第43話……交錯する真鍮の絆
――コンコン。
扉を軽く叩く音が響いた。私はそちらへ目をやると、ミンレイ嬢が立っていた。
彼女のドレスは、懐かしい見覚えのあるチャイナドレス。深い碧の生地が柔らかく揺れている。
「よかったアル! 目が覚めたアルネ?」
ミンレイ嬢は、軽快で明るい声でそう言うと、病床の私に元気よく子供のように抱き着いてきた。
彼女の柔らかい温もりと、ローズウォーターの香りに、私は思わず息をのんだ。
「もう二度と目覚めないかと、心配でたまらなかったアルヨ。気分はどうアル? 少しは良くなったアルカ?」
「気分は……、悪くはありません。ですが、ミンレイ嬢、私を看病してくださったのはあなただったのですか?」
「そうアル!」
彼女は誇らしげに胸を張る。
「ありがとう、ミンレイ嬢。本当に……」
私は力なく頭を下げた。もっとしっかり感謝を伝えたいのに、体はまるで錆びた歯車のように重い。
「いいアルヨ。お互い様アル。それに、この屋敷で仕事があるだけでも、私は嬉しいアル……」
ミンレイ嬢の声には、朝霧のように儚い哀しみが漂っていた。彼女の瞳に映る憂いは、まるで黒い絵の具が空に溶けるようだった。
しかし、その表情を追いかける間もなく、疲労が再び私を包み込み、意識は朝の柔らかな光の中、夢の彼方へと沈んでいったのだった。
◇◇◇◇◇
正午の陽光が、煤けたステンドグラスの窓から食堂に差し込む頃。
私は身支度を整え、よろよろと食堂へと足を踏み入れた。
子爵と周囲のメイドたちが、私が自力で歩いてきたことに目を丸くした。
真鍮の装飾が施された壁時計が、蒸気機関の軽やかな響きとともに時を刻んでいる。
「子爵様、ご心配をおかけしました。どうにか、元気を取り戻しつつあるようです」
私は、テーブルに並ぶ真鍮製の燭台の明かりに照らされながら、子爵に深々と頭を下げた。
「ほう、それは何よりだ」
この厳しい戦乱の世界で、私はユンカース家という貴族の屋敷に居候する身だ。
役立たずと見なされれば、歯車と蒸気が支配する冷たい裏路地へと叩き出される恐れもあるのだ。
「……まあ、まずは腹を満たして、力を取り戻さねばな?」
「はい、ありがとうございます。」
子爵は続けて何か言いたげだったが、言葉を吞み込み、食事の準備を優先させたようだった。
「おお、そうだ。あれを出してやれ」
「かしこまりました」
子爵がメイド長に短く命じると、彼女は頷き、厨房へと消えた。
やがて運ばれてきたのは、湯気を立ち昇らせる大きな子羊の丸焼きだった。
どうやら私のために、来客用に熟成保存されていた一品を特別に出してくれたらしい。
バターと香草が香り、色とりどりの旬の野菜が添えられた贅沢な料理は、まるで古代の彫刻のように美しかった。
「さあ、食事を始めようか?」
ミンレイ嬢が、真鍮の留め具が輝くチャイナドレス姿で席に着く。彼女のドレスは、歯車の意匠が施された帯で締められ、燭台の光にきらめいている。
屋敷付きの料理長が、歯車模様のナイフで、子羊のローストを丁寧に切り分けてくれた。
「……う、美味い!」
思わず、かつての機械仕掛けの映写機で見た美食家のようにはしゃいでしまった。
だが、本当に驚くほど美味だったのだ。舌の上で溶ける子羊の滋味は、まるで弱った体に高品質な燃料を、勢いよく注ぎ込むようだった。
「ほう、ずいぶん元気そうだな!」
子爵は豪快に笑い、真鍮の脚がついたグラスに葡萄酒を注いでくれた。病み上がりの体に酒がどうかはわからぬが、私は勢いで一気に飲み干した。
子爵はそれをいたく喜び、目を細めた。
「お前のような元気な息子がいたら良かったのだがな……」
子爵は穏やかな笑みを浮かべ、そう呟いた。
彼に実子がいたという話は、聞いたことがない。そんなことを思いながら、私は温かい野菜のスープと、香ばしい麦パンを交互に忙しく口に運んだ。
スープの湯気は、まるで小さな蒸気機関の吐息のようであった。
◇◇◇◇◇
「フォーク様、旦那様がお呼びです」
「はい、ただちに参ります」
昼食後の陽光が、煤けた窓から柔らかく差し込む午後。私は自室で休息を取っていたが、子爵からの呼び出しを受けた。
真鍮の手すりが鈍く光る階段を降り、蒸気管の微かな唸りが響く廊下を進み、子爵の執務室へと向かった。
部屋に入ると、子爵は革装の本を静かに閉じた。机の上には、歯車が刻まれた銀製のインク壺と、蒸気式のランプが鈍い光を放っている。
「……ふむ、フォーク君。君はミンレイのマイネッケ伯爵家での経緯を知っているな?」
「はい、誠に悲しい出来事であったと聞いております」
子爵は重々しく頷く。
マイネッケ伯爵家からミンレイ嬢が追放された後、子爵の家は親交のあった貴族家からも距離を置かれている現状を語った。
声には、まるで古い水車の軋む響きのような重さが宿っていた。
「それでな、ミンレイの血筋を考えれば、本来ならどの貴族家も喜んで迎え入れるはずなのだが、勢い盛んなマイネッケ伯爵家の影響で、相手が下級貴族であっても再婚の話が難しくてな……」
「左様でございますか」
私はメイドが運んできた熱い南国産のコーヒーを啜った。
「……でな、フォーク君。よくよく考えたのじゃが、君にミンレイを娶ってもらおうかと思うのだが、どうだ?」
「……は?」
突然の言葉に、頭が、真鍮のかみ合わない歯車のように軋んだ。病み上がりの脳に、驚きと混乱の濁流が同時に放り込まれたのだ。
……え、なんですって?
えっと、えっとおおお!?
私は言葉を失ったまま、ただ子爵の顔を見つめたのだった。




