第3話……男爵のお屋敷
「こっちアルよ」
ミンレイの先導で、私は石畳の街路を歩いていた。地理感のない私には、彼女の後を追うしかない。
やがて霧の帳の中に、巨大な駅舎が姿を現した。
青銅のパイプと無数の歯車が壁に組み込まれ、絶え間なく蒸気を噴き出している。
銅板で覆われた重厚な建物の上には時計塔がそびえ、歯車の噛み合う音が空気を震わせていた。
「本当に送ってもらっていいアルか?」
「ええ、他に行くあてもないので」
駅舎の中は蒸気と油の匂いに満ち、黒光りする鉄骨が天井を支えていた。私たちは誘拐犯が落としていった財布で切符を買い、厚手の紙を受け取ってプラットフォームへ向かった。
そこには巨大な黒い機関車が待ち構えていた。銀色に光る車輪、煤で黒ずんだ装飾、古風でありながら威圧感のある姿に胸が高鳴る。
重い扉を引いて客室に入ると、赤いビロードの座席が整然と並び、ランプが柔らかな光を放っていた。
列車がゆっくりと動き出すと、レールを刻む車輪の音がリズミカルに響いた。
「申し遅れたアル。私はミンレイ=ユンカース。あなたは?」
「……マサカゲ=キノシタです」
本当はもっと格好いい名を名乗りたかったが、咄嗟に思いつかなかった。
違う世界の来訪者であることを打ち明けると、ミンレイは青い瞳を丸くした。
「信じられないアル!」
当然だ。だが彼女はやがて私を記憶喪失と思ったらしく、少しずつこの世界のことを語り始めた。
霧の街の構造、飛行船の航路、貴族と平民の身分制度――。専門的な言葉は理解できなかったが、彼女の表情や仕草が加わると退屈にはならなかった。
六時間の旅路を経て、列車は終着駅に滑り込む。冷たい空気が頬を撫で、機関車から白い蒸気が音を立てて噴き出す。
「こっちアル」
再び彼女に導かれ、私たちは駅馬車に乗った。
石造りの市街を抜け、やがて田園風景へ。二時間半の道中を経て夕刻、丘の上に壮麗な屋敷が見えてきた。
高くそびえる門柱の奥には広大な庭園が広がり、大扉が堂々と構えている。遠くからでも威厳を感じさせる建物だった。
正門をくぐると、白手袋をはめた老執事が出迎えた。
「お嬢様、お帰りなさいませ」
「ただいまアル!」
執事は優雅に一礼し、私たちを屋敷の中へと案内した。
大理石の床が靴音を響かせ、壁には絵画が並び、シャンデリアの光が柔らかく反射する。長い廊下の突き当たりに重厚な扉があり、執事がノックをすると、中には銀髪の老人が待っていた。
「お越しいただきありがとうございます。この度は娘の危機を救っていただき、感謝の言葉もございません」
彼はミンレイの養父で、レオポルド=ユンカース男爵と名乗った。瘦身の体に深い皺を刻み、落ち着いた声で礼を述べる。
疲れたミンレイは自室へと下がり、私は男爵に食事へと誘われた。
長卓のダイニングには燭台が揺れ、豪華な食器が並んでいた。前菜のサラダ、香ばしいローストビーフ、甘いタルト。
丁寧に供される料理を味わいながら、私は彼と杯を交わした。
やがて話題は彼の若き日の武勇談に及んだ。
「私はかつて魔導士として戦場を駆けた」
男爵の声は落ち着いていたが、その奥に炎が残っていた。
「魔導士は稀な存在だ。適性を持つ者は千人に一人いるかどうか。血筋や体質に左右され、鍛錬だけではどうにもならぬ。適性のない者が操れば、炉心の暴走に呑まれて命を落とす。だからこそ我らは貴族から兵にまで一目置かれた」
自室から戻ったミンレイは、養父の横で目を輝かせていた。
幼い頃から彼の武勇談を聞き、誇りに思っているのだろう。
男爵の目が遠くを見た。
「魔動機は鋼鉄の巨体だ。全高はおおよそ十メートル、胴体の背面には巨大な蒸気炉。背中の上部の煙突からは白煙が吹き出し、手には巨大な鋼鉄製の斧、杭打ちを思わせるような強靭な足。歯車の唸りと蒸気の咆哮が響く中、我らは進んだ」
彼はグラスを置き、低い声で続けた。
「戦場は地獄だった。蒸気砲煙に視界は閉ざされ、地面は震え、仲間の魔導機が爆散するたびに炎と蒸気が吹き荒れた。それでも敵の陣を穿ち、旗を奪ったとき、兵士たちの歓声が雷鳴のように響いた……」
その語りは誇りに満ち、しかしどこか寂しげでもあった。
「ご興味がおありか?」
「……はい、ぜひ」
私の答えに、男爵は愉快そうに目を細めた。
「ならば、秘蔵の兵器をお見せいたしましょう」
その言葉に胸の奥で鼓動が高鳴る。
異世界の歯車が、ゆっくりと回り始めていた。