第4章:賢女の決意
セラピス王国の首都ルミナールは、朝靄に包まれた美しい都市だった。白い石造りの建物が丘陵地に建ち並び、中央の大聖堂の鐘楼が空に向かって伸びている。リリア・ノヴァは聖堂の最上階にある自分の部屋から、その光景を眺めていた。
五年前、この世界に突然放り込まれた時のことを思い返す。混乱、恐怖、絶望。現代の研究者だった自分が、なぜ古代の世界にいるのか理解できなかった。
しかし今では、この生活にも慣れていた。聖女リリアとして、セラピス王国の人々に敬愛されている。現代の医学知識と衛生概念を活かした治療で多くの命を救い、農業技術の改良で飢饉を防いだ。王室からも厚い信頼を受け、重要な政治的助言を求められることも多い。
それでも、心の奥底では常に思っていた。いつか現代に帰りたい。元の生活に戻りたい。そして、あの事故で一緒に飛ばされたかもしれない仲間たちを探したい。
部屋の扉がノックされた。
「聖女様、お入りします」
侍女のエミリアが入ってくる。十六歳の快活な少女で、この五年間リリアの世話をしてくれている。
「おはようございます、エミリア」
「おはようございます。王様がお呼びです。緊急の相談があるとのことで」
リリアの表情が引き締まった。最近の王の相談は、決まって戦争の話だった。隣国アルカディア王国で起きている紛争が、ついにセラピス王国にも影響を及ぼし始めている。
「分かりました。すぐに参ります」
王宮の謁見の間は、重苦しい雰囲気に包まれていた。セラピス王マクシミリアンは温厚な中年の君主だが、今朝の表情は深刻そのものだった。周りには重臣たちが集まり、皆一様に暗い顔をしている。
「リリア、来てくれたか」王は安堵の表情を浮かべた。「君の意見を聞きたい」
「何でございましょうか、陛下」
「アルカディア王国の戦況が急激に悪化している。三方向から攻められ、もはや陥落は時間の問題だ」
リリアの胸が締め付けられた。アルカディア王国。その名前を聞く度に、心の奥で何かが反応する。理由は分からないが、その国には特別な何かがあるような気がしていた。
「それで、我が国への影響は?」
「難民が大量に流入する可能性がある。それに...」王は言葉を選んだ。「戦勝国同盟が次の標的として我が国を選ぶ可能性も否定できない」
重臣の一人が口を開いた。「アルカディア王国には『神の宝石』があると聞きます。それを狙っているのでしょう」
神の宝石。リリアはその言葉に引っかかりを感じた。
「神の宝石とは?」
「The Divine Oracleと呼ばれる聖遺物です」別の重臣が説明した。「神の声が聞こえ、魔法の力を与えてくれるという」
リリアの心臓が跳ね上がった。神の声。魔法の力。まさか...
「その宝石について、もう少し詳しく教えていただけますか?」
「商人の話によれば、青い光を放つ水晶だそうです。王族が代々守っており、その加護で国民が魔法を使えるようになったとか」
青い光を放つ水晶。リリアの心に微かな引っかかりを感じた。何かを思い出しそうになるが、確信は持てない。
「その宝石は...いつ頃からアルカディア王国にあるのでしょうか?」
「古い記録によれば、約百年前に突然現れたそうです。ある日、神殿に光とともに降臨したとか」
百年前。突然の出現。リリアの胸に奇妙な予感が走ったが、まだ確証はない。
「リリア?」王が心配そうに見ている。
「申し訳ございません。少し考え事を...」
リリアは冷静を装ったが、心の中には奇妙な予感があった。青い光を放つ水晶。百年前の突然の出現。そして魔法の力。何かの関連がありそうだが、まだ推測の域を出ない。しかし、もしかすると...そんな可能性が頭をよぎった。
「リリア、君の意見を聞かせてくれ」王が続けた。「我が国はどう対応すべきだと思う?」
リリアは少し考えてから答えた。「陛下、まずは情報収集が重要かと思います。アルカディア王国の正確な状況を把握しなければ、適切な判断はできません」
「確かに。しかし、戦時下での情報収集は困難だ」
「私が行きます」
謁見の間が静まり返った。重臣たちが驚いた顔でリリアを見ている。
「リリア、何を言っている?危険すぎる」
「私は聖女として、各国に知己があります。宗教的な立場からの仲裁役として、アルカディア王国を訪問することは不自然ではありません」
実際、これは建前だった。リリアの本当の目的は、あの宝石を自分の目で確認することだった。あの奇妙な予感の正体を突き止めたかった。
「しかし」重臣の一人が反対した。「聖女様の身に何かあれば、我が国にとって大きな損失です」
「平和のための外交努力は、聖職者の重要な務めです」リリアは毅然として答えた。「それに、このまま戦争が拡大すれば、より多くの命が失われます」
王は長い間考え込んでいた。やがて、重い口を開いた。
「分かった。しかし条件がある。護衛を十分につける。それと、危険を感じたらすぐに撤退すること」
「承知いたしました」
謁見が終わった後、リリアは自分の部屋に戻った。窓辺に立ち、東の方角を見つめる。そこにアルカディア王国がある。そして、もしかすると...
