第16話……カサンドラ要塞の陥落と暗号機の行方
その日以降も、敵の巨大な多砲塔蒸気戦車は姿を現した。
煤と機械油の臭気を纏い、蒸気機関の唸り声を轟かせながら進むその怪物は、まるで産業が産んだ悪魔の化身だった。
しかし、この戦車の弱点は、その重厚な装甲の下に隠された足回り――蒸気駆動の履帯にあったのだった。
私は人型の蒸気魔動機「ガニメデ」に乗り込み、その操縦席でレバーを握り締める。
煤けたゴーグル越しに左目で敵を見据え、敵の弱点をリサーチしていく。
私の左目の視野に映し出される景色は、まるで元の世界での軍が装備する最新鋭のヘッドマウントディスプレイ(HMD)のようなものだった。
そして、搭載された軽蒸気砲の照準を履帯に合わせた。蒸気管がシューッと音を立て、圧搾空気が解放されると同時に、蒸気砲が白煙を噴いた。
轟音と共に放たれた砲弾は正確に履帯を打ち砕き、戦車は悲鳴のような軋みを上げてその場に停止した。
そこへ、遠くに陣取る我が軍の蒸気重砲部隊が一斉に射撃を開始する。
「撃てー!!」
空を切り裂く無数の砲弾が放物線を描き、戦車の上部装甲――その設計上の脆弱な一点――に次々と命中した。
爆炎と黒煙が立ち上り、鋼鉄の巨獣は大破。乗員たちは慌てて脱出用のハッチを蹴破り、煤だらけの顔で這い出してきた。
だが、敵も愚かではなかった。戦車に随伴する歩兵たちが、マスケット銃や初期型の蒸気ライフルを手にガニメデへと襲いかかってきた。
旧式とはいえ、ガニメデの重要部は分厚い鋼鉄装甲で守られており、歩兵の銃弾は装甲に当たって火花を散らすばかりで、私を傷つけるには至らなかった。
しかし、翌日もそのまた翌日も、我々傭兵団が守る戦区には敵の猛攻が途絶えることはなかった。
要塞を死守する敵軍にとって、我々の守る地域は包囲網の薄弱な箇所と映り、彼らは全戦力を集中させて突破を図っていたのだ。
他の戦域からかき集めただろう蒸気戦車の群れが、地響きを立てて迫り、敵歩兵の叫び声と共に、霧深い戦場に響き渡った。
「退くな! 持ちこたえろ!」
後に「猛将」と讃えられるヘルダーソン少佐は、煤と汗にまみれた顔で陣地を巡回し、兵士たちを叱咤激励した。
彼は帝国軍将校の軍服に身を包み、サーベルを手に持つその姿は、古き良き時代の騎士を思わせた。
彼は私財を投じて缶詰やラム酒を兵士たちに分け与え、疲弊した我々の士気を鼓舞し続けた。
毎夜、陣地の焚き火の周りで酒を酌み交わす兵士たちの笑い声が、傭兵団の高い士気の表れでもあった。
……そして、戦闘開始から二か月が過ぎたある日。
我々の戦区とは正反対の戦線で、正規軍が敵の城郭の一角を占拠したとの報せが入った。
あらかじめ蒸気機関車で運ばれていた巨大な蒸気臼砲が、敵陣を次々に粉砕。そして、決死の突撃隊が敵陣地の一角を突き崩したのだ。
それは、傭兵団が敵主力を引き付けていた作戦上の成功の証でもあった。
それらに呼応するように、その日の夕暮れ、全軍による総攻撃が開始された。
「突撃!」
砲兵たちは残弾を惜しまず蒸気重砲を稼働させ、けたたましい爆音が戦場を揺らし続けた。
歩兵たちはマスケット銃を手に、煤と砂埃の中を叫びながら突進していく。私もガニメデを駆り、敵の防衛線へと突っ込んだ。
瞬く間に城郭の守りは崩れ落ち、日が沈む頃には、敵のカサンドラ要塞の各所から、降伏のしるしである白旗が上がったのであった。
夕陽が煤けた空を赤く染める中、勝利の歓声が戦場に響き渡ったのだった。
◇◇◇◇◇
