第55話……泥濘を蹴立てて
私が小型飛行船で旅団の駐屯地に帰還したのは、まだ夜明け前のことだった。
空は灰色に沈み、小雨が錆の匂いを含んだ風に混じって降り注いでいた。
飛行船の汽笛が低く響き、蒸気の白煙を吐き出しながら静かに着陸する。私は乗組員たちに別れを告げると、待機していた蒸気自動車へ乗り込み、旅団司令部へと向かった。
「バーレ少将閣下はおられるか?」
司令部の幕舎の前で、蒸気銃を肩に担ぎながら大きなあくびをしていた歩哨に声を掛ける。
彼は私の肩章を一瞥すると慌てて背筋を伸ばし、敬礼をして答えた。
「失礼しました、大尉殿。閣下はただいま外出中にございます」
歩哨は直ちに私を幕舎へ案内し、留守を預かる老参謀のもとへ導いた。
白髭を蓄えた参謀は、蝋燭の火に照らされながら私の顔を見ると、ゆるやかに微笑んだ。
「フォーク大尉、任務完了ご苦労であった。閣下もこの報告を耳にすれば、さぞやお喜びになろう」
私は飛行船の中で書き上げた報告書を彼に手渡し、そのまま自らの中隊指揮所へと戻ることにした。
そこで出迎えてくれたのは副官のエルネスト技術准尉である。
まだ若いが、エーテル爆薬の設計にかけては右に出る者のない才女であった。
今回の作戦で用いられた迫撃砲の榴弾も、彼女が指揮した工廠で組み上げられた特製弾頭なのである。
「大尉、ご無事の帰還、心よりお慶び申し上げます」
「ああ、ありがとう。留守の間、何か変わったことは?」
「あるにはあるのですが……」
彼女はなぜか唇の端を上げ、含み笑いを浮かべる。
その案内で幕舎へ入ると、そこには丸い耳をぴくぴくと動かしながら、拗ねた様子のポコリーヌが待っていた。
「勝手にどっか行くなんて酷いポコ!」
妖精族の狸――言葉を操る不思議な存在である彼は、今回の作戦に置き去りにされたことに腹を立てているのだった。
「……ああ、悪かった。本当にすまん」
私は彼の誇らしげなしっぽを両手で丁寧に撫でてやる。やがてポコリーヌの機嫌はあっさりと直り、小さな肉球で油紙の包みを私に渡した。
「郵便ポコ」
そこには妻ミンレイからの手紙が収められていた。
油煙の匂いに満ちた幕舎の中で、私はしばし封を切る手をためらい、胸の奥に温かな痛みが広がっていくのを覚えた。
ゆっくりと封を切ると、京大国訛りの文章がつづられていた。
拝啓 戦場にいるあなたへ
朝晩冷えるようになりましたので、ちゃんと腹巻きをしてくださいアル。
あなたはすぐにお腹を壊すのですから。
それから、勝ったらお酒を飲むでしょうけれど、飲みすぎはだめアル。 野菜も一緒に食べないと、顔が赤くなってすぐ眠ってしまうアル。
……でも、私はただ無事に帰ってきてくれれば、それでよいアルヨ。
あなたの勝利より、あなたの命を大切にしてくださいアル。
追伸:鶏と和解できませんでした。次こそ頑張るアル。
あなたの妻より
私は手紙をテーブルの横にそっと置き、安物の葡萄酒を一杯あおる。
そして、蠟燭を消して、すぐに心地よい眠気に溶け込んだのであった。
◇◇◇◇◇
――聖帝国暦九一七年十二月。
メニシコフ補給基地への襲撃成功の報は、稲妻のごとく帝国軍南翼に伝わった。
帝国軍の蒸気機関の唸りを伴う補給列車も次々と前線へと到着し、将兵の士気は一気に高まる。
湿り気を帯びたパニキアの泥濘に、黒き軍靴の列が進む。
このときの湿地帯で、兵士たちの足を支えたのは、ユンカース社製の新式ゴム長靴であった。
鉄と火薬の匂いに満ちた行軍の中で、彼らは「ぬかるみで足を取られずに済む」と声を揃え、粗野な冗談すら交わしていた。
……が、湿地のぬかるみは敵味方を選ばぬ。
帝国軍がユンカース社の長靴を得て進撃を続けるその裏で、パニキア連邦軍の兵士たちは日ごとに疲弊していった。
補給線はすでに断たれ、乾いた黒パン一切れを分け合う日々が続く。
夜営の焚き火の陰で、兵たちは腹の虫を抑えるために草の根を噛み、鍋の底を舐めるようにして粥をすすった。
中には、泥炭を削って乾かし、偽りの食料にした者すらあったという。
飢えと湿地の寒気は、銃弾よりも確実に兵を蝕んでいったのだ。
パニキア連邦軍の補給線が寸断され、夜毎に脱走兵が続出する頃、帝国軍はついに国境一帯で総攻撃を開始した。
それは、前回の敗戦で奪われ、屈辱とともに記録された地――。
帝国の将兵にとって、その湿原の村々も砦も、失われた誇りそのものだった。
曇天の下、帝国砲兵の列が轟音を放つ。
蒸気重砲が唸りを上げ、白いエーテル煙と煤が戦場一帯を覆った。
雨のように落ちる砲弾は、連邦軍の前線施設を土ごと掻き消してゆく。
その煙の合間から、灰色の外套をまとった帝国の戦列歩兵が進軍した。
新式のゴム長靴が泥を弾き、蒸気銃の銃口が鈍く光を反射する。
胸部装甲をまとった騎兵の列は、白き吐息と鉄の嘶きをあげながら敵陣に躍り込み、鋼鉄の蹄で敵陣を踏み潰した
彼らは迷いなく、かつて失った国境の塹壕を踏み越え、倒れ伏した敵兵を尻目に旗を立てた。
「ここは我ら帝国の地なり!」
将兵の鬨の声が湿地に轟く。
退却する連邦兵の影は細く、薄い。
やがて帝国軍は、数週前まで敵の手にあった要地を次々と奪還し、前線の勢力地図は帝国色に塗り替えられていった。
失地回復の報は帝都にもたらされ、人々は鐘を鳴らし、街路には凱旋を祝う蒸気馬車の列が走った。
こうしてパニキア連邦との東部戦線は雪辱を果たし、戦局は帝国の優勢を誰の目にも明らかにしていったのである。




