第38話……商用飛行船「ロイヤルホテル」
一週間後。
私はユンカース商会を通じ、解体を待つばかりの巨大飛行船を買い付けた。
帝国辺境に位置する第一混成旅団の宿営地へ、その鉄と真鍮で飾られた巨艦が曳航されてくる。
船体は朝陽を浴びて鈍く輝き、蒸気管と歯車が複雑に絡み合う姿は、スチームパンクの技術美そのものだった。
この飛行船はかつて「雲上ホテル」として名を馳せ、王族や貴族たちが雲海の上で優雅な時を過ごした空中宮殿である。
全長は約400メートルを超え、その壮麗な姿は見る者の息を呑んだ。
最大の特徴は、揚力ガスに「非活性エーテルガス」を採用していることだ。このガスは水素になどに比べ燃えにくく、火災や爆発の危険を極力排除していた。
しかし、その代償として質量が重く、高高度を飛ぶ力に乏しい。低空をゆったりと漂うのが精一杯で、軍用の高速機動や高高度任務には不向きとされ、軍務に就くことはほぼなかった。
「本当に貴様一人で操舵するつもりか?」
宿営地の司令部で、上官であるバーレ少将が私を見据えた。
中年とは思えない美しい女性である彼女は、漆黒の軍服に身を包み、青色の両眼が燭台の明かりを妖しく反射していた。
珍しい桃色の髪はきつく結い上げられ、彼女の鋭い視線と相まって、まるで戦場の薔薇のような気品と威厳を漂わせている。
「はい、極めて危険な任務ゆえ……私一人で十分かと」
私は敬礼し、落ち着いた声で答えた。彼女の視線は一瞬、私の心を見透かすように揺れた。
「……ふむ」
バーレ少将は細い指で真鍮製の懐中時計を軽く叩き、歯車がカチリと鳴る音を響かせた。
彼女の唇には微かな笑みが浮かんでいたが、その奥に秘めた思惑は誰も測りかねた。
この飛行船は、元来が商用の雲上ホテルであるため、武装は皆無だ。
砲塔も銃座もなく、必要とする乗員も極めて少ない。私は工兵隊の力を借り、操舵室の蒸気装置と制御レバーを簡略化し、最低限の改装を施していた。
歯車が唸り、蒸気弁がシュッと音を立てる操舵室で、操舵輪を握れば、この巨艦が私の意のままに動くはずだった。
少将はしばし思案した後、革張りの椅子から優雅に立ち上がり、命令を下した。
「よし、物資を船倉に積み込め!」
彼女の声は澄みきり、宿営地に響き渡った。
「了解!」
私の返答とともに、工兵たちが一斉に動き出した。
かつて貴族たちがシャンデリアの下で舞踏会を開いた客室は、たちまち解体の槌音に震えた。
真鍮枠の窓や絹張りの壁が取り払われ、広大な船倉へと変貌していく。蒸気駆動のクレーンが軋みながら物資を運び込み、兵士たちは銅製の箱や木樽を次々と積み上げた。
歯車の回転音と蒸気の噴出音が響き合い、宿営地は熱気と喧騒に包まれていく。
そして、三時間にわたる総力戦の末、積み込み作業は完了したのであった。
私は操舵室に立ち、計器盤を眺めた。圧力計の針が震え、蒸気管が低く唸る。
第四、第六師団への補給は、私とこの巨艦にかかっている。
一人きりの任務だが、心には奇妙な昂揚が宿っていたのであった。
◇◇◇◇◇
「離陸!」
私の号令が操舵室に響き、古びた蒸気機関が轟音を上げた。
「ポコ~♪」
助手として同乗するポコリーヌが、愛らしい声で応えた。
全長わずか15センチの不思議なタヌキである彼女は、ふわふわの毛並みと真鍮製の小さな鈴を揺らし、計器盤の上でちょこまかと跳ね回る。
