第68話……夏雨を前に
――聖帝国暦九一八年五月上旬。
帝国軍はついに、パニキア連邦の首都ラスプーチンに向けて、三方面からの大攻勢を開始した。
だが、帝国の精鋭を待ち受けていたのは、無数の土塁と火点であった。
粗末ながらも膨大な数――木材に真鍮、粗製のコンクリートを積み上げて作られた要塞群が、視界の果てまで連なっていた。
「突撃!」
準備砲火を終え、将校たちの号令と共にラッパと太鼓が鳴り響く。
整列した戦列歩兵が白刃を煌めかせ、一斉に前進した。
銃声と爆発音が交錯し、濃煙の中で突撃は敵陣を食い破っていく。
「第一陣、作戦成功!」
「第六班、火点を制圧!」
次々と前線から朗報が舞い込み、司令部の将軍たちは満足げに頷いた。
だが――夕刻になっても朗報は途切れなかった。
つまり、敵陣を突破しても、その先にまた同じ規模の陣地が出現するのだ。
まるで大地そのものが砦となっているかのように。
将軍たちは理解していた。連邦の正規軍はすでに壊滅的打撃を受けている。
目の前の兵は、徴用された市民にすぎない。
だが、その想定と実際の数には隔たりがあった。
敵の数はなんと二十万。攻め掛ける帝国軍の三倍に及んでいたのだ。
さらにその背後では、女や少年、老人までもが強制的に動員され、五十万を超える労働力が昼夜を問わず陣地を拡張していた。
飛行船偵察から届けられた十数枚の白黒写真に、将軍たちは息を呑んだ。
首都ラスプーチンを中心に、放射状に塹壕と火点が掘り巡らされている。
その広がりは、まるで巨大な蜘蛛の巣のようであった。
さらに首都東部の鉄路では、蒸気機関車により遠方の少数民族が続々と徴発されて運び込まれていた。
パニキアは貧しいながらも広大な国土。人的資源は底なし――。
その恐怖が、帝国の将軍たちの胸に冷たく染み込んでいった。
◇◇◇◇◇
ラスプーチン攻略戦のさなか、野戦司令部の天幕には各部隊の参謀と将官たちが顔を揃えていた。
机の上には、飛行船から送られた偵察写真が広げられている。
放射状に伸びる塹壕、幾重にも築かれた火点――その白黒写真は、誰の目にも異様に映った。
「敵は徴用兵にすぎぬ。数は多くとも素人同然だ。突撃を繰り返せば崩れる」
ホーフマン中将が豪然と言い放ち、周囲の幕僚たちも頷いた。
「補給も逼迫していよう。長くは持たぬはずですな」
その場で静かに声を挟んだのは、バーレ少将だった。
彼女は一礼してから、手元の写真を掲げる。
「閣下方のご意見、もっともにございます。しかし……この写真をご覧ください」
彼女の指が、塹壕の背後に映る黒い列を示す。
「これは戦う兵ではなく、作業に従事する民衆でございます。女、子供、老人までもが数十万単位で徴発されていると見受けられます。彼らが昼夜を問わず陣地を築く限り、突破しても、すぐ次の防御線が現れるでしょう」
言葉は静かだったが、その場に重く響いた。
「短期の決戦を想定すれば、消耗は我が方に傾きます。……ここで軽挙すれば、作戦は泥沼化するやもしれません」
天幕の空気が沈み込み、先ほどまで楽観的に語っていた将軍たちも言葉を失った。
重苦しい沈黙を破ったのは、シュライヒ中将の怒声だった。
「――少将ごときが口を挟むな!」
机を叩き、声を張り上げる。
「敵は数に頼るだけの農民や町人だ。わが精鋭に抗えるものではない!」
その言葉に補給参謀の一人が手を挙げ、真剣な表情で続けた。
「少将閣下のご意見も、ごもっともにございます。……ただし問題は時間であります。 この地に夏が来れば、雨期の長雨で道路はぬかるみ、補給車列は動けなくなりましょう。さらに、蚊やハエによる熱病が兵を蝕む恐れがございます」
別の補給官も重々しく頷く。
