第52話……バーレ少将と荒くれ旅団
聖帝国歴917年、12の月――。
煤けた空に汽笛が響く頃、ユンカース商会の工場は政府の要請に応え、蒸気駆動の自動成型機を唸らせてゴム長靴を大量に吐き出していた。
真鍮の歯車が刻む律動は近隣の街路にも伝わり、工場だけでなく、煮込み鍋を抱える居酒屋や、珈琲を供する喫茶店にまで活気を与えていた。
されど、その活況の背後には、大きな暗雲が垂れ込めていた。
ガーランド帝国の民意は、なおも東方のパニキア連邦を憎悪していたのである。
法外なる領土割譲を迫った挙げ句、連邦兵どもは境界の村々に侵入し、火を放ち、穀物を略奪した。
「……もはや、圧力鍋の蓋も持ちこたえられぬ!」
怒声を上げたのは、帝国東境の農村に集った男たちであった。
彼らは鍬を槍に替え、旧式の火縄銃に銅製の改造銃身を据え付け、自ら武装して侵入者を撃退したのだ。
敗戦の烙印を背負い、なお無為に構える中央政府を見限っての決起である。
だが当然に、その勇気は新たな懸念を生んだ。
再び戦が始まるのか?
ならば東と西、二方面から帝国は挟撃されるのではないか――。
この恐怖が、機械仕掛けの議事堂に集う上層部を支配した。
しかし時の運は意外な歯車を噛み合わせた。
帝国西方のジラール共和国が、さらに西のレオン二重帝国と農業水利権を巡って交渉を決裂させたのだ。
共和国領中西部のチュラル平原の怒れる農民たち――彼らは大穀倉地帯を支える大票田であり、共和国の政権与党をも揺るがす力を持っていた。
民意を無視できぬ議員たちは、ついにレオンへと宣戦布告した。
その報が伝わるや、ガーランド帝国の政権と軍部は歯車が逆転する音を聞いたかのように顔を輝かせた。
西の脅威に背を気遣う必要はない。これで東の連邦に全力で挑める――。
帝国議会は鉄槌を打つごとく、連邦への宣戦布告をほぼ全会一致で可決した。
皇帝の署名が朱く捺され、真鍮の封蝋が溶かされる。
かくして帝国総参謀長、リヒテンシュタイン元帥は東部戦線にて失地回復の軍事作戦に、ついに熱い蒸気の如き号令を発したのであった。
◇◇◇◇◇
四日後の朝――。
霧雨に包まれたダイモス村の街路に郵便衛士の汽笛が響いた。
「若旦那、帝都より急報にございます!」
革鞄から取り出された封筒には、黒い歯車紋章の封蝋が押されていた。
それは軍に雇われし我ら傭兵団への召集令状。送り主は帝国第一混成旅団を統べるバーレ少将だった。
文面には、魔動機に搭乗し、直ちに指定の集結地へ馳せ参じよ――とあった。
「子爵様、行ってまいります!」
私はユンカース子爵家の屋敷にて辞儀をした。
書斎の大時計が蒸気を吐き、振り子を鳴らす中、子爵は厳かに頷く。
「うむ、歯車のごとく乱れぬ心で、国のために尽くせ」
「フォークさん、ちゃんとお土産買ってきてね」
愛妻ミンレイの可憐な声が、機械油の匂いに満ちた空気を一瞬だけ和らげる。
私は見送りを受け、蒸気の吐息を上げる駅へと向かった。
真鍮の汽笛を鳴らす機関車は、鋼鉄の車輪を軋ませ、厚い霧の中を突き進む。
歯車の律動に揺られながら、私は胸にある不安を押し隠し、バーレ少将の指定した集結地を目指したのであった。
◇◇◇◇◇
帝国第一混成旅団――。
その名は立派だが、実態は歯車が噛み合わぬような寄せ集めの傭兵団であった。
甲冑の代わりに油まみれの作業服を纏う者、新式のマスケット銃の代わりに祖父の残した火縄銃を背負う者。
だが装備は不揃いながら、彼らの瞳には幾度もの戦場を渡り歩いた鋼の色が宿っていた。
「旅団長に敬礼!」
鉄靴を響かせ、老曹長が号令を飛ばす。
集まった荒武者どもを束ねるのは、帝国軍でも異彩を放つ女将――バーレ少将。
三十代後半、グラマラスな肢体を黒革の軍装に包み、真鍮の義手からは淡く青い蒸気が漏れている。
かつて皇帝の寵愛を受けたという噂も絶えぬが、その戦歴の輝きは虚飾ではなかった。パニキア連邦との重要な最前線を任されることこそ、彼女の実力を示していたのだ。
「女癖の悪い諸君!! 本日も油臭い任務、ご苦労である――!」
場を裂くような声と共に、彼女は皮肉を飛ばす。
将校然とした堅苦しさはなく、むしろ歯に衣着せぬ言葉で荒んだ兵の心を掴む。傭兵どもも腹を抱えて笑い、緊張はたちまち霧散した。
そもそも帝国は敗戦による協定に縛られ、正規軍は大幅に縮小されていた。
代わって、金で雇われたこの荒くれたちこそが、いまや帝国の主力――蒸気砲を担ぐ「影の軍勢」なのである。
彼らの身分は非常勤。
戦死しても遺族へ保証金は下りず、退役しても年金は望めぬ。
だが、その代わり、勝利の暁に支払われる恩賞金は莫大であった。
貧しい農村の次男坊、学校に通えなかった者たち――底辺人生の歯車を一発逆転で覆そうと、この殺伐とした戦場に集ったのだ。
「……以上だ、解散!」
訓示が終われば、傭兵にとっての至福はただ一つ――食事である。
バーレ少将はそのことを熟知しており、配給には必ず豪奢な一品を加える。
この日の出陣前、蒸気鍋から立ちのぼった香りは、兵どもの腹を狂わせた。
羊腸に詰められた巨大なソーセージ、真鍮鍋で煮込まれた塩漬けのイカ、そして熱々のイシュタール小麦の麦粥。
普段は乾パンしか口にできぬ者ばかりゆえ、この肉の饗宴は夢のようだった。
赤銅色の酒瓶が傭兵の列に回され、やがて錆びた鉄の食堂は歓声と笑いで満ちた。
その夜、帝国第一混成旅団は、古い歯車を磨き直したように英気を養ったのであった。




