本当に役立たずなのは誰?
「ミルラ、お前との婚約を破棄する」
家名さえつけずに突然、婚約破棄されたミルラはその言葉を告げた婚約者を呆然と見つめることしかできなかった。社交シーズンが始まる王宮での夜会で、久々の華やかな場に浮ついていた周りの貴族達も口をつぐんだ。
幼い頃からの婚約者であるというのに、冷たい目で見られたことしかない男をぼんやりと見つめる。
その時、ふわりと視界に瑠璃色が舞った。それはどこからか入り込んだ綺麗な色をした小鳥だった。自分の舞台を邪魔された婚約者が一瞬目を眇める。しかし、小鳥はミルラ達の側にある中央階段の手すりに止まった。囀ることも飛び立つ様子もない小鳥から彼は視線を外した。
いつの間にか彼の背後にはミルラの家族が並んでいた。その構図を見て、周りで固唾を飲んで事態を見守ってる貴族達もミルラの有責での婚約破棄がなされるのだと理解した。ミルラの家は古くから王家に忠誠を誓う侯爵家だ。優秀な者を輩出する侯爵家の中でミルラが落ちこぼれなのは有名な話だった。
ミルラが五歳の頃にこの国の第一王子と婚約が結ばれた。だから、周りの貴族もきっとミルラは王家が早々に囲いこみたくなるような美貌と加護を持つのだと思っていたのだ。しかし、今日という日までミルラがその期待に応えることはなかった。王家も自分達の過ちに気づいたのだろう。
「だいたい、将来の国王である俺がなぜ“付与”などという地味で役に立たない加護を持つお前が婚約者なんだ?」
金髪碧眼の整った容姿をした男は腕にピンクブロンドの少女をぶらさげて、ミルラに問う。
尊大な態度の許される彼の加護は"王"。この婚約もミルラが望んだものではない。王家がミルラの加護を知り、勝手に期待し、押し付けた縁談だ。その言葉をぐっと喉の奥に飲み込む。
「侯爵家の者で良いなら、“愛”の加護を持つお前の妹で良いだろう?」
疑問形で問いかけているが、それは確定事項だ。
この国では貴族のみが生まれつき神から与えられるという加護を持つ。子供が三歳の時に大神官により宣告されるそれは、本来は秘匿にされるべきものだ。それを数多の貴族の前でさらされて、ミルラの頬は羞恥に赤くなる。
神からの加護は抽象的だが、わかりやすいものが多い。
例えば、ミルラの父であり侯爵家当主は“知恵”。侯爵夫人である母は“美”。兄は“武”。姉は“富”。妹は“愛”。
王族や高位貴族など尊い血筋には国や家を繁栄させるような加護を授かることが多かった。
時折、ミルラのようにわかりにくい加護が出ることもある。それに対する対応は家によって様々だ。王家でも庶子の子供がぱっとしない加護を授かり、冷遇されているのは有名な話だ。
ただし、血のつながった子供の加護がなんであれ、慈しむ家もある。それはその人の持つ運だと言えた。
ミルラの脳裏に小さな頃からの出来事がよぎる。
『“付与”だと? そんな加護聞いたことがない!』
三歳になり、大神殿に加護の宣告に赴き、その結果に父は激高した。その表情を見て、ミルラは幼いながらに自分の加護はよくないものなのだと察した。
『神の宣告に異を唱えるということですかな?』
大神官は聖水に浸した紙に浮き出た文字を掲げる。ミルラの加護は、侯爵家からの抗議にもかかわらず覆ることはなかった。
ミルラが三歳で宣告を受けた日から、家族からの冷遇がはじまった。
加護は秘匿とされているが、貴族達はお互い探り合い、自分達の利になるように縁組するのに余念がない。ミルラは侯爵家の駒になりえなかった。
部屋を屋根裏に移され、細々と生かされた。その二年後に状況が変わった。ミルラの加護の宣告の時に大神官の補佐を務めていた神官が家を訪ねてきたのだ。
『どうも、ミルラ様の加護が気になりましてねぇ。調べたんですよ……』
その神官は父親に小声で耳打ちしている。それに続く言葉はミルラには聞こえなかった。
