第40話……懐中時計、再び。
私の乗った蒸気機関車が、副首都バルバロッサ駅のホームに滑り込む。煤けた鉄の軋みと蒸気の吐息が、ざわめく人々の喧騒に混じる。
ここからダイモス村へ向かうには、駅馬車で少し離れた小さな中継駅まで足を運ばねばならなかった。戦場から還ったばかりの私は、軍服の埃を払いもせず、馬車に乗り込んだ。
馬車は石畳の道をガタゴトと進む。窓の外には、バルバロッサの市街地が広がる。
住民たちに混じって戦禍を逃れた難民たちが、粗末な布や毛布で身を覆い、路傍にうずくまる姿が目に入る。
比較的、蒸気機械文明が進んだこの都市も、戦争の傷跡を隠しきれなかった。
「……ん?」
ふと、視界の端で何かが引っかかった。見覚えのある輝き――金色の懐中時計が、ぼろ布にまみれた人物の首元で揺れている。あれは、間違いなく私がかつて贈ったものだ。
「御者、止めてくれ!」
私は思わず叫び、馬車が止まるや否や、ドアを押し開けて飛び降りた。足が地面に着いた瞬間、よろめきながらも通り過ぎた道を急いで引き返す。
やはり、間違いではなかった。ぼろ布を頭から被ったみすぼらしい姿だが、首元に下がる懐中時計の彫金は、私がミンレイ嬢に贈ったものと寸分違わぬものだったのだ。
「ミンレイお嬢さま!?」
私の声に、ぼろ布の人物がゆっくりと振り返る。その顔――紛れもなく、かつてのミンレイ嬢だった。……遠くの貴族家に嫁いだはず彼女が、なぜこんなところに?
「フォークさん!? ……ああ、助かった!」
ミンレイ嬢は涙に濡れた顔で私に倒れ掛かってきた。華奢な体が震え、ぼろ布の隙間から覗く瞳は、恐怖と安堵が入り混じっている。
「……どうしてこんなところに?」
私が問うも、彼女はただむせび泣くばかりで、言葉にならぬ声を漏らす。
戦場で幾度も死線をくぐった私だが、この瞬間、胸に去来するものは戦の恐怖とは異なる、得体の知れぬ不安だった。
「まずは落ち着きましょう」
私は彼女の手をそっと引き、近くの小さな喫茶店へと向かった。真鍮の歯車が装飾された扉を押し開くと、店内は鯨油のランプの暖かな光に満ちていた。
だが、ミンレイ嬢のぼろをまとった姿に、マスターが眉をひそめる。
「こちらのお嬢さんは……」
マスターの言葉を遮り、私は懐から金貨を一枚取り出し、そっと彼の手に握らせた。戦地での経験で、こういう時の交渉には慣れている。
マスターの態度は一変し、慇懃に席へと案内してくれた。
私はミンレイ嬢をテーブルに座らせ、蒸気で温められた紅茶を注文した。彼女の手はまだ震え、懐中時計を握りしめている。
その時計の煤けた蓋は、私が戦場へ赴く前に彼女に贈った時からの長い経過時間を現していた。
……遠くの貴族家で幸せに暮らしているはずだった彼女が、なぜこんなみすぼらしい姿でバルバロッサの街角にいたのか――その答えを、私は詳しく聞きたかった。
◇◇◇◇◇
ミンレイ嬢はようやく落ち着きを取り戻しつつあったが、華奢な体はまだ小刻みに震えている。
昨夜の帝国領は冷たい雨に打たれていたことを思い出し、ふと嫌な予感がよぎる。
私はそっと手を伸ばし、彼女の額に触れた。
「……これは、ひどい熱だ」
彼女の額はまるで蒸気釜のように熱かった。私は急いで喫茶店のカウンターへ向かい、粗末ながらもサンドイッチの包みを買い求め、銀貨で素早く会計を済ませた。
軍用のカバンから大きな毛布を取り出し、彼女の震える体を包み込む。
「止まってくれ!」
通りを疾走する蒸気自動車に大声で呼びかけた私は、運転手に紙幣の束を握らせた。
「すまん、この車を譲ってくれ」
さらに、懐に残っていた金貨――三か月分の将校の給金と戦功の手当の全てを差し出す。戦場で得た貴重な財産だったが、迷いはなかった。
「……こりゃ、こんな大金なら文句はねえや」
運転手は目を丸くしながらも、蒸気自動車の鍵を渡してくれた。
私はミンレイ嬢を助手席に乗せ、蒸気機関のレバーを力強く引いた。
ボイラーが唸りを上げ、車は石畳の路地を抜け、郊外の幹線道路へと突き進んだ。
「……お父様、助けて……」
走行中、彼女は熱にうなされ、うわごとを呟く。
幾多の戦場をくぐり抜けた私だが、今はただ、彼女を一刻も早く安全な場所へ届けることしかできなかった。
蒸気自動車の煤けた煙が夕焼けの空に吐き出され、車輪が石畳を叩き続ける音が響いたのであった。
ダイモス村に辿り着いた頃、陽はすでに沈み、空は深い藍色に染まっていた。
そして、ユンカース子爵家の屋敷に到着した時には、フクロウの鳴き声が響く深夜となっていた。
「私だ、フォークだ! 開けてくれ!」
私は屋敷の重い扉を激しく叩いた。やがて、真鍮の蝶番が軋み、執事のシュモルケさんがランプを手に姿を現す。
「フォーク様、お帰りなさいませ。一体どうなされました?」
「お嬢様が高熱を出しているんだ。すぐに医者を呼んでくれ!」
「かしこまりました」
シュモルケさんは落ち着いた声で応じ、寝静まったメイドたちを叩き起こすと、別の蒸気自動車で医者を迎えに走った。
私は荷物をメイドたちに預け、彼女の震える体を毛布ごと抱え上げ、屋敷の中へと運び込んだ。
「フォーク、騒々しいな! 何事だ!?」
騒ぎを聞きつけたユンカース子爵が、寝間着姿で階段を降りてきた。ミンレイ嬢の養父である彼の顔には、驚きと不安の色が浮かんでいる。
「実は、バルバロッサの街で、お嬢様がボロをまとった姿でいるのを見つけまして……」
私は、街角で彼女を見つけた経緯から今に至るまでを、ありのままに子爵に語った。ぼろ布に隠れた懐中時計、震える彼女の姿、そしてここまで急いで来たこと――全てを。
「……そうか。君のおかげで助かった。ありがとう。だが、君も戦場帰りで疲れているだろう。まずは着替えて休みなさい。君まで倒れては困る」
「はい、承知しました」
子爵の言葉に頷き、私は懐かしい自室へと足を向けた。部屋の片隅には、かつて戦場へ旅立つ前に使っていた古い軍用トランクが置かれている。
煤と汗にまみれた軍服を脱ぎながら、ミンレイ嬢のうなされる声が頭から離れなかった。
彼女に何が起こったのか――その答えは、彼女が回復するまで待たねばならないだろう。




