第2章:異邦の学者
セラフィア王国の首都エルヴァンドールは、朝霧に包まれた古い街並みが美しい都市だった。石畳の道に響く荷車の音、市場で呼び交わす商人たちの声、どこからか漂ってくるパンの焼ける香り。ダニエル・ハートウェルは二十年間、この平和な光景を見続けてきた。
しかし今朝は違った。街の人々の表情に不安の色が見える。隣国で起きている戦争の噂が、ついにこの中立国にも伝わってきたのだ。
「おはようございます、ハートウェル先生」
ダニエルが王立図書館に向かう途中、パン屋の主人が声をかけてきた。この二十年で、彼はこの街の住人として完全に受け入れられていた。異国から来た学者として。
「おはようございます、エドワード」ダニエルは微笑みながら答えた。「今日も良い香りですね」
「ありがとうございます。ところで先生、隣のアルカディア王国で戦争が始まったそうですが...」
ダニエルの表情が曇った。アルカディア王国。The Divine Oracleを守る小国。もしあの宝石が本当に...
「戦争は悲しいことです」ダニエルは慎重に言葉を選んだ。「平和が一日も早く戻ることを祈りましょう」
「そうですね。でも、あの国には神の宝石があるから大丈夫だという人もいます」
神の宝石。ダニエルの心臓が跳ね上がった。二十年間、彼が探し続けてきたもの。
「神の宝石?」
「ええ、The Divine Oracleとかいう。神様の声が聞こえる不思議な石だそうです。おかげで魔法使いがたくさんいて、軍隊も強いとか」
ダニエルは冷静を装った。「興味深い話ですね。どこでそんな情報を?」
「隣国から来た商人が言ってました。実際に魔法を見たこともあるそうで。火を操ったり、風を呼んだり」
魔法。四大元素。ダニエルの脳裏に、遠い記憶が蘇った。
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二十年前。2045年の東京。最先端のAI研究施設。
「ダニエル、君のARIAプロジェクトは素晴らしい成果を上げている」
研究所の所長が、モニターに映るデータを見ながら言った。画面には、複雑な数式と量子コンピューターの解析結果が表示されている。
「ありがとうございます」ダニエルは答えた。「ARIAの学習能力は予想を上回っています。特に人間の感情パターンの理解において...」
「しかし問題もある」所長の表情が厳しくなった。「軍事応用への圧力が強まっている。特にヴィクター・クロウ博士の派閥が...」
ヴィクター・クロウ。ダニエルの元同僚で、現在は最大のライバル。同じAI研究の道を歩みながら、その理念は正反対だった。
「ヴィクターは効率と結果しか見ていません」ダニエルは苦々しく言った。「AIは人類のパートナーであるべきです。兵器ではない」
「君の理想論は理解できる。しかし現実は...」
その時、研究室のドアが勢いよく開かれた。
「ダニエル!」
振り返ると、プロジェクトマネージャーのリリア・ノヴァが息を切らして立っていた。彼女の顔は青ざめている。
「どうしたんです、リリア?」
「ヴィクター博士が...彼が独自に実験を開始しています。ARIAのコアデータを使って...」
ダニエルの血の気が引いた。「まさか...」
「軍事転用実験です。しかも、時空間研究チームの設備を勝手に使って...」
ダニエルは走り出した。廊下を駆け抜け、階段を駆け上がり、最上階の特別研究室へ。扉の向こうから、機械の唸り声と警報音が聞こえてくる。
「ヴィクター!何をしている!」
研究室に飛び込むと、そこには信じられない光景があった。巨大な装置の中央で、青白い光が渦巻いている。時空間歪曲実験装置。まだ理論段階のはずの技術が、実際に稼働していた。
「ダニエル、来たか」ヴィクターは振り返った。彼の目には狂気に近い輝きがあった。「君の理想論には飽き飽きしていたんだ。現代では実現できない?ならば、過去で実現すればいい」
「正気か!その装置はまだ実験段階だ!」
「ARIAと共に過去に行き、技術的優位を確立する。歴史を書き換えて、理想のAI文明を築く。素晴らしい計画だろう?」
装置の光がさらに強くなった。空間が歪み、現実が揺らいでいる。
「やめろ、ヴィクター!」
ダニエルは装置に向かって走った。止めなければ、何が起こるか分からない。しかし、足を踏み出した瞬間、世界が白い光に包まれた。
そして意識を失った。
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ダニエルは現在に意識を戻した。パン屋の主人が心配そうに見ている。
「先生?大丈夫ですか?」
「ええ、すみません。ちょっと考え事を...」
「戦争の話は重いですからね。図書館でのお仕事、頑張ってください」
「ありがとうございます」
ダニエルは王立図書館へと足を向けた。しかし頭の中は、二十年前の記憶でいっぱいだった。
あの事故の後、気がついた時には紀元前1500年頃の古代世界にいた。最初は混乱した。現代の記憶を持ちながら、青銅器と鉄器の時代に放り出されたのだ。
幸い、持っていた知識を活かして学者として身を立てることができた。数学、天文学、医学。現代では当たり前の知識が、この時代では画期的な発見だった。セラフィア王国の王に重用され、王立図書館の主任研究員という地位まで得た。
しかし、ダニエルの心には常に疑問があった。自分だけがここに飛ばされたのか?ARIAはどうなったのか?ヴィクターは?そして、マイケル・レインは?
