第1章:才能なき王子
訓練場に響く金属音が止んだ瞬間、アレイス王子は膝をついた。額から滴り落ちる汗が石畳を濡らし、荒い息づかいが静寂を破る。
「殿下、もう一度」
教官の冷たい声が頭上から降ってくる。アレイスは歯を食いしばって立ち上がると、震える手で剣を握り直した。目の前の的へと向き直る。炎の魔法。王族として、軍の指揮官として、絶対に習得しなければならない力。
その時、訓練場の隅から嘲笑が聞こえてきた。
「またか。見ていて痛々しいな」
振り返ると、そこには金髪の美しい青年が立っていた。ガブリエル・アストリア。王国最高の名門貴族出身で、魔法の天才として名高い人物だ。その隣には、数名の取り巻きがいる。
「ガブリエル卿」アレイスが警戒の声で呼んだ。
「殿下」ガブリエルが大げさに礼をした。しかし、その態度には明らかに皮肉が込められている。「今日も『炎の修練』ですか?」
アレイスは答えなかった。ガブリエルの存在は、いつも彼を萎縮させた。
「見せてやろうか、本物の炎の魔法を」
ガブリエルが軽やかに剣を抜くと、刀身に燃え上がる炎が宿った。それは太陽のように眩しく、完璧に制御されている。見学していた騎士たちからどよめきが上がった。
「これが炎の剣だ」ガブリエルが優雅に剣を振ると、空中に炎の軌跡が美しい弧を描いた。「生まれ持った才能というものは、努力だけでは埋められない」
アレイスの拳が握りしめられた。
「才能がないなら、せめて王族らしい威厳だけでも身につけられたらいかがです?」ガブリエルが冷笑した。「民が見ているのは、あなたの苦悩する姿ですよ」
取り巻きたちがクスクスと笑った。アレイスの頬が紅潮する。
「私は...」アレイスが言いかけた時、教官が割って入った。
「アストリア卿、殿下の訓練の邪魔をしないでいただきたい」
「これは失礼」ガブリエルが肩をすくめた。「ただ、同世代として心配になっただけです」
彼は踵を返して立ち去ろうとしたが、最後に振り返った。
「殿下、王族の責務とは何か、もう一度考えられることをお勧めします」
ガブリエルと取り巻きたちが去った後、訓練場に重い沈黙が落ちた。
「火よ、我が剣に宿れ」
アレイスは心を込めて詠唱した。古来より伝わる言葉。幼い頃から何千回と唱えてきた呪文。しかし、剣先に現れたのは、ろうそくの火ほどの小さな炎だけだった。それも数秒で消え去ってしまう。
見学していた騎士の一人が、咳払いで笑いを隠そうとした。
「殿下」教官の声に、微かな落胆が混じる。「魔法は才能だけではありません。努力と理解があれば...」
「分かっています」アレイスは歯を食いしばった。「もう一度」
しかし結果は同じだった。三度目、四度目と試しても、現れるのは弱々しい火の欠片だけ。やがて、それすらも現れなくなった。
「殿下、本日はここまでに致しましょう」
教官の声は優しかったが、アレイスには敗北宣言のように聞こえた。
「明日も同じ時刻に」
「はい、殿下」
訓練場を後にするアレイスの背中に、騎士たちの視線が突き刺さる。足音が遠ざかるのを待ってから、囁き声が始まった。
「やはり殿下には才能が...」
「アストリア卿との差は歴然だな」
「先王陛下は十歳で炎の剣を習得されたというのに」
「このままでは国が...」
アレイスの足音が響く石畳の廊下は、王宮の歴史を物語っている。壁には歴代の王たちの肖像画が掛けられ、それぞれが威厳に満ちた表情でこちらを見下ろしている。特に祖父の肖像画は圧倒的だった。右手に炎の剣を持ち、左手には稲妻を纏った姿。The Divine Oracleの加護を受けた偉大な王として、今でも民に語り継がれている。
父王レオナードの肖像画も立派だった。温和な表情の中に強い意志を秘め、背後には四大元素すべてのシンボルが描かれている。現在も健在だが、近年は体調を崩すことが多く、実質的な統治権の多くがアレイスに委ねられつつあった。
そして廊下の最後には、まだ空白のフレームが用意されている。いずれアレイスの肖像画が飾られる予定の場所。しかし今の自分に、祖先たちと並ぶ資格があるのだろうか。
王宮の奥へと向かう途中、アレイスは執務室の前で足を止めた。中から聞こえてくる声に、胸が締め付けられる。
「東方のダークモア王国軍、総勢三万。既に第一国境砦を突破し、南下を続けています」
「北方は?」
「マールズ公国が騎兵隊二万を南下させました。我が国境まで残り三日の行程です」