話が終わると、父親はミルラを見て、ぞっとするような笑いを浮かべた。父親はその神官に大量の金貨を渡すと、あれよあれよという間に第一王子の婚約者に収まったのだった。
『ミルラ、お父様の言う事をきちんと聞けるね』
それから、ミルラは父の言うなりに加護を行使した。といっても、ミルラには自分がなにかをしたという実感はなにもなかった。でも、父は以前のようににこにことミルラに接するようになったし、ミルラの部屋や処遇も侯爵家の令嬢としてふさわしい扱いに戻った。だから、ミルラは異を唱えることはなかった。
ただ、父親や家族や使用人達の態度が一変したことはミルラの心の深い傷となり、家族を信頼することも心許すこともなかった。
確かにミルラはなにもしていない。
父は敏腕侯爵として領地を治め、王宮に出仕する上級文官として働いていた。
母は侯爵夫人としてその美貌を磨き、茶会や夜会を開き、人々を魅了して人脈を作り、常に流行を作り出した。
兄は王宮騎士団に所属し、先日も攻め入る隣国を退けて褒章を賜ったばかりだ。
姉は同格の侯爵家へと嫁ぎ、侯爵家の領地を富ませ、商会を通じて商売を発展させた。
妹は神殿や孤児院で奉仕活動に励み、清らかで愛らしい笑顔を振りまいた。
みな、自分に与えられた加護を存分に発揮している。
ミルラは父に言われるままに、家族や面会した王族や高位貴族と握手して、その人の加護の底上げを願うだけだ。目に見える効果はなにもない。ただ、それだけのことしかしていないのに、ミルラはいつもひどく疲れていて、なにもする気が起きなかった。日に日に体が重くなる。
「婚約の印として与えた王家の指輪を返してもらおう」
婚約者の言葉に、ミルラははっとして顔を上げる。彼はいつも疲れていて愚鈍なミルラにイライラしていた。これ以上怒られたくなくて、ミルラは自分の左の薬指にはまる青い石が入った金色の指輪を外して、差し出された手の平にそれをそっと置いた。満足げな顔をした王子は妹の指に指輪をはめた。やっと想いが遂げられたとばかりに、二人は顔を見合わせて微笑んでいる。
ミルラは王子と自分の間にあった鎖のような重いものが、途切れた気がした。なんだか肩の荷が下りた気がする。
「まったく不出来な娘ね。この髪飾りも返してもらうわね」
ミルラのパサパサに乾いた髪から母が髪飾りを乱暴に外した。母が王妃様とお茶会をした時に一緒に選んだ髪飾りだ。それは子供の頃に買ってもらったものであり、成人したミルラにはいささか不似合いであったのだが、ミルラが持っている唯一の髪飾りだった。婚約者も家族でさえも、髪飾りをそれ以降ミルラに与えることはなかった。そのことを知る者はこの場に誰もいない。
髪飾りが髪から取られた瞬間、ぷつりとミルラと母を繋ぐ糸のようなものが切れた気がした。その感触に驚きで目を見開くが母はそれに気づいた様子はない。
「お前が妹だなんて恥ずかしい。そのイヤリングも返してもらおう」
はじめて兄が武勲を立てて、褒章を賜ったときにくれたイヤリングを耳からもぎ取るように外した。耳まで引きちぎられるような感覚に思わず悲鳴が漏れる。耳のジンジンとした痛さを感じながら、兄との繋がりも消えた気がした。
「嫁ぎ先の商売に差し障るわ」
ミルラはこの流れを予測して、速やかに胸元のブローチを外し、姉に無言で差し出した。姉が言葉を紡ぐ前に、姉の婚約が決まった時にもらったブローチを返す。胸の辺りにつまっていたような重苦しいものから解放される。
「私もなんかちょうだい、おねえさま」
ミルラはそっとため息をつくと、デビュタントの時に祖母からプレゼントされたネックレスを妹に渡す。ミルラの手持ちのアクセサリーは全て家族に返却された。ふわりと風が吹くように妹との絆も消えた。
「お前は今日を限りに侯爵家の籍から外す」
父のその言葉にミルラは無意識に自分の手首を掴んだ。