私は強い雨が降りしきる夜を選び、作戦を開始した。
バーレ少将には一人で操縦すると告げたが、実際にはこの小さな相棒、ポコリーヌに助けられている。
彼は蒸気管の弁を器用に調整し、まるで船の鼓動を理解しているかのように動いた。
外は風雨が猛り、雷鳴が天地を震わせる。
かつて「ロイヤルホテル」と呼ばれたこの巨艦は、ゆっくりと浮上を始めた。
地上で誘導してくれた管制係が、ランタンを振って別れを告げる。真鍮の船体が雨に叩かれ、歯車が軋む音が響く。
「……ふう」
私は操舵輪を握り、真っ黒な雨雲に覆われた空を見上げた。頼みの綱は私の左目だ。
この世界に生まれ変わった時に授けられた特異な左目は、微量なエーテル波をも捉える驚異の性能で、雲の厚さや風の流れ、船体の傾きが数字と図形で網膜に映し出された。
「……こっちだな」
私は遠回りの航路を選び、工業都市アキュラの風上を目指した。
強風が船体を激しく叩き、古びた蒸気機関が悲鳴を上げる。操舵室の真鍮枠の窓は雨で濡れ、計器の針が激しく揺れる。
「船倉の様子はどうだ?」
私はポコリーヌに呼びかけた。
「大丈夫ポコ~♪」
彼は小さな足で船倉を駆け回り、物資の固定を確認して戻ってきた。ふわっとした尾が揺れ、首輪の鈴がチリンと鳴る。
古い客室の木製キャビンが、悪天候に耐えかねてギシギシと軋む。だが、私は船体に無理を強いた甲斐あって、風の流れを味方につける位置を取ることに成功した。
ロイヤルホテルの巨体は、嵐の中でしなやかに進み始めたのだ。
闇夜を突き進む中、アキュラに近づく頃には夜が明け、厚い雲はどこかへ消え去っていた。
朝日が真鍮の船体を照らし、遠くには煙突と工場のシルエットが見える。
「……あれはなんだ?」
眼下に広がる光景に、私は息を呑んだ。
「敵だ! 撃て、撃て! 撃ち落とせ!」
共和国の地上軍が、まるで蟻の群れのように展開していた。
彼らはマスケット銃や古式の大砲を構え、ロイヤルホテルに向けて一斉射撃を始めた。
この飛行船は低空を飛ぶため、適当に放たれた弾丸さえも次々と命中する。キャビンの下部には装甲がなく、木と真鍮の外壁が弾丸に穿たれた。
非活性エーテルガスが充填された胴体にも弾が突き刺さるが、船体は各区画が独立しているため、一気にガスが抜けることはなかった。
「ポコ~!」
ポコリーヌが怯えた声を上げ、私の膝に飛び乗った。彼の小さな体が震え、ふわふわの毛が私の腕に触れる。
操舵室の床は猛射によってボロボロになり、足元の穴から地上の戦場が見える。蒸気と白煙が舞い、共和国兵の怒号が遠く響く。
「痛っ……くそっ!」
銃弾が私の左腿と右腕をかすめ、鋭い痛みが走った。
血が操舵室の床に滴り、私は急いで革ベルトを外し、傷口をきつく縛った。歯を食いしばり、操舵輪を握る手には力がこもる。
「……まだか」
気は焦るが、目的地の工業都市アキュラの飛行場はまだ見えない。
正面の風防ガラスに私の血飛沫が飛び散り、視界が赤く染まっていく。
左目の視界はなおも情報を映し出すが、恐怖と焦りでそれどころではない。
それを察したポコリーヌの小さな声が耳元で響く。
「ポコ~! がんばるポコ~!」
私はロイヤルホテルを前進させることだけを考え、操舵輪を握り続けた。この空飛ぶ巨獣の操縦席で、私は失血で意識がだんだんと途絶えそうになっていった。