「ゆえに、長期戦は危険にございます。逆に申せば、雨期が訪れる前に決着をつけることこそ、我が軍の勝機にございます」
シュライヒ中将は満足げに胸を張った。
「うむ、その通りだ! だからこそ猶予はない。夏が来る前に、必ずラスプーチンを陥す! これが最善の道だ!」
将軍たちは口々に賛意を示し、会議は一気に「短期決戦」の方針へと傾いた。
会議が終わるや否や、全軍に「短期決戦」の命令が飛んだ。
後方に温存されていた予備部隊までもが、次々と列車に詰め込まれ、前線へ送り込まれる。
鉄路には補給列車と兵員輸送列車が途切れなく走り、駅頭は黒々とした軍服で埋め尽くされていた。
「これで一気に叩き潰すのだ!」
将軍たちは胸を張り、兵士らを鼓舞した。
だが――現実は将軍たちの思惑とは異なった。
突撃は幾度も繰り返された。戦列歩兵は白刃を掲げて前進し、砲兵は轟音をもって陣地を削り取る。
一時的な突破口は何度も開かれた。
しかし、その先には必ず新しい塹壕と火点が待ち構えていた。
敵は崩れるどころか、まるで大地そのものが抵抗しているかのようだった。
塹壕を埋めても、夜のうちに民衆が掘り返し、火点を潰しても、翌日には別の場所に新しいものが築かれていた。
そのうちに、帝国軍の失血は日に日に激しさを増していった。
前線からは負傷兵が次々と運ばれ、野戦病院は瞬く間に満員となり、廊下やテントの隙間にまで血まみれの兵士があふれた。
呻き声と消毒液の匂いが充満し、軍医たちの顔には絶望の色が濃く刻まれていった。
さらに武器の補給も追いつかない。
毎日休みない砲撃で、蒸気砲弾は枯渇寸前となり、砲兵中隊は「あと二射で弾倉は空だ」と報告を繰り返した。
代わりに旧式の投石器まで引っ張り出す部隊すら現れ、帝国軍の誇る火力は次第にしぼんでいった。
後方から送り込まれる兵力は増しているはずなのに、戦線は一向に動かない。
帝国軍の突撃は血を流すばかりで、決定的な突破には至らなかった。
◇◇◇◇◇
――聖帝国暦九一八年六月中旬。
戦線には、すでに小雨が降り始めていた。
天幕の空気は既に消耗と焦燥に満ちている。補給参謀は数字を並べ、砲兵参謀は弾薬の減少を嘆き、野戦医は病院の飽和を訴えた。
「撤退を言い出せば、議会も世論も黙ってはおらんだろう」
と、ある老参謀が小さな声で言うと、周囲が一瞬静まった。だがその静けさの奥には、もっと鋭い恐怖があった。
誰もが知っている。撤退を決断した司令官は、たとえ作戦的に正しくても、責任追及の矢面に立たされる。失われた戦果、奪われた威信、それらはすべて「誰かの責任」にされやすいのだ。
「思い出せ。一昨年の西部戦線で撤退を主張した第七師団長は、帰国と同時に辞任に追い込まれた。本国の政治家たちは結果しか見ぬのだ」
別の幕僚が囁くと、若い参謀の顔が青ざめた。誰も、その末路を真似たい者などいない。
また別の声が続く。
「仮に撤退すれば、補給線は一時的に保全できよう。しかし政治的には、我らが“攻勢を放棄した”と解釈される。帝都の報告書は手短に、だが冷酷に書かれるだろう」
命令系統の頂点にあるのは軍の論理だけではない。国政、新聞、さらには皇族たちの面子が複雑に絡み合っている。
この場面で撤退は合理的であり――それは人命を守る策だ。
しかし「誰がその決断を下すのか」という政治的コストは、あまりにも高い。バーレ少将でさえ、今は口を噤み、額に深い溝を刻んでいる。
誰も撤退の言葉を口にせず、責任の重さが沈黙を喰っていった結果――方針は一つに絞られた。
「明朝、乾坤一擲の総攻勢を実行する。第一波は午前五時、砲兵の総弾幕で敵陣を削り、その直後に戦列歩兵と騎兵隊で突入する。補給は最終列車を以て前線に集中せよ――以上だ。」
合議で得た作戦案が、重たい鉛のように天幕を満たした。




