第33話……第一混成旅団長・バーレ少将閣下!
聖帝国歴917年4月、西部戦線。
蒸気機関の唸りが震え、ゴーグルが煤けた視界を確保する。
私は第10師団救出のため急遽編成された混成第1旅団の一員としてこの地に派遣された。
旅団は傭兵や雑多な部隊の寄せ集めで、装備は統一感皆無。
私を含め多くの者が、旅団長が誰かさえ知らない。
日が沈み、仮設陣地に到着した私は点呼を終えた。
「全員無事、よし。」
その後、大隊長ヘルダーソン中佐のテントに向かう。
周辺では、傭兵たちが壕を掘り、真鍮の支柱で簡易見張り台を組み、蒸気管から白い湯気が漏れる。
「第4中隊、着任しました!」
私は敬礼し、報告する。
中佐は書類の山に埋もれ、疲れた顔で応じた。
「フォーク中尉、ご苦労。悪いが、敵の斥候が周辺に潜んでいるらしい。警戒を頼む」
「かしこまりました!」
中佐は幕僚たちと作戦を議論し、蒸気駆動の通信機がカタカタと鳴る。
私は中隊を副隊長エルネスト准尉に任せ、相棒の妖精の狸「ポコリーヌ」を連れて陣地を巡回することにした。
ポコリーヌは手のひらサイズの小さな狸で、フワフワの尻尾と黒色の瞳を持つ。
彼の敵の気配を嗅ぎ分ける鋭い感覚が頼りだ。
旅団の雑多な雰囲気は、スパイが紛れ込んでも気づかぬほど混沌としていたからだ。
「ポコ~♪」
ポコリーヌがヒゲを震わせ、鼻をクンクンと動かす。
突然、毛が逆立ち、つぶらな瞳がキラリと光った。
「……ポ、ポコ!?」
どうやら怪しい人影を感知したらしい。
私は蒸気拳銃を握り、ポコリーヌを追って闇を走る。
人影はほどなくして湯気を吐くシャワーテントに消えた。
……スパイか?
暫し待つが、出てくる気配はない。
心臓が高鳴り、革製のカーテンを勢いよく開けた。
「動くな!」
蒸気が顔に当たり、ゴーグルが曇る。
そこには、濡れた髪をタオルで拭う女性が立っていたのだ。
月光に照らされた白い肌、滴る水が真鍮の床に落ち、真鍮製のシャワーヘッドが小さく唸る。
ポコリーヌが私の肩に飛び乗り、「ぽこ~」と鳴く。
女性は振り向き、鋭い視線で私を射抜いた。
「貴様、何者だ!?」
その声は、鋼鉄製の蒸気釜のように低く威厳に満ちていた。
私は凍りつき、敬礼しながら叫んだ。
「帝国陸軍中尉、マサカゲ・フォークであります! 失礼しました!」
彼女は、急ぎタオルを胸に押し当てた。
濡れた桃色の髪が頬に張り付いている。名も顔も知らぬ女性だが、彼女の瞳に宿る威圧感は尋常ではない。
「中尉だと? 敵と見間違えたか? 随分なご挨拶だな」
彼女は唇に微かな笑みを浮かべ、一歩近づく。
真鍮の床がカツンと鳴る。私は慌てて弁解した。
「……いや、失礼! 敵の斥候が潜入との情報で、誤って……!」
彼女は眉を上げ、冷ややかに言った。
「私を知らんのか? 私は、帝国陸軍少将バーレ。この旅団の指揮官なんだがな……」
……少将閣下だと!?
しかも旅団長だと!?