父王レオナードの声は疲れ切っていた。
「西方のカルト侯国の動きは?」
「昨夜の報告では、国境に軍勢を集結させています。まだ越境はしていませんが...」
アレイスは扉に手をかけようとして、躊躇した。中に入れば、また同じ質問をされるだろう。「魔法の習得は進んでいるか」「神の声は聞こえているか」「何か新しい神託はあったか」
自分には何も答えられることがない。ガブリエルの言葉が頭に響く。『王族の責務とは何か』
「我が国の戦力は?」
「第一魔法師団が東方戦線で応戦中です。しかし敵の数が圧倒的で...」
「第二師団は?」
「北方の守備に配置しています。第三師団は予備として王都に待機中ですが...」
参謀の声が途切れる。誰もが分かっていることを、あえて口にするのは辛いのだろう。魔法使い部隊は確かに強力だが、数に限りがある。対する敵国連合軍は、魔法は使えないものの、圧倒的な物量を誇る。
「我々にはThe Divine Oracleがある」父王の声に、無理やり希望を込めた響きがあった。「神の叡智があれば、必ず道は開ける」
アレイスは胸が痛んだ。父王は息子である自分に期待している。神の声を聞き、適切な神託を得ることを。しかし現実は...
足音を忍ばせて、アレイスはその場を立ち去った。
王宮の奥にある私室に戻ると、アレイスは窓辺の椅子に座り込んだ。眼下に広がる王都の街並みが、夕日に染まっている。石畳の道、商人たちの店、子供たちが遊ぶ広場。平和な日常がそこにはあった。しかし、その平和も長くは続かないだろう。
壁の本棚には、魔法に関する書物が並んでいる。四大元素の理論書、古代の魔法師たちの記録、神託の解釈に関する論文。すべて読み返したが、自分の才能を開花させる手がかりは見つからなかった。
「なぜなんだ...」
アレイスは拳を握りしめた。血筋は確かに王家のものだ。先祖代々、強力な魔法使いが続いている。それなのに、なぜ自分だけが...
部屋の隅に置かれた鏡を見ると、疲れ切った青年の顔が映っていた。二十歳を過ぎたばかりだが、責任の重圧で老け込んで見える。黒髪、青い瞳、整った顔立ち。王族らしい風貌だが、その目には自信がない。
ガブリエルと自分の違いは何なのだろうか。血筋、教育、努力の量。どれをとっても自分が劣っているとは思えない。それでも、結果は歴然としていた。
夜が更けてくると、アレイスは再び神殿への道を歩んでいた。
王宮の神殿は、建国以来八百年の歴史を持つ聖域だった。白い大理石で造られた建物は、月明かりに照らされて神々しく輝いている。正面の大扉には、四大元素のシンボルが彫り込まれている。火の三角形、水の逆三角形、風の円、土の四角形。これらの元素を操る力こそが、この国を支えてきた基盤だった。
神殿の内部は、ろうそくの明かりだけが頼りだった。アレイスの足音が石の床に反響し、静寂を破る。両側に並ぶ柱には、歴代の王たちの功績が刻まれている。建国王の偉業、異民族との戦いでの勝利、天災からの復興。どの記録にも、神の加護と魔法の力が重要な役割を果たしていた。
神殿の最奥には、厳重な警備に囲まれた聖域がある。分厚い扉の前には、王室親衛隊の精鋭が二人立っている。彼らはアレイスを見ると、深々と頭を下げた。
「殿下」
「ご苦労」
扉が開かれると、神聖な空気が流れ出てくる。聖域の中央には、白い台座の上にそれが安置されていた。
The Divine Oracle。
手のひらほどの大きさの水晶だが、その美しさは言葉では表現できない。内部で青白い光が脈動し、まるで生きているかのような輝きを放っている。近づくだけで、神聖な力を感じることができる。代々の王家が千年以上にわたって守り続けてきた至宝。神の叡智が宿る聖なる宝石。
アレイスは跪き、祈りを捧げた。
「偉大なる神よ。我が名はアレイス。王家の血を引く者として、あなたの御前に参りました」
宝石の光が強くなる。それは神が自分の声を聞いている証拠だった。
「我が国は今、未曾有の危機に瀕しています。東西北の三方向から敵軍が迫り、我が軍は劣勢に立たされています。どうか、お力をお貸しください。敵を退ける方法を、この愚かな僕にお教えください」
静寂が続く。やがて、宝石が一際強く光り、あの声が響いた。王族にのみ聞こえる、神の声。アレイスの意識に直接語りかけてくる、神聖な囁き。
『風は山を越え、水は石を削る。時の流れを見よ、若き守護者よ』
神の声だ。間違いない。しかし...