「さぁ、その腕輪を寄こすんだ」
唇を噛み締めた、左の腕に光る侯爵家のユリの紋章が刻まれた白い腕輪。これを取り上げられたら……。縋るように父を見る。その目には我が子への情はなかった。ここまで従順だったミルラのわずかばかりの抵抗に当主は顔をしかめた。
つかつかと近寄るとミルラの頬を打った。右手で左手首を押さえていたため、受け身も取れずに細身の少女が転がる。床に転がったまま、震える手で腕輪を外すと父に差し出した。
「ふん、はじめからそうすればよいのだ」
ぐるぐる巻きに雁字搦めに巻いていた糸がくるくると外れていくのを感じた。体は軽くなったが、ミルラの心は重い。父からの暴力。そして、侯爵家の紋の入った腕輪を取り上げられたということは、侯爵家からの除籍を意味する。ミルラはこれからの自分を思い気持ちが沈んだ。貴族令嬢が家を放り出されて、どうやって生きていくというのだろう?
ミルラは装飾品を全て奪われて心もとない気持ちで周りを見回した。貴族達はこの断罪劇をおもしろそうに見て、ひそひそ話をしている。ミルラに手を差し伸べてくれる人は誰もいないようだ。常に体調を崩していたミルラは屋敷に引きこもっていた。社交好きな家族と違って夜会や茶会にも出ていないため、友人はおろか知人すらいない。
一段高い王族席で、陛下と王妃はいつものようににこやかな笑みを浮かべてこちらを見ている。彼らもミルラへの婚約破棄と侯爵家からの除籍に異論はないようだ。
その時、手すりにとまる瑠璃色の鳥と目が合った。そう思った次の瞬間にどこかへと飛び立ってしまった。まるでそれが最後の頼みの綱であったかのようにミルラは鳥をせつない顔をして見送る。
「お前のような役に立たない加護を持つ者はこの国には不要だ。新たな婚約者に危害を加えられても困る。よって、国外追放に処する」
「え?」
なんの罪も犯していないのに国外追放を宣言する王子にさすがに周りの貴族達もざわめく。しかし、王も王妃もその様子をにこにこと見守るばかり。きっとこの娘は公にできないような罪を犯したのだろうとみな納得することに決めたようだ。
ミルラはそのまま衛兵に引きずるようにして、連れて行かれた。ホールを出るまでは腕を掴まれていたが、抵抗しないとみると前後を衛兵に挟まれるようにして歩かされた。
城門を何個か通り過ぎ、下働きの者達が出入りする簡素な門を出ると、そこには二台の馬車が止まっていた。どちらの馬車もボロボロだが、片方の馬車には神殿の紋章が打ち付けられていた。
ミルラは急に自分の身に起こった事が現実のことだと実感して、震え出した。本当に着の身着のままで、国境から放り出されてしまうのだろうか?
「そのお嬢さんはこっちで引き取るよ」
神殿の紋章の入った馬車にもたれかかっていた、黒ずくめの男がドスのきいた声で騎士達に告げる。
「そうしたいのは山々だけど、国境で放り出すように仰せつかってるんだ。こっちだって手間だけど、王命だからな」
騎士が肩をすくめる。
「怪しいもんじゃないよ。神殿でその娘を預かりたいんだ。なぁに、適当に国境まで旅してから戻って、報告すればいいだけだろう?」
男は黒いローブから腕を出して神官の証である紋章を見せる。そして、ジャラジャラと音のする大きな革袋を一人の衛兵に押し付けるように渡す。二人の騎士はその革袋の中身を覗き込んで、息を飲んでいた。ちらりと金貨が見える。
「その代わり、この娘の処遇に口を出さないこと」
「ははっ。神殿も腐ってんな。まだ、国境で放り出されたほうがましだったかもしんねぇなぁ」
どうやらミルラは国境で放り出されることはまぬかれるようだが、神殿のやんごとなき方に差し出されるらしい。ミルラはまるで他人事のように自分が売買されるのを聞いていた。痩せぎすで、姉や妹と違って美しくもない自分にあの金貨と引き換えの価値などあるのだろうか?