中央戦線の要所であるカサンドラ要塞が陥落したことにより、ジラール共和国軍は多方面から戦力を抽出。それによって生じた戦力すべてを中央線戦に投入した。
そのため北部や南部の守りは相対的に薄くなくなり、北部方面のガーランド帝国軍の主力による総攻撃を誘発したのであった。
この総攻撃は巧くいき、帝国軍はジラール共和国の東北部の主要な都市の制圧に成功。さらに軍を共和国首都ユーベルに向けたのであった。
◇◇◇◇◇
北部戦線が帝国軍の優勢に傾きつつある頃、南部戦線の第六師団を率いるヴィルヘルム・フォン・ホーフマン中将は、要人用の小型飛行船に参謀たちを乗せ、首都エーレベルクを発った。
煤けた空の下、蒸気機関の唸りを響かせながら、飛行船は赴任地である南部前線へと向かっていた。
船内では、参謀たちが高級な革張りの椅子に腰掛け、作戦地図を広げて議論を交わしている。
「中将閣下、この新型暗号変換機があれば、敵の通信傍受を完全に封じられるでしょう。」
若き参謀長、ハンス・シュタイナーが誇らしげに言った。ホーフマンは顎鬚を撫でながら、満足げに頷く。
「うむ。これで我が第六師団は敵に知られずに行軍することができる」
だが、その言葉が宙に浮いた瞬間、飛行船が激しく揺れた。窓の外では、黒雲が渦を巻き、雷鳴が轟いている。
操縦士が叫んだ。
「閣下! 嵐です! 気流が乱れ、制御が――」
言葉を終える前に、強風が船体を叩きつけ、鋭い破砕音と共に船尾のプロペラが吹き飛んだ。
飛行船は操縦不能に陥り、風に翻弄されながらジラール共和国南部の山岳地帯へと流されていく。
「全員、衝撃に備えろ!」
ホーフマンが叫んだ瞬間、飛行船は湖面に激突した。
木製の骨組みが軋み、気嚢が破れ、船体は水しぶきを上げて湖に沈み始めた。 冷たい水が船内に流れ込み、参謀たちは慌てて脱出を試みる。
ホーフマンは沈みゆく船内で暗号変換機を一瞥したが、もはや手の届かぬ深さにあった。
「閣下、こちらへ!」
シュタイナーがホーフマンの腕を掴み、湖面へと飛び込んだ。中将以下司令部要員は、必死に泳いで岸へとたどり着いた。
湖畔に這い上がったホーフマンは、濡れた軍服から滴る水を見下ろし、歯噛みした。
「くそっ……最新鋭の暗号機が……作戦地図までも!」
湖面には、飛行船の残骸と共に重要な書類が散乱し、次第に水底へと沈んでいくのが見えたのであった。
一行は少数民族が暮らす自治区の山岳地に取り残されたが、ホーフマンは気を取り直して命令を下した。
「落ち込んでいる暇はない。任地まで強行軍をするぞ。我々は何としても辿り着かねばならん!」
疲労困憊の中、彼らは険しい山道を進み、泥と汗にまみれながらも、数日後にガーランド領へと逃げ延びることができたのであった。
しかし、後日。
帝国本国の総司令部への報告の時、ホーフマンは苦渋の決断を下す。参謀たちと顔を見合わせ、声を低くして言った。
「新型の暗号機と書類が敵の手に渡ったとなれば、我々の失態が帝国全軍に知れ渡る。……こう報告するしかない。『暗号機および重要書類は焼却済み』と。」
シュタイナーが眉をひそめた。
「しかし閣下、それは虚偽では……」
「黙れ、ハンス!」
ホーフマンが遮った。
「我々の名誉と昇進がかかっているのだ。湖底に沈んだままなら、誰も真実を知るまい。」
こうして、ホーフマン中将とその参謀たちは、総司令部に偽りの報告を提出したのだった。
煤と機械油に満ちた戦場で、彼らの秘密は湖の深淵と共に永遠に葬られた――少なくとも、そう彼らは信じていたのだった。