第64話……真紅の魔動機、河を望む
――聖帝国暦九一八年四月初旬。
帝国第六師団を基幹とする南方軍は、ロトコフに南方軍総司令部を設置した。
我が第一混成旅団に下された新たな命令は、連邦支配下のロール自治領への進撃である。
我々は補給を整え、南下して自治領に侵入した。
散発的な抵抗は数度あったが、いずれも軽く退け、ついに自治領首都マルコフをデリア河の対岸に望む位置まで進出する。
デリア河岸の防御陣地では、土嚢に凭れかかった徴募兵たちが空腹に顔をこわばらせ、銃を抱えながらも視線は地面に落ちていた。
濁った河風に翻る連邦旗の下、誰一人として前を睨もうとはせず、ただ寒さと恐怖に震えているようだった。
◇◇◇◇◇
幕僚が集まる野営地の天幕。
私は、湿った外套を脱ぎながら情報将校の報告に耳を傾けていた。
「敵を指揮するは、連邦の老将モルドフ。齢七十を超えますが、かつてはパニキア解放の英雄と謳われた人物です」
「士気はどうだ?」
「芳しくありません。徴募兵が大半で、腹を満たす食糧も乏しい。……ただし、兵の多くは故郷を捨てる覚悟もなく、我慢して城壁にしがみつく気配が見えます」
幕僚の一人が笑った。
「ならば容易い。腹の減った兵に戦はできん。三日もあれば陥ちるだろう」
幕僚たちが笑い合う最中、外から伝令が駆け込んできた。
「報告! デリア河の橋に、敵の魔動機一騎が進出!」
私たちは一斉に天幕を飛び出した。
雨上がりの曇天の下、対岸から伸びる石橋の中央に、巨体がゆっくりと現れる。
全身を真紅に塗り上げた連邦軍の魔動機。
その脚は重く石畳を踏み鳴らし、胸甲には古びた紋章が輝いていた。
「……モルドフ将軍か」
誰かが呟いた。
伝令が声を張り上げる。
「敵より書状を投げ渡されました! 一騎打ちを求む、とのこと!」
私は息を呑んだ。
七十に及ぶ老将が、わざわざ魔動機に乗り、自ら我らに挑もうというのか……
橋上の真紅の巨影は、静かに大剣を掲げ、こちらを指し示す。
その姿は衰えを知らぬ猛者の誇りを映していた。
背後で兵たちがざわめく。
「一騎打ちだと……?」
「あの年で……、信じられん」
私は冷たい風に頬を打たれながら、言い知れぬ感情を抱いた。
畏敬か、警戒か、それとも……。
だが一つだけ確かなのは、敵はただ衰え果てた老兵などではなかった、ということだ。
◇◇◇◇◇
我らは急ぎ天幕に集められた。
バーレ少将は濡れた制帽を外し、険しい面持ちで椅子に腰を下ろす。
外では、まだ真紅の魔動機が橋上で沈黙を保っている。
「……一騎打ちを受けるべきか否か」
少将の低い声が評定の幕を開けた。
幕僚の一人が口を開く。
「受けねば帝国の名誉は傷つきましょう。しかし、もし敗れれば――」
「帝国の威信は地に堕ちますな」
「敵将モルドフは老齢、持久戦に持ち込めば勝機は十分。ですが、情報将校によりますと、敵の魔動機はかなり優秀な機体と思われるとのことです……」
言葉の端々に、誰もが“自分では出たくない”という空気が漂っていた。
やがて、老参謀が机を叩いて言った。
「ならば、ここは最も適任の者に任せるべきだ。……フォーク少佐だ」
場の視線が一斉に私に集まる。
私は無意識に背筋を伸ばしたが、胸の奥では冷たいものが流れ込むのを感じていた。
「少佐は先のロトコフ戦で功を立てた。魔動機の操縦にも長けている。失礼ながら、我々よりはずっと若い。もし敗れても……」
別の参謀が口を濁す。
「……帝国の恥は最小限で済む、ということですな」
私は唇を噛んだ。
要するに、彼らはリスクを私に押し付けたいのだ。
その時、バーレ少将が手を上げ、幕僚たちに沈黙を強いた。
「……フォーク少佐。お前はどう思う」
彼女の瞳が真っ直ぐに射抜いてくる。
幕僚たちの逃げ腰の空気とは異なり、そこには軍人としての誠実な問いがあった。
私は深く息を吸った。
この場を逃げれば、私は永久に自分を許せぬだろう。
しかし受ければ――敗北の責はすべて私に降りかかる。
「……」
沈黙を破ったのは、バーレ少将からだった。
濡れた桃色の髪を後ろに払い、蒼い瞳で私を真っ直ぐに見据える。
「フォーク少佐」
「はっ」
「帝国において、一騎打ちはただの見世物ではない。――名誉そのものだ。勝てば、軍の誉れと共に、お前自身の昇進が待つだろう。だが……敗れたなら」
彼女は一瞬だけ言葉を切り、声を低めた。
「軍規にはないが、銃殺刑だ。これは帝国軍人としての責務であり、誇りでもある」
天幕内に冷たい緊張が走った。
幕僚たちは顔を背け、誰一人として口を開かない。
彼らは“敗れれば恥”と恐れ、押し付けを図った。だが少将は違った。
彼女は軍の規律と名誉を真正面から語り、その重みを私に託そうとしているのだろう。
私は拳を握り、言葉を絞り出した。
「……承知しました。帝国軍の名誉のため、フォーク=ユンカース少佐、この一騎打ちを拝命いたします」
胸の奥に、氷と炎が同時に燃え上がる。
死が隣り合わせであることはわかっている。だが、逃げれば、恩義あるユンカース子爵家の誇りも汚すことになるのだ。
バーレ少将はゆっくりと頷いた。
その横顔は厳しくも、どこか安堵を帯びて見えた。
「よい覚悟だ。――ならば、明日の暁、橋上に立て。帝国の剣となれ」
外では真紅の魔動機が、未だ沈黙のまま、我らを待ち受けていた。