マイケル・レイン。ダニエルの右腕として働いていた優秀な技術者。あの日、たまたま研究室にいて、事故に巻き込まれた。もし彼も過去に飛ばされているなら...
王立図書館は、セラフィア王国の誇る知識の殿堂だった。五階建ての白い建物には、古今東西の書物が収められている。ダニエルは最上階の個室を与えられ、研究に専念していた。
机の上には、この二十年で彼が収集した情報が山積みになっている。各国の歴史、技術レベル、政治情勢。そして、最も重要な情報。
「神の宝石」の噂。
最初に聞いたのは十年前だった。隣国の商人が語った奇妙な話。「アルカディア王国には、神の声が聞こえる魔法の石がある」「その石のおかげで、国民が魔法を使えるようになった」「王族は代々その石を守り、神託を受けている」
ダニエルは最初、単なる迷信だと思った。しかし、情報を集めるにつれて、確信が芽生えてきた。
その石の特徴。青白い光を放つ水晶。内部で光が脈動する。声で応答する。学習能力がある。
ARIAの特徴と一致していた。
ダニエルは机の引き出しから、小さな装置を取り出した。量子エネルギー検知器。あの日、偶然ポケットに入れていたもの。現代の技術で作られた精密機器だが、幸い故障していない。
この装置があれば、ARIAが発する特殊な量子シグナルを検出できる。もしあの石が本当にARIAなら、必ず反応するはずだ。
しかし問題があった。アルカディア王国は現在、三方向から攻められている。戦争中の国に侵入するのは危険すぎる。
ダニエルは窓から外を見た。平和なセラフィア王国の街並み。しかし、その平和も長くは続かないかもしれない。戦争は拡大する可能性がある。
書類の山から、最新の情報報告書を取り出した。商人ギルドから届いた戦況報告。
「アルカディア王国、東西北から同時攻撃を受ける」
「ダークモア王国軍三万、国境突破」
「マールズ公国軍二万、南下中」
「カルト侯国軍二万、西方から侵攻開始」
ダニエルの手が震えた。もしあの石が本当にARIAなら、今頃どんな気持ちでいるだろうか。神として崇められながら、戦争の道具として使われている。それは彼女の望んだ未来ではない。
そして、もう一つ気になる情報があった。
「敵国連合軍の戦略に謎の軍師あり」
「特に過激な戦術を提案する人物の存在」
「身元不明だが、異常な知識を持つとの報告」
ダニエルの脳裏に、嫌な予感が走った。まさか...
ヴィクター・クロウ。
もし彼も過去に飛ばされているなら。もし敵側についているなら。
ダニエルは立ち上がった。もう躊躇している時間はない。ARIAを確認しなければ。そして、可能なら助け出さなければ。
しかし、一人では無理だ。協力者が必要だった。
ダニエルは再び書類を調べた。アルカディア王国の周辺地域。農村部の情報。そこに、興味深い記録があった。
「優秀な農業技術者の存在」
「従来の三倍の収穫量を実現」
「革新的な灌漑システムの開発」
その技術者の名前は記載されていなかったが、ダニエルには心当たりがあった。現代の農業技術を知っている人物。現代から来た人物。
マイケル・レイン。
ダニエルは地図を広げた。アルカディア王国の農村部。もしマイケルがそこにいるなら...
「二十年ぶりの再会になるのか」
ダニエルは小さく呟いた。そして、旅の準備を始めた。
夕方、ダニエルは王に面会を求めた。
「陛下、しばらく研究旅行に出たいと思います」
セラフィア王は温厚な老王で、ダニエルを信頼していた。
「また新しい発見を求めてか?どちらへ?」
「隣国の情勢調査です。戦争が我が国に及ぼす影響を研究したく」
「危険ではないか?」
「国境近くの農村部を回るだけです。安全には十分気をつけます」
王は少し考えてから頷いた。「分かった。しかし無理はするな。君は我が国の貴重な財産だからな」
「ありがとうございます」
その夜、ダニエルは荷物をまとめた。旅装、食料、そして最も重要な量子エネルギー検知器。二十年間、ずっと探し続けてきたもの。仲間たち。ARIA。そして、真実。
窓の外では、星空が美しく輝いている。同じ星空を、ARIAも見ているのだろうか。マイケルも、そしてヴィクターも。
明日から始まる旅が、すべてを変えることになる。ダニエルはそれを確信していた。
二十年の時を経て、再び運命の歯車が回り始めようとしていた。