五年間、リリアはあの事故について考え続けてきた。あの日、ヴィクター・クロウの実験を止めようとしたダニエル。乱入したマイケル。そして、研究室で起きた異常な現象。
あの時、何が起きたのか。なぜ自分は過去に飛ばされたのか。そして、他の人たちはどうなったのか。現代にいるのか、それとも自分と同じように...
リリアは机の引き出しから、小さなノートを取り出した。この五年間で収集した情報が記されている。各国の技術レベル、政治情勢、そして不自然な現象の報告。
特に興味深いのは、各地で報告される「異常な知識を持つ人物」の存在だった。
東方のある国では、革新的な農業技術を持つ謎の農夫がいるという。従来の三倍の収穫量を実現し、新しい灌漑システムを開発したとか。
西方の国では、前例のない攻城兵器を設計した軍事技術者がいるという。その武器は従来のものを遥かに凌ぐ性能を持つとか。
そして北方では、高度な医学知識を持つ学者が王室に仕えているという。
単なる偶然かもしれない。しかし、リリアには気になることがあった。自分も現代の知識を活かしてこの時代で生きている。もしかすると、他にも同じような境遇の人がいるのではないか。そんな可能性を考えずにはいられなかった。
特に気になるのは西方の軍事技術者だった。その効率重視で結果至上主義的な行動パターンの報告を聞くと、どこか聞き覚えがあるような気がした。しかし、それが誰なのかは分からない。
リリアは立ち上がった。宝石の謎を確かめたい。そして、もしかすると他にも現代から来た人がいるかもしれない。そんな淡い期待を抱いていた。
部屋の隅にある小さな祭壇に向かい、祈りを捧げた。表向きは神への祈りだが、実際は心の整理をするための時間だった。
「もしかして、私と同じような人がいるのかしら?」
リリアは心の中で呟いた。この広い古代世界のどこかに、もしかすると現代から来た人がいるかもしれない。同じように混乱し、同じように故郷を恋しく思いながら、この時代で生きている人が。
そして、あの宝石の謎も。青い光を放つ水晶は、本当に神の力なのだろうか。それとも、自分が感じた奇妙な予感には、何か理由があるのだろうか。
翌朝、リリアは出発の準備を始めた。聖女としての正装、医療道具、そして最低限の護身具。表向きは平和使節としての訪問だが、実際は調査任務だった。
「聖女様」エミリアが心配そうに見ている。「本当に行かれるのですか?」
「ええ。平和のために必要なことです」
「でも、戦争中の国に行くなんて...」
リリアはエミリアの手を取った。「心配しないで。必ず戻ってきます」
実際、リリアにも不安はあった。戦時下の国への潜入。宝石の正体確認。そして、もしかすると現代の仲間たちとの再会。すべてが未知数だった。
しかし、同時に期待もあった。五年ぶりに、何か重要な手がかりが見えてきた気がした。この調査が、多くの謎を解く鍵になるかもしれない。
王宮の中庭で、護衛騎士たちが待機していた。十名の精鋭部隊。彼らはリリアを守るため、そして万が一の時は王国への報告のために同行する。
「聖女様」騎士隊長のロバート卿が敬礼した。「準備が整いました」
「ありがとうございます。では、出発しましょう」
一行は王都を後にし、東へ向かった。アルカディア王国までは三日の行程。戦時下の危険な旅路だが、リリアの決意は固い。
馬上から振り返ると、セラピス王国の王都が朝日に輝いている。五年間住み慣れた第二の故郷。もしかすると、これが最後の別れになるかもしれない。
しかし、リリアは前を向いた。未知の真実が待つ東方へ。運命の再会が待つアルカディア王国へ。
道中、騎士隊長が戦況について説明してくれた。
「聖女様、アルカディア王国の状況は想像以上に厳しいようです。東西北の三方向から攻められ、王都包囲も時間の問題とか」
「魔法師団の状況は?」
「疲弊しているとの報告です。連続戦闘で魔力を消耗し、戦力が大幅に低下している模様」
リリアの胸が痛んだ。魔法の力を持つ人々が戦争で疲弊している。どんな力であれ、人を救うために使われるべきなのに、争いの道具になってしまっている。
「敵軍の戦術はどうですか?」
「非常に巧妙だそうです。特に新型の攻城兵器が効果的で、従来の魔法防御を無力化しているとか」
新型攻城兵器。リリアの脳裏に嫌な予感が走った。もしかすると、現代の知識を持つ誰かがその技術に関わっているのではないか。
二日目の夜、一行は国境近くの宿場町で休息した。ここまで来ると、戦争の影響が色濃く見える。難民の姿、物資不足、人々の不安な表情。
宿屋の主人から情報を聞くと、状況はさらに深刻だった。
「アルカディア王国軍は各地で撤退を余儀なくされています。王都への道筋は、まだ一本だけ開いていますが...」
「その道筋を通れば、王都に入れますか?」
「危険ではありますが、聖女様の立場なら交渉の余地があるかもしれません」
その夜、リリアは一人で星空を見上げた。同じ星空を、ARIAも見ているのだろうか。ダニエルも、マイケルも。
明日、ついにアルカディア王国に入る。五年間の謎が、ようやく解けるかもしれない。
「みんな、無事でいて」
リリアは心の中で呟いた。現代にいるのか、それとも自分と同じような境遇にいるのか分からない。でも、どこにいても元気でいてほしい。そんな願いを込めて。
しかし、どちらにしても真実を知らなければならない。それが、現代から飛ばされた者の責任だった。