「加護にも価値がないみたいだというのにもの好きもいたもんだな」
「一応、王子の婚約者だったし、侯爵令嬢だったから、そういう高貴な娘をいたぶりたいって趣味の奴もいるんだろ」
騎士達は好きなことを言うと、ミルラの背を黒ずくめの男の方に押した。
「商談成立だな」
男は懐からナイフを取り出すと、ザクリザクリとミルラの髪を肩のあたりで切り落とした。首のすぐそばで刃物を使われたことでさすがのミルラの顔色も白くなる。
次の瞬間、ドレスの裾のほうにナイフを入れて、一部を切り取られた。男は自分の腕を切りつけるとドレスの切れ端に血を垂らす。その乱暴な様に衛兵は口笛を吹き、ミルラは体が細かく震えるのを止められなかった。ミルラが怯える様子を騎士達はにやにやしながら眺めている。
「戻ったら、すぐに魔獣に食われたと報告しろ。証拠がドレスと髪だ」
「こんな棒切れみたいな娘にそれだけの価値があるのかねぇ……」
ぶつぶつと疑問を呟きながらも、騎士達は金貨の詰まった革袋と、ミルラの髪とドレスの切れ端の入った革袋を受け取って、馬車を走らせて去って行った。
「怖がらせてすまない。安全だから馬車に乗って」
耳元でささやかれたのは聞き覚えのある声。騎士達と話していた時は低くしゃがれた声だったので彼だと気付かなかった。
長く伸ばした前髪の向こうに栗色の目が輝くのを見て、まだ体の震えは止まらないけど、ミルラはおとなしく馬車に乗った。
黒ずくめの男は、騎士達の乗った馬車が見えなくなるまでその場で佇んでいた。彼がフードをとり、車内をのぞくとミルラが小さくなって震えている。
「乱暴にしてすまない」
ミルラの足元に男がひざまずく。
「神官様、なんで?」
「君を安全な場所に逃がす。信じて付いて来てくれるか?」
ミルラはそのこげ茶色の目を見て頷いた。冷遇されるミルラに優しくしてくれた人は彼だけだった。あの騎士達に話したことと彼が今言っていること、どちらが本当なのかわからない。でも、騙されてもいいから着いて行こうと思った。
いつものきっちりとして清廉な白の神官服を着た彼と印象が違っていた。旅装束といっていいほど、泥が跳ねてよれた黒い上下に、黒のマントを羽織っている。そのマントも年季が入っていた。彼は侯爵領の神殿の神官だった。ミルラが父の言いつけで、家族や面談した貴族達の安穏と加護の底上げを週に一回、神殿で祈った。その時にミルラに付き添ってくれた神官が彼なのだ。祈りを捧げた後の少しの時間であるが、あたたかい紅茶を入れて、ちょっとした茶菓子でミルラを労ってくれた。
ミルラは自分がなんの役に立っているかもわからず、誰にも関心を持たれず、誰からも褒められることはなかった。だから、そのささやかなお茶の時間に神官が労ってくれる言葉が嬉しかった。そんなささやかな心使いを家族も、面談した貴族も、婚約者も、使用人たちですら、ミルラに向けてくれたことはなかったから。
神官が御者をして、しばらく馬車を走らせて着いたのは、王都の外れの打ち捨てられたような神殿だった。
「私の弟子ということにする。男の格好で申し訳ないのだがこの服に着替えてくれないか?」
そう指示されて、姉や妹のように豪奢なものではないが夜会用のドレスに身を包んでいるミルラは手伝いを頼んだ。神官は男だったが、ミルラは自分の体に魅力がないことをわかっていたし、騎士達の気が変わって告げ口をされたら追われることになるとわかっていたからだ。恥ずかしがっている時間はない。
彼に手伝ってもらい、ドレスから民達が着ているような薄汚れたカーキのズボンと生成りのシャツに着替える。彼と同じような黒いローブを羽織って、茶色いボロボロのブーツを履いた。
