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第32話……山岳都市ブリュンヒルト

 聖帝国歴917年3月初旬。

 ガーランド帝国の山々に雪解けの水音が響き、春の訪れが静かに囁く頃。

 その穏やかな調べは、帝国の奥深くで巻き起こる嵐の前触れに過ぎなかった。


「動くな!」


 鋭い命令が、霧深い辺境の森に響き渡る。

 パニキア連邦の飛行船――その真鍮の船体は無残に歪み、蒸気を吐き出しながら、帝国領内の奥地に不時着していた。

 墜落の残骸から這い出た連邦空軍の参謀が、帝国兵の銃口に囲まれ、捕虜となったのだ。


「この暗号表、どこで手に入れた?」


 帝国軍の将校が、冷たく鋭い声で尋ねた。参謀の所持品から発見されたのは、帝国軍の極秘指定を受けていた暗号表だった。

 だが、参謀は唇を固く結び、頑なに沈黙を守った。

 数日後、彼とその暗号表は、蒸気機関車の甲高い汽笛とともに、帝国軍総司令部へと送られたのだ。


 総司令部での鑑定は、衝撃の事実を明らかにした。その暗号表は本物――帝国軍の上級指揮官にのみ配布された、まぎれもない機密書類だったのだ。

 このことは帝国軍の上層部を震撼させ、皇帝自身をも驚愕させた。

 なお、帝国軍の最高司令官は皇帝であるが、実質的な指揮は参謀総長のリヒテンシュタイン元帥が執っていた。


「直ちに全軍へ暗号電文の使用を禁じる命令を出せ!」


「はっ!」


 元帥の声は、まるで雷鳴のように響いた。直ちに暗号通信の全面封鎖が命じられ、帝国全土に指令が飛び交った。

 兵士や物資の配備が急遽変更され、新たな暗号の普及が急ピッチで進められた。

 蒸気機関車が轟音を立て、物資を前線へと運び、要衝には防空用の阻塞気球が次々と浮かべられた。

 物資集積地を守るための準備が、夜を徹して進められたのだった。


 その効果は顕著にあらわれる。

 連邦の兵站線への空爆は激減し、ガーランド帝国軍の補給路の混乱は収束に向かった。

 その甲斐もあり、東部戦線は膠着状態に落ち着きつつある。


 だが、西部戦線では共和国の奇襲により、帝国軍は配備兵力の不足もあって、各地で敗走を重ねていたのだ。


 そんな中、帝国第10師団が突如、西部戦線のルーラン川を渡河し、共和国軍の南翼に猛襲をかけた。

 その勢いは一時、共和国軍を押し返すことに成功したが、3月下旬には勢いは逆転。

 第10師団は敗走ののち、山岳都市ブリュンヒルトで完全に包囲されてしまったのだった。


 先の兵站線への攻撃もあり、第10師団の保有する食料や弾薬は少ない。

 さらに、各都市へとつながる鉄道や道路を封鎖されたため、ブリュンヒルトの一般人たちの食料や日用品も欠乏することが危惧されたのだ。



「至急、援軍を要請する!」


 この危機に応じるべく編成されたのは、我が第四傭兵大隊を含む混成第一旅団であった。

 蒸気駆動の軍用車が唸りを上げ、歯車とピストンの響きが夜の闇にこだまする中、救援に向けた行軍が始まる。

 真鍮の装飾が施された軍旗が風に翻り、第10師団の命運を賭けた戦いが、幕を開けようとしていた。




◇◇◇◇◇


 聖帝国歴917年4月。

 山岳都市ブリュンヒルトの空は、鉛色の雲に覆われ、冷たい風が石畳の街を容赦なく吹き抜ける。

 標高が高いこの城塞都市は、春の訪れを拒むかのように凍てつく寒さに閉ざされていた。


「救援はまだ来んのか!」


 第10師団の師団長、シュライヒ中将の声が、レンガ造りのホテルのスイートルームに響いた。

 この部屋は、仮設の司令部として使われていた。暖炉の火がパチパチと音を立て、バターの香りが漂う牛肉のシチューが銀の皿に盛られている。

 中将は、愛犬ヴァロンの毛並みを撫でながら、ふかふかの椅子に腰を沈めていた。

 ヴァロンには、バターをたっぷり塗った柔らかい白パンが与えられ、そのふくよかな腹が満足げに膨らんでいた。


 だが、補給線が断たれた師団の一般兵士たちは、まるで別世界に生きていた。

 焼しめられた硬いパンは歯が立たぬほど固く、屑野菜を煮込んだ薄っぺらいスープがせめてもの食事だ。

 寒風が吹きすさぶ中、兵士たちは粗末なマントに身を縮め、凍えるテントの外で震えていた。


「…寒い、くそくらえ…」


 兵士たちの呟きは、冷たい雨に濡れた地面に消えた。

 背後の将校用テントからは、ストーブの暖かな光と、ワインやウイスキーのグラスが触れ合う音が漏れ聞こえる。

 士官たちは暖を取りながら笑い合い、兵士たちの苦境など意に介さぬ様子だった。

 そんな光景の中、下士官や兵卒の士気が上がるはずもなく、脱走者が日増しに増えていた。



 そんなある日、ブリュンヒルトの上空に鈍いエンジン音が響いた。

 連邦の飛行船か――と兵士たちが銃を構えたその時、真鍮の筒が落下傘とともに舞い降りた。

 帝国軍の紋章が刻まれたその筒には、総司令部からの命令が収められていたのだった。


「シュライヒ閣下! 総司令部からの指令であります!」


 若い副官が筒を手に駆け寄る。

 中将はシチューのスプーンを置き、命令書をひったくるようにして広げた。だが、その内容を読み進めるうち、彼の顔はみるみる赤く染まった。


「なぜ、皇族たるこの私が、こんな命令に従わねばならんのだ!」


 シュライヒ中将の怒声が部屋を震わせた。

 命令書にはこう記されていた。『混成第一旅団の攻勢に合わせ、包囲の内側より攻勢をかけよ…』。

 まるで、固い殻を破るために雛が内側からつつくように、包囲された軍勢もまた戦わねばならぬ――用兵の基本中の基本である。


 だが、中将の怒りの本当の理由を、幕僚たちは察していた。

 援軍の混成第一旅団を率いるのはバーレ少将。噂によれば、彼女は娼婦の子として生まれ、かつて少年の格好をした靴磨きとして、路地裏を這いずった女だという。


 さらに言えば、彼女は齢38歳の若さにて少将なのだ。普通、帝国の少将は早くて40代後半なのにだ……。

 その為、彼女にはいろいろな噂が絶えなかった。


 皇族の血を誇るシュライヒ中将にとって、そんな訳の分からない「下賤の出」の女と肩を並べて戦うことなど、耐えがたい屈辱だったのだ。


 部屋の外では、蒸気管のヒューッという音が響き、遠くで歯車が軋む音が聞こえる。ブリュンヒルトの城壁に設置された防空気球が、冷たい風に揺れていた。

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