2-14 儀式3
アグレアスは、エリナの言葉に強い違和感を感じていた。
下僕と言われたから下僕になる。
アグレアスの知る限りでは、エリナはそのような事を言う少女ではなかったはずだ。
「……確かに、俺はお前に下僕になれと言ったが」
「じゃあ、そういう事でいいんですよっ! 私はご主人様の下僕です!」
語尾にハートマークでも付けそうな勢いで、エリナは言う。
アグレアスは、違和感から頭痛を感じ始めていた。
明らかにこれは異常だ。
エリナは多少ぼんやりとしているが、普通の少女だったはず。
自分を下僕下僕とアピールするような人間ではなかった。
「そうだ、ご主人様!」
唐突に犬のポーズを止め、立ち上がったエリナが手をかざすと、どこからともなく食卓用のテーブルと椅子が現出した。
椅子の位置は、ちょうどアグレアスの座っている椅子とテーブルを挟んで真正面。
魔法のような現象だが、ここはエリナの精神であり、決して不可能な事ではない
「食事にしましょう、ご主人様! あっ、それとも先にお風呂にしますか?」
「いや、お前をいただこう」
つい、口が滑った。
儀式の前に見ていた、ドラマという演劇の一種の影響だ。
アグレアスは思う。人間というものは、なかなか度し難い言い回しを思いつく、と。
エリナは赤面するが、意を決したように奴隷服の裾に手を掛け、持ち上げる。
白く、張りのある太腿が顔を覗かせた。
「わ、分かりました、ご主人様が必要というならば……! あの、初めてなので優しく……」
「冗談だ、やめろ」
言われてすぐに、エリナは脱衣の手を止めた。
そして先ほど出現させた椅子に腰掛け、正面から魔王の言葉を待つ。
(どういう事だ、このエリナは俺に対して何を求めている?)
これはアグレアスとエリナの精神の対話だ。
エリナがアグレアスに抱いている警戒を解き、スフィアの接続承認が為されるには、彼女の不安を探らなければならない。
アグレアスに何を求め、何が足りていないのか。
エリナはアグレアスにどうして欲しいのか。
潜在的欲求を理解し、不安を解消しなければならないのだ。
(しかし、このエリナが必要としているものが見えてこない)
むしろ、必要なものが何も無いような気さえしてくる。
そんな風に考え始めていた時、アグレアスは唐突に思い至った。
逆だ。
必要とするのではなく、その逆。
「そうか、エリナ。お前は、誰かに必要とされたいのか」
それは、人間であれば誰でも持ち合わせているような当然の欲求だろう。
だが、エリナは恐らく、何らかの事情でそうした想いが願望の域にまで達してしまっているのだ。
誰かに使われる事で快感を得る、マゾヒスト的な少女。
それが、エリナ。
「……ええ、正解です」
観念したように、けれどどこか嬉しそうに、彼女は言う。
「でも、誰でもいい訳じゃないんですよ? ……だって私は、また私の目の前からご主人様が消えてしまうのが怖い」
消える。
その台詞から、彼女が以前に両親を失っていると話していた事を思い出す。
王都でそれなりに良い暮らしをしていたという事は、裕福で力のある親だったのだろう。
そしてエリナは、彼らに尽くす事で喜びを感じていた、という訳だ。
それが失われ、王都の民から奴隷へと身を落とす。
他人に対して警戒心を抱くには十分過ぎる人生だっただろう。
「本当に、心の底から信用できる人に奉仕したい。それがお前の望みであり、悩みか」
「はい……贅沢、ですよね」
それ以前に、アグレアスの主義に反し過ぎた願いだった。
束縛的で、閉鎖的。
奉仕で得られる喜びは、この小屋の空気のように暖かいものなのかもしれない。
だが、所詮は小屋の中。
自由を殺し、相手に合わせて生きるなど、世界征服を志す魔王にとって容認出来るものではなかった。
だが、
「それでいい。エリナがそれを幸せと思うのであれば、誰もお前を否定出来ないし、させるものか」
戦乱に生き、自由を求めたアグレアスだからこそ、彼女の願いを称えられる。
「魔王様は、優しいですね」
「……馬鹿か、お前は。俺は昔日に幾億を殺し、これからまた死体の山を築く魔王だぞ」
魔王は冷徹無慈悲。
優しいものは、魔王ではいられないのだから。
「……だが。それでも、残酷で、非情で、狡猾な魔王でもよいというのであれば、何度でも言ってやろう。―――俺はいなくならないし、俺には、お前が必要だ」
言葉を紡いだと同時、エリナの胸が光を帯びる。
接続承認を示す、蒼い光。
エリナがアグレアスに対する警戒心のハードルを下げ、精神の繋がりを許したのだ。
「私はまだ、魔王様の事を完全には信じてはいません。だけど、貴方の言葉に、私は凄く安心しました」
「いいのか? 俺はお前を利用するだけかもしれんぞ?」
「利用されるのは慣れてますし、嬉しいですから。ずっとそこにいるって言ってくれるだけでいいんです!」
従順を望み、しかし疑心を覚えた少女の安心。
いつか、彼女から完全な信頼を貰える日は来るのだろうか。
「ふふっ。私の顕在意識はなかなか認めないかもしれませんが、私は貴方こそがご主人様になるって思いますよ?」
彼女が悪戯っぽく笑ったところで、アグレアスの意識は霞んでいった。
侵入の終わりだ。
これ以上のエリナの心に対する干渉は、今は不要といえた。
小屋の周囲に広がる焼け野原、そして川のように流れる黒い泥も今は触れるべきではない。