「私達は巡礼する神官とその見習い。あなたの名前は極力呼ばない。呼ばなければならないときはミックと呼ぶ」
ミルラは黙って頷いた。
「この馬車は使えない。しばらく歩く」
乗ってきた神殿の紋章入りの馬車は、この神殿に置いていくようだ。神官は馬を馬車から離すと、桶に入れた水を飲ませている。
「え? 馬は……?」
この朽ちたような神殿には人の気配がない。着替えるために内部に入ったが床は抜け、埃が積り、蜘蛛の巣がはり、まるで廃墟のようだった。
追われる身ではあるが、馬の処遇が気になる。
神官は水を飲み終わった馬のたてがみを撫でながら、その瞳を見つめていた。しばらくすると、馬たちは鐙をつけたまま教会の小道を駆けて行った。
「大丈夫。隣町の神殿まで自力で移動できる」
「え? すごいですね……」
馬はまるで神官の言う事を理解したように見えて、ミルラは感心した。
神官はミルラの手をとり、荷を背負い歩き出した。
時に乗合馬車に乗り、時に歩き神官とミルラは国境を目指した。
人目を避けて、基本的には野営をして、時折小さな神殿に宿泊させてもらうこともあった。この国では敬虔な神官が隣国に総本山のある聖地まで巡礼する風習がある。ボロボロな格好をした二人だったが、彼が神官の証である腕章を持っていることで、訝しがられることはなかった。
過酷な旅だったが、一人でドレス姿で国境に放り出されるよりはましだ。ミルラは文句を一つも言うことはなかった。
そんな状況なのに、日に日にミルラの体に活力が戻ってきた。頭がすっきりして、体もよく動く。侯爵家にいるころのように豪華な食べ物を食べているわけでも世話されているわけでもないのに。
「そりゃ、ただで加護の力を使えるわけじゃないからなぁ……。どれだけ搾取されてたんだよ。あいつらにばれないうちに国境を越えないとな……」
首を傾げるミルラに神官は呆れたようにつぶやいた。
時に草原や森などを抜けることもあった。ミルラは獣に襲われないかと初めは怖かった。
でも、神官は動物に好かれる質のようだった。
むしろそういった自然の広がる人の来ない開けた場所に来ると、彼は動物を呼び集めた。いや、呼び集めているように見えた。
神官の元にはねずみやリスや猫などの動物や大小さまざまな色形の鳥がやってきた。それらを優しい目で見て、パンくずや穀物をやっている。まるで意思疎通ができるかのようだ。
旅をするうちに、そのお伽話のような風景を見るのはミルラの楽しみの一つになった。
神官は物知りだった。侯爵邸の側の小さな神殿の神官だったというのに、さまざまなことを知っていた。加護についてもくわしい。野営をする時に、火を囲んでよく色々な話をしてくれた。屋敷に閉じ込められ、最低限の教育しか受けていないミルラは神官の話を目を輝かせて聞いた。
「神官様、私の加護を神官様に使えませんか?」
もうすぐ国境に着くという頃に、ミルラは神官に告げた。なんとなく神官はどこかでミルラの手を離してしまうような気がしたのだ。
「私、神官様をお慕いしているんです」
「その気持ちは勘違いかもしれない。それにどれだけ相手を尊敬していても、好きでも加護を明け渡すようなことはしてはいけない。どうしても自分の加護を使いたいのであれば、まずは自分に使ってみないか?」
ミルラは目をぱちくりとさせた。
「どうやって自分に加護を?」
「試しにやってみよう。私にも経験はないが。今まで人の加護を底上げしていたんだろう? 自分の能力を底上げするよう祈ってみてごらん」
