第25話……ターシャ王国と電話機
雪がちらつく薄暗い朝。私は自室の暖炉のそばで、煤けた新聞を広げていた。
外では凍てつく風が猛威を振るい、路上にはいまだ不況の影が色濃く漂う。
職を失った者たちが、ぼろをまとって石畳の隅で蹲っている姿が、窓の外にちらりと見えた。
我がユンカース商会は、かろうじて黒字を保っているものの、その実態は薄氷の上を歩くような危ういものだった。
平和な日々が続いているとはいえ、いまだ帝国全体を覆う重苦しい空気は、私の心にも暗い予感を植えつけていた。
新聞のインクがかすれた記事に目をやると、最近の政局の動きが報じられていた。
いつぞやの演説会で熱弁を振るっていたメンゲンベルク氏の自由労働党が、議会で第一党に躍り出たという。
不況を打破できない既存政党への民衆の不満が、彼の党に風を吹かせたのだろう。
記事によれば、党首のメンゲンベルク氏が近いうちに首相に就くとの噂も流れている。彼はジラール共和国との対立を掲げており、世情がよりきな臭くなるかもしれない。
次のページをめくると、遠くターシャ王国の話題が目に飛び込んできた。
かの小国は、ガーランド帝国とパニキア連邦に挟まれた、女性君主が治める小さな王国だ。また、両大国の狭間で、常に慎重な外交を強いられる立場にある。
それなのに、なんということか、パニキア連邦と川の使用権を巡って対立し、ついには連邦が宣戦布告したというのだ。
この世界では、海洋汚染により海産物が乏しいゆえに、川の漁業権は宝ともいえる存在だ。もちろん農業用水としても欠かせない。川を巡る争いは、たちまち国際問題に発展する。
だが、記事を読み進めるうちに、私は奇妙な一文に目を留めた。
ターシャ王国周辺に駐留していた帝国の誇る重装甲列車「オーディン」が、つい最近、帝国西部へと配置換えになったというのだ。
巨大な蒸気機関と分厚い装甲に守られたオーディンは、帝国の軍事力を象徴する巨大な怪物だ。その動きが、パニキア連邦の宣戦布告とほぼ同時だったという偶然は、いささか不自然なのである。
さらに小さな活字で書かれた一節が、事態の裏側を匂わせていた。オーディンの配置換えは、何重もの偽装を施された極秘作戦だったはずだ。それなのに、その情報がパニキア連邦に漏れた可能性があるという。
現在、憲兵隊が血眼になって内通者を探しているらしい。
大国同士のスパイの暗躍は、この世界の暗部を這うように広がっているようだった。
私は新聞を畳み、ぼんやり暖炉の火を見つめた。外では雪が静かに降り積もっていた。
◇◇◇◇◇
「どうだ、素晴らしい品だろう?」
子爵の声が、広間の古めかしい石壁に響いた。
今日、館の主である彼は上機嫌だ。なんといっても、最近発明されたばかりの電話機が、このダイモス村の我が館に初めて敷設されたのだ。
真鍮の枠に収まったその機械は、蒸気管の隙間から漏れる光を受けて、鈍く輝いている。
子爵は使用人たちを集めて自慢げに見せびらかしたが、肝心の用件があるわけでもなく、数日も経つと壁に取り付けられた電話機は、まるで飾り物のように忘れ去られていた。
そんなある日、静寂を切り裂くように、ジリリリ!と甲高い音が館に響いた。
電話機が初めて鳴ったのだ。聞きなれない音に皆一瞬たじろぐ。初の着信の相手は、外務省に勤める旧友ゲルトナーだった。
好奇の視線を向ける使用人たちを尻目に、私は急いで受話器を手に取った。使用たちの視線が私に突き刺さり、気恥ずかしさを感じながらも、私は通話に応じた。
「おい、フォーク。どうも我が帝国が、サーシャ王国に宣戦布告するらしいぞ」
「なんだって!? 何の理由でだ?」
「それなんだがな……」
ゲルトナーの声は、受話器越しに、小さく低く響いた。
専制君主制の時代とは違い、議会制の今、戦争には民衆を納得させる大義名分が必要だ。だが、驚くべきことに、開戦の口実はまだ策定中だという。
ゲルトナーの話では、帝国の本音は、パニキア連邦にサーシャの地を独占させたくないかららしい。小国とはいえ、サーシャは肥沃な穀倉地帯として知られ、その土地は帝国にとっても垂涎の的だった。
さらに、新たに台頭した自由労働党に流れる民心を、政権が取り戻すための好機でもあるのだそうだ。
「サーシャとパニキアの争いなら、三日で終わるかもしれん。だが、我が国が介入すれば、しばらくは紛糾するだろうな」
ゲルトナーはそう締めくくり、最後にいつもの調子で「例のものを頼む」と金の無心を忘れず、電話を切った。
私は受話器を置くと、すぐに行動に移った。
窓の外では吹雪が唸りを上げ、凍てつく風が石畳を叩いている。
私は厚いコートを羽織り、ゲルトナーへの送金を手配するため街へ急いだ。
さらに、市場の知り合いを通じて、銅鉱石と鉄鉱石の大量発注を依頼。戦争の足音が聞こえる今、鉱石の需要は急騰するだろうからだ。
そして、ダイモス村の失業者を優先に、労働者の確保も始めた。歯車と蒸気が織りなすこの不安定な世界に、再び嵐が近づいていることを、私は肌で感じていたのだった。




