第22話……ミンレイお嬢様の過去
暖炉の薄暗い光が書斎を照らす中、老男爵が声を潜めて囁いた。
「あの娘だがな、ただの孤児ではない。あれは、遥か大京国の先の皇帝の息女……まごうことなき皇女なのだ」
私は息を呑み、思わず身を乗り出した。
「本当ですか、閣下?」
にわかには信じがたかったが、お嬢様の話し方には確かに独特の響きがあった。どこか異国的な聞き慣れぬ抑揚。
だが、一国の皇女だなどと、誰が想像できようか。
脳裏に、士官学校での講義が蘇える。
……西方の海を隔てた大帝国大京国。茶と綿花の交易で名高く、諸国との貿易で莫大な富を築いた国だ。
だが、その繁栄は妬みを招き、ワット王国との貿易摩擦を引き起こしたのだ。
やがて両国は戦争に突入。国力からすれば大京国の勝利は確実と思われたが、長年の平和に浴した大京国軍はすでに腐敗に蝕まれており、戦慣れしたワット軍に惨敗。屈辱的な講和条約を強いられたのだ。
そして、我が帝国とジラール共和国は、この隙を見逃さなかった。
大京国の弱体化を好機とみて、即座に宣戦布告。結果として大京国は、我が国とも共和国とも不平等条約を結び、さらには諸国に租借地を差し出すに至ったのだ。
男爵の目が燭光にきらめき、手にもつワイングラスを、少し傾けながら話を続けた。
「ミンレイの母、皇帝の正后は若くして世を去った。年老いた皇帝は新たな側室を寵愛したが、その女は我が子を玉座につけるべく、正后の一族を謀反の罪で皆殺しにした。だが、幼いミンレイは殺されず、たまたま大京国を旅していた異国の傭兵に売り渡されたのだ。そしてその傭兵こそ、他ならぬこの私なのだ」
私は合点が良き、ゆっくりと頷いた。
「それで、養女としてお育てになったのですね」
「その通り」
男爵は答え、口髭の下で小さく笑みを浮かべた。
「私はあの小さな娘に価値を見出した。奇貨居くべし、時が来れば切り札となる存在だと。今まで大切に育ててきたのは、いずれそういうことになるだろうからだ……」
私がお嬢様を助けたとき、彼女は怪しげな男たちに連れ去られそうだった。あれも、彼女の皇族の血を狙った者たちの仕業だったのだろう。
偶然だと思っていた出会いが、きっと大きな企みの断片だったのだ。
男爵は得意げに髭を撫で、話を続けた。
「さて、次に租借地の新総督に任命されたのは、若くして名を馳せるマイネッケ伯爵だ。あの男の野心を考えれば、ミンレイを妻に欲するだろうよ。内密だが、この縁談には破格の謝礼が約束されているのじゃ」
彼は一瞬言葉を切り、声を和らげた。
「だがな、ミンレイにとっても悪い話ではない。マイネッケ家は莫大な財を誇り、広大な領地を持つ。そして彼女の安全は保障される。貧乏貴族の家に嫁ぐより、はるかに良い縁だ」
「なるほど」
私は呟いた。
男爵の言葉には、打算だけではない誠実さが感じられた。彼はミンレイ嬢を単なる政略の駒とは見ていない。富と安全に守られた未来を、彼女に与えたいとも願っているのだ。
男爵は私をじっと見据え、厳かに言った。
「ワシが留守の間、屋敷の管理はお前に任せる。怠りなく頼むぞ」
「承知いたしました」
私は即座に答え、頭を下げた。
近頃、私はユンカース男爵家の家宰とでも呼ぶべき立場にあった。
英雄ならば、この地位をさらなる栄光への足がかりとするのだろう。だが、小心な私には、慢心せず務めを果たすことこそが精一杯の志だったのだ。
◇◇◇◇◇
――三日後の朝。
冷たく湿った霧が庭園を覆う中、私は執事のシュモルケさんとともに、男爵とお嬢様を見送った。
真鍮製の車輪が石畳を軋ませ、蒸気機関の低い唸りが静かな別れを彩る。
シュモルケさんはミンレイ嬢と長年を共にした忠実な老僕だ。今日の旅立ちに、彼の目には大粒の涙が光っていた。
「お嬢様、この老いぼれは……」
シュモルケさんの声は震え、言葉を詰まらせた。
お嬢様は穏やかに微笑み、異国の抑揚を帯びた声で答えた。
「シュモルケさん、今までありがとうアル。でも、婚礼まではまだ時があるアルヨ」
「さよう、さようでございました」
シュモルケさんは灰色の髪をかきむしり、震える手でハンカチを取り出し、涙を拭った。その仕草には、深い愛情と安堵が混ざっていた。
彼らが乗る蒸気自動車が遠ざかり、霧の彼方へと消える。
私は空を見上げた。そこには、巨大な飛行船「スカイ・ホーク」が、雲間を悠然と漂っていた。鋼と帆布でできたその巨体は、帝国の誇りを象徴するかのようだ。
大空の如く広がる寂しさに、私の胸は一杯になっていたのだった。
「寂しくなるポコね」
自室に戻ると、ポコリーヌが私の肩に軽やかに飛び乗った。小さなタヌキの声は、まるで私の心を映すように切なかった。
「……ああ」
私は小さく答えた。
婚礼まではまだ時があるとはいえ、お嬢様の不在は、まるで心にぽっかりと穴を開けたようだった。
彼女の笑顔、異国情緒漂う話し方、そして共に過ごした日々が、すでに遠い記憶のように思えた。
……だが、今は感傷に浸っている暇はないのだ。
私は気を取り直し、机に向かった。
間近に迫る少尉昇進試験が私を待っているのだ。合格すれば、予備役の身分を脱し、正規の士官として帝国軍に名を連ねられるかもしれない。
ささやかな希望かもしれないが、それでも目指すべき目標だったのだ。
ランプの柔らかな光の下、私は珈琲の香りに一瞬の休息を求めつつ、試験の資料に目を落とした。
今回の範囲は「ガーランド帝国と東のパニキア連邦との戦役」である。分厚い書物のページを繰りながら、戦術や歴史の細部を頭に叩き込む。
だが、ある一節に差し掛かったとき、私はふと手を止めた。
「……ん?」
そこには、地図に記された記述に奇妙な点があったのだ。何か、腑に落ちぬ点――まるで隠された秘密を匂わせるような感じを受ける。
心がざわついたが、今はそれに深入りする余裕はない。私は首を振って気を引き締め、再び睡魔と戦いながら再び書物に没頭したのだった。
ランプの炎が揺れる中、夜が更けた頃には眠っていたのは内緒である……。