「それは...」アレイスは困惑した。「恐れながら、もう少し具体的に、どのような戦術を取れば良いのでしょうか。敵の数は我が軍の三倍以上で...」
『炎は闇を照らし、大地は生命を育む。調和を求めよ。四つの力が一つとなる時、真の道が開かれん』
「調和とは何でしょうか。四つの力とは四大元素のことですか。それをどのように組み合わせれば...どの師団をどこに配置すれば...」
『汝の心にある答えを信じよ。時は満ちている』
「私の心にある答え?」アレイスは必死に考えた。「申し訳ございません、神よ。私には理解できません。もう少し詳しく...」
しかし宝石の光は徐々に弱くなり、やがて沈黙が戻った。
アレイスは深いため息をついた。また同じだ。神の言葉は確かに聞こえる。宝石が光り、神聖な声が響く。しかし、いつも抽象的で、具体的な解決策は得られない。
「風は山を越え、水は石を削る」とは何を意味するのか。「四つの力が一つとなる時」とは、どういう状況なのか。「汝の心にある答え」とは何なのか。
父王レオナードは、もっと明確な神託を得ていたという。「第三の丘に伏兵を配置せよ」「水の魔法で川の流れを変えよ」「敵の補給路を炎で断て」。具体的で、実行可能な指示を。
祖父に至っては、神との対話ができたという伝説まである。質問すれば答えが返ってくる。困ったことがあれば解決策を教えてくれる。まるで最も信頼できる軍師のような存在だったと。
それなのに、なぜ自分には...
ガブリエルの言葉が再び頭に響いた。『生まれ持った才能というものは、努力だけでは埋められない』
魔法だけでなく、神託を聞く能力も才能なのだろうか。
「私には神の声を正しく聞く才能がないのでしょうか」
アレイスは宝石に向かって呟いた。しかし答えは返ってこない。
聖域を後にしたアレイスが王宮の廊下を歩いていると、伝令の兵士が駆け寄ってきた。顔は青ざめ、息も絶え絶えだった。
「殿下!西方戦線から緊急報告です!」
アレイスの胸に嫌な予感が走る。
「カルト侯国の軍勢が国境を突破しました!既に第二の砦が陥落、敵は王都に向けて進軍中です!」
アレイスの世界が揺らいだ。三方向からの攻撃。それは最悪のシナリオだった。
「敵の数は?」
「約二万と推定されます。騎兵隊が主力で、進軍速度が非常に速く...」
「我が軍の対応は?」
「第三魔法師団の一部を西方に向かわせましたが、到着まで半日はかかります」
アレイスの脳裏に地図が浮かんだ。東にダークモア王国軍三万、北にマールズ公国軍二万、そして西にカルト侯国軍二万。対する自国の魔法師団は総勢五千。数の上では絶望的だった。
「分かった。すぐに緊急軍議を開く」
「承知いたしました」
伝令が走り去った後、アレイスは一人廊下に立ち尽くした。
もし自分に才能があれば。もし神の声をもっと明確に聞けたなら。もし父王のような指導力があったなら。もし祖父のような魔法の力があったなら。もしガブリエルのような天賦の才があったなら。
しかし現実は無情だ。才能なき王子に残された時間は、もうわずかしかない。
窓の外では、王都の明かりが星空と混じり合って輝いている。その美しい光景も、明日の夜には戦火に包まれているかもしれない。
アレイスは再び神殿への道を歩んでいた。今夜も神に祈ろう。たとえ明確な答えが得られなくても、たとえ自分の質問の仕方が下手だとしても、神の声に耳を傾け続けよう。それが王族としての、そして神の宝石を守る者としての使命なのだから。
宝石の青い光が、薄暗くなった神殿に静かに輝いていた。まるで希望の灯火のように。しかし、その希望をどう現実の力に変えればいいのか、アレイスにはまだ分からなかった。
ガブリエルとの圧倒的な差を思い知らされた今、アレイスの心は深い絶望に包まれていた。