ミルラは自分の手のひらを見つめた。旅を続けるうちにかさついた小さな手。自分の手の力が強くなりますように。そう祈る。手近にあった木に拳を当てた。次の瞬間、木がメリメリと音を立てて倒れた。一瞬、頭がくらりとした。神官が楽しそうな顔で笑った。その顔が見られただけでも、よかったとミルラは思った。
「ただし、加護の力には限界がある。それも見極めて、まずは自分を守るために使うんだ。そして、誰にも自分の加護について話してはいけない。人前で使ってはいけない。加護はなるべく使わない。平民には加護はない。だから君は加護を持っていない。わかったね?」
ミルラは真剣に話す神官に、しっかりと頷いた。
◇◇
王が気まぐれに手をつけた侍女から生まれた庶子であるアーレンの加護は“疎通”だ。
一応、八番目の王子として認められて王宮の片隅に置かれていたアーレンは、その前例のない意味のわからない加護を宣告されたことで、さらに疎まれるようになり、ついには神殿へと放り込まれた。
母譲りの整った顔はぼさぼさの髪で隠し、神殿では俯いて自分の存在を消すようにして過ごした。神殿にある加護の資料を読み込み、大神官が加護を宣告する様子をこっそりと盗み見て、昼夜、加護とはなにかその答えを探し続けた。
自分の加護をどうすればよいのか試行錯誤し、ネズミや小鳥などの動物や虫などの生き物と意思疎通できることに気づいた。
ミルラは自分と同じように前例のない意味のわからない加護を与えられた娘だった。同じ境遇で、同情から目をかけるようになった。彼女は誰からも気にかけられていない。アーレンの与えるささやかな言葉やお菓子に嬉しそうに顔をほころばせていた。
加護とは、ふんわりとした祝福のようなものではなく、鮮明なイメージをするとそれが叶う万能の力だった。だから、抽象的なものなのだろう。本人の解釈で、いくらでも応用がきく。ただし、意識することと練習は必要だ。それに、対価としてエネルギーが取られる感覚がある。
個人的には神から与えられたもので、人知を超える力に感じる。
神はなぜ人間にこのような力を与えたのだろうか?
ミルラの周りの人間はただ、彼女の加護の力を搾取するだけだった。
ミルラの加護の宣告に立ち会った大神官の補佐の神官はアーレンと同じように加護について調べた。そして、気づいたのだろう、ミルラの加護の使い道を。
他人の加護を底上げする力。
そして、神官はそれを王に囁いた。王家は神官に口止めすると、ミルラを王子の婚約者として囲った。
神官は欲をかいて侯爵家の当主にも囁き、金をせしめた。
ミルラが素直な性格でなかったら、よかったのかもしれない。
ミルラは父親に言われるがままに、自分の加護の力を家族や婚約者、面談した貴族のために使った。
周りの者達は自分の加護の力をなんの努力もなく発揮し、輝いていった。それが、誰のおかげなのかも知らずに。
ミルラが加護の力を使えば使うほど、ミルラは萎れていった。それに気づく者は誰もいない。
このままでは命まで取られてしまうだろう。
アーレンは腹を決めた。この娘を王家や侯爵家から解放し、助けると。
アーレンは、ただ囁いただけだ。
『あなたの立派な加護に、あの娘の加護は必要なのですか?』と。
自分の加護の力を乗せた声で。猜疑心と慢心を引き出すように。
そうアーレンの加護は“疎通”。
動物だけでなく、人に自分の気持ちをすんなり通すこともできるのだ。
婚約者である王子はただでさえ、文武両道で優秀な自分の伴侶がなんの取柄もない娘であることに不満があった。
王と王妃も、ミルラの加護に懐疑的だった。あの娘に王妃は務まらないだろうという不安もあった。
侯爵家の者達は、初めの頃こそミルラに感謝をする瞬間もあったようだが、それが当たり前になるとなんの力も発揮しないミルラを蔑むようになった。
