台湾生え抜きの菊池須磨子
挿絵の画像を作成する際には、「AIイラストくん」を使用させて頂きました。
夫婦別姓が原則の国際結婚だけど、台湾島の中華民国では誰もが結婚前の姓を維持しており、生まれた子供は夫婦どちらかの姓を名乗る事になっているの。
だから日本人の父と漢族系本省人の母との間に生まれた私が、父の苗字である菊池の姓を名乗っているのは至って自然な事なんだ。
苗字が父方の姓になった事もあり、名前の方には母の意向が大きく反映されたの。
父の出身地にして若き日の両親の思い出の地でもある、兵庫県神戸市須磨区。
そこから二文字頂く形で、私は須磨子と命名されたんだ。
だけど私は、この名前に少し苦手意識を感じていたんだよね。
と言うのも…
「ねえ、菊池さんって日本人なんでしょ?こっちに引っ越す前は日本の何処に住んでいたの?」
ほら、来た。
クラス替えみたいに人間関係がリセットされる機会が訪れると、必ずと言っていい程に来る質問なんだよね。
特に中学へ進学した今年は他の小学校から来た子達とも顔を合わせる事になる訳だから、この手の質問の頻度も多いんだよなぁ…
「ごめんね曹さん。私、生まれも育ちも台南市なんだよ。だから、期待に添えるような事は答えられないんだよ…」
この返答も、幼稚園以来何度繰り返してきた事だろう。
「ああ、そうなんだ。ごめんね、菊池さん…」
そして私の返答を聞いた同級生の何か物足りなさそうな反応も、毎度御馴染みの物だったの。
確かに台湾島の中華民国はアジアの中でも特に屈指の親日国だし、同級生の子達が日本の事を聞きたがる気持ちもよく分かるよ。
だけど私は生まれも育ちも台南市だし、日本へは一度も行った事がないんだ。
それに生活スタイルだって、他の台南市民と大差ないよ。
新年をお祝いする時に食べるのは御節料理じゃなくて年菜だし、三食の御飯も基本的には自炊せずに屋台や夜市で食べているんだ。
そう言う訳だから、私は自分の事を「日本人」というより「台南市民」として意識しているの。
質問をしてくる同級生達に悪気がないのは分かっているし、両親の命名にケチをつける気なんて毛頭ないよ。
だけど、ついつい考えてしまうんだ。
もしも私が母方の馬姓を名乗っていて下の名前も漢民族らしい物だったら、今頃どうなっていたんだろうってね。
だから他校出身と思わしき茶髪の同級生に話しかけられた時も、どうせまた定番の流れになると身構えちゃったの。
「ねえ、菊池さん。菊池さんの名前って…」
「ああ、私は…」
だけど、そこから先は予想外の展開だったんだ。
「もしかして、日本の近畿地方にある兵庫県の神戸市須磨区に因んでいるって事はないかな?間違っていたらごめんなさいだけど…」
「えっ?そうだけど…どうして分かったの?!」
あまりにも意外な展開に、私は思わず身を乗り出してしまったの。
私に日本の事を質問してくる同級生は何人もいたけど、正確に名前の由来を当ててきた人は初めてだった。
この同級生が日本人だったら別に驚く事はないんだけれども、彼女は王珠竜ちゃんという生粋の漢民族なんだよね。
「ああ、やっぱり!うちのお父さんとお母さんも新婚旅行で神戸に行ったんだけど、その時に須磨浦山上遊園で見た神戸市の大パノラマを大層気に入ったらしいんだよね。ついこないだの話なんだけど、わざわざ山上遊園の夜間開園に合わせる形で有給を取って夜景を見に行っちゃったんだ。私も兵庫は小三の頃に行ったスキー旅行以来だから、学校がなければ行きたかったんだけど…」
「く…詳しいんだね、珠竜ちゃんは。神戸市とか須磨浦山上遊園とか、そういう日本の事に。」
単に親日家というだけなら、同級生達の中にも沢山いる。
けれども、彼女の場合は知識の正確さも熱量も段違いだった。
「これでも家族旅行で何回か日本には行ってるからね。だけど他の家族に比べたら、私なんて全然だよ。何しろお父さんは若い頃に日本法人の駐在員として単身赴任していたし、五つ年上のお姉ちゃんは関西圏の大学を受験すべく張り切っているからね。まあ、そういう家族がいる身だから自然と日本の事には詳しくなるよ。私みたいなのは日本だと、『門前の小僧習わぬ経を読む』って言うみたいなんだ。こっちだと『鄭家の奴は詩を歌う』ってなるんだけど。」
いかにも漢民族らしい名前なのに、彼女は日本の地理や諺の知識を自在に使いこなしていた。
私とは、まるで正反対。
だけどお父さんやお姉さんの事について語る時は本当に生き生きとしているから、「家族の事を大切に思っているんだなぁ…」って具合に素直に好感が持てるんだよね。
家族といえば、私の両親の思い出の土地である兵庫県ってどんな所なんだろう。
「あっ、そうだ…珠竜ちゃんは確か『兵庫は小三の時のスキー旅行以来』って言ってたけど、兵庫や神戸で撮った写真とかってあるのかな?もしも珠竜ちゃんに差し支えがなければ、神戸の事とか詳しく聞かせて欲しいんだけど…」
「ああ、それ位なら何でもない事だよ!SNSを漁れば、両親の旅行写真とかオープンキャンパスで日本の大学を見学に行ったお姉ちゃんが撮ったのとかが幾らでも出てくるから。でも…菊池さんの手元にはないの、そういう写真?せっかく須磨区に因んだ名前なんだし、何枚かは記念写真もあるんじゃない?」
珠竜ちゃんの疑問は、当