しい。だから、だからこそ───」
海風が、彼女達の髪を靡かせる。
金と銀。
奇しくも、相反する色を持つ二人が出会ったこの日、史上最悪の武装勢力「魔王軍」による二度目の決起が行われたのであった。
第一話「魔王転生」
終
And...
そこは部屋だった。
貿易、政治、建築、戦争、そして魔力、あらゆる現象を計測する為の部屋だ。
中央には液体に満たされたガラス球と、その中で怪しく沈む「何か」。そしてそれらを取り囲む、無数の計器類と機械群。
約二十名程の人間がそうしたものを一心不乱に操作する様子は、狂気じみた熱を放っていた。
まるで、一万年前に世界の全てを手に入れようとした誰かが、その部屋を使っていた頃のような。
「Bシステムに異常反応! 計測結果、出ます!」
他の者と同じ様に白衣を身に纏った、男の鋭い声が飛ぶ。
同時、ガラス球の前面に展開された空間投影型モニターが、短く名前を告げた。
「魔力反応検知! システムはパターンを『アグレアス』と断定!」
「既知の存在だと言うのか!? しかし、そんなパターンはメモリにも無いぞ! それで、位置は!?」
「大陸西部のようですが、反応が小さい為に詳しい位置は不明です!」
見た事の無い名前に、ざわめく白衣の集団。
魔物の発見を中心として運用されてきた魔力発見機能だが、ここ数年は目立った反応もなかったのだ。故に外敵対策にリソースを割り振られ、精確な位置計測を一時的に停止させていた。それが裏目に出た形になる。
よもや大型の魔物が出現したというのか。
そういった種類の生物は魔力の流れを乱し、現在の魔力が希薄となった世界を変えてしまう恐れがある。
早急に排除せねば、一万年前続いてきたというこの機関の名折れとなるだろう。
「『帝王神剣』を向かわせます」
そう宣言したのは白衣の男達が集まるこの部屋には不釣り合いな、薄緑色の瀟洒なドレスに身を包んだ少女だった。
白衣の者達を見下ろし、一段高い階層から指示を出す者だ。
その幼い外見とは裏腹に、敵を打倒する強い意思を表す光を目に宿していた。彼女は捕食者であり、強者だった。
「しかし、姫様。現在、彼らのほとんどが任務に当たっています。残る者といえば……」
「はい、心得ております。未だ、候補扱いの彼女しかいないのでしょう。しかし、この国の王族として見過ごす訳にはいきません」
そう、見過ごす訳にはいかないのだ。
かつて事故で命を失った姫の親友、誰に対しても優しかったあの少女の為にも。
密かな決意を胸に、幼き姫は祈るように目を閉じる。
そうして各々が不安に駆られる人間達を他所に、ガラス球に潜む深淵はいつまでも示していた。
古く旧い、懐かしむべきその名を。