それは侯爵家が秘密裏に面談させていた貴族達も同じだった。侯爵は面談した貴族から高額な報酬を受け取っていた。ミルラの能力は目に見えない。貴族達は次第に、報酬を出し渋るようになった。
そして、王子は自分に不釣り合いな婚約者を捨て、侯爵家の者達はなんの能力もなく金づるにならない娘を放り出した。
はじめて加護を自分のために使い、どこか嬉しそうにしているミルラ。
ミルラの加護は、他人の加護を底上げするだけではない。
加護を付与できるのだ。自分にも。他人にも。
アーレンはそのことに気づいた時、恐ろしくなった。
それは神にも匹敵する力。
痩せていて小柄なため、焚火にあたってお茶を飲むミルラは平民の少年にしか見えない。
一緒に旅するうちに情は湧いてきたが、この少女からなにも搾取したくなかった。
「あまり目立つ加護の使い方をしてはだめだよ」
アーレンは重ねて注意すると、頭をなでた。
ミルラに好意を告げられて驚いた。きっとそれはひな鳥がはじめて見るものを母親と慕うような気持ちだろう。苦境から助け出した自分に特別な気持ちを抱くのは自然なことだろう。話を逸らして、うやむやにした。
もっと安全で安心して暮らせるまでは、手を離すわけにはいかない。
ミルラは素直で健気でかわいい。
自分のうちにだって、甘やかな気持ちが芽生えている。でも、アーレンはそれを告げるつもりはなかった。
その時、瑠璃色の鳥が自分の肩に止まった。
それを見たミルラの目が大きくなる。
「あの時の鳥さん」
「私の加護は"疎通"なんだ。動物と意思疎通を図ることができる」
自分ばかりがミルラのことを知っているのも不平等だろうと、自分の加護を告げる。それに、ミルラは他人の加護をべらべらとしゃべるようなまねはしないだろう。
「だから……」
しばらく、ミルラはこれまでの答え合わせをするように、なにかを思い返していた。
「神官様、助けてくださってありがとうございます」
「これもきっと神の思し召しだろう」
瑠璃色の小鳥を撫でながら、照れ隠しに思ってもいないことを言う。
「ふふ、いいなー。神官様の加護って楽しそうですね」
ミルラは目を細めて瑠璃色の小鳥を眺めている。
―――わけがわからない。
―――勝手に人の心を読むものでは?
―――気持ち悪い。
―――役に立たない。
―――恐ろしい。
アーレンの脳裏に今まで、自分の加護について言われた言葉がよぎる。悪し様に言われた加護をうらやましいと言うミルラ。
ああ、もう手離せないかもしれない。
瑠璃色の鳥はミルラがいなくなった後の王家や侯爵家の末路を囁く。
散財や圧政を敷く王家に民達の不満が募っているとか。
侯爵は頭がまわらなくなり、領地運営どころか王宮の職も辞すことになったとか。
侯爵夫人は突然、年相応の容姿になり、センスもなくなっただとか。
次期侯爵は王族の護衛中に不審者に足を切られたとか。
姉は嫁ぎ先の商会で大損失を出して出戻ったとか。
妹はわがまま三昧で王子と上手くいっていないとか。
意外なことに、全ての不調和に気づいた王子がミルラの捜索をしようとしていた。
でも、そのタイミングで王宮でバッタが大量発生した。その対応に王家は追われてミルラどころではなくなっている。
アーレンやミルラの加護をわけのわからない、役に立たないものだと決めつけた、その報いを今彼らは受けているのだ。
いつ気づくんだろうか?
自分達の加護をどれほどミルラが底上げしてくれていたのかを。
そして、彼らの加護の底上げをするためにどれだけのミルラの献身があったのかを。
アーレンやミルラの加護がどれほど有益なものなのかを。
ふふふとアーレンは微笑んだ。
本当に見る目がないのは誰だろうね?
【end】