私は真っ赤になり、頭が真っ白になった。
ポコリーヌが肩で「ぽこぽこ」と鳴き、場を和ませようとするが、私はただ焦るばかり。
「何も見ておりません!」
私は目を閉じ、叫ぶように答えた。
……だが、心には、彼女のしなやかなシルエットと、蒸気の中で輝く肌が焼きついていた。
戦女神を思わせる美貌と、鉄の貴婦人と呼ばれるにふさわしい気品。
バーレ閣下は小さく笑い、カーテンを指さした。
「下がれ、中尉。次に許可なく入れば、軍法会議だ」
私はポコリーヌを肩に乗せ、逃げるようにテントを飛び出したのであった。
◇◇◇◇◇
翌日の夕方。
私は大隊長であるヘルダーソン中佐に呼びだされた。
「おい、フォーク中尉!」
中佐が、書類の山から顔を上げる。
「旅団長がお呼びだ。ついでにこの書類を旅団本部に持っていけ」
「かしこまりました」
昨日の今日だ。
……嫌な予感しかない。
肩に乗っていた妖精の狸ポコリーヌも、空気を察したのか、どこかへ逃げ去っている。
手のひらサイズの彼は、意外に小心者で、肝心な時に逃げる癖があるのだ。
私は真鍮製の蒸気自動車を駆り、ゴーグルを調整して旅団本部へ向かった。
煤けた道を進み、湯気を吐くテント群に到着した。
幕僚たちが歯車と蒸気管に囲まれた本部テントで忙しなく動いている。
「フォーク中尉、参りました。」
幕僚の一人が書類を受け取り、隣のテントを指さした。
「旅団長は二つ隣だ」
私は深呼吸し、指定されたテントの前で立ち止まる。
「フォーク中尉です。お呼びでしょうか?」
昨日の失態が脳裏をよぎり、気安くテントに入る勇気はない。
中尉の私からすれば、旅団長とは雲の上の存在。
……ましてや、閣下の鋭い視線を思い出すと、足がすくむ。
「入れ!」
低く響く声に促され、恐る恐る革製のカーテンをくぐる。
テント内は、簡素な真鍮のテーブルと鯨油ランプが灯る落ち着いた空間だった。
バーレ閣下は黒い軍服を脱ぎ、軽装のシャツ姿で休憩中のようだ。
38歳とは思えぬ美貌の彼女は、葡萄酒のグラスを傾け、ほのかに頬を染めている。
テーブルの上には、帝国産の葡萄酒瓶と真鍮の栓抜きが置いてあった。
「お前も飲まんか?」
彼女はグラスを掲げ、試すような笑みを浮かべた。私は慌てて手を振る。
「いえ、同席など、とても……!」
「他人の裸を勝手に見ておきながら、何を今さら遠慮する?」
バーレ閣下の意地悪な笑みに、昨夜の光景――月光に輝く彼女の肢体が脳裏に蘇り、動揺してしまう。
……だが、いつぶりだろう?
彩以外で女性を意識したのは……。
「あ、あれは事故で……!」
彼女はクスクスと笑い、予備のグラスに葡萄酒を注いだ。
「まあ、座れ。非礼を水に流してやる。飲め」
断るのも失礼かと、恐縮しつつグラスを受け取る。
一口含むと、芳醇な果実の香りと滑らかな味わいが口に広がった。
「旨い……!」
思わず声が出た。前の世界でも、これほどの葡萄酒は飲んだことがない。
「失礼ながら、小官ごときが飲むには勿体ないのでは?」
バーレ閣下は目を細め、グラスを揺らした。
「ふふ、旨いだろう? だが、驚くな。一本16帝国マルクだ。」
「……え!?」
16マルク――約1600円!?
こんな極上の葡萄酒が、帝国の安酒並みの値段だと? 私は目を丸くした。
彼女は笑みを深め、語り始めた。
「私は葡萄酒が好きでな。休暇は安くて美味い一本を探すのに費やす。戦場の緊張を癒すには、これが一番だ。」
「は、はぁ……」
私は生返事しかできなかった。彼女の意外な一面に、雲の上の存在が少し身近に感じられる。
ポコリーヌがいれば、「ぽこ♪」と場を和ませてくれただろうが、今は不在。
バーレ閣下はグラスを置き、私をじっと見つめた。
「フォーク中尉、昨夜の失態は忘れた。……だが、信頼は、行いで示せ」
私はゴクリと唾を飲み、頷いた。
「……し、承知しました!」
――そして、その夜は幕舎の灯が遅くまで消えることはなかった。
私が大隊へ戻されたのは、翌日、陽がすでに高く昇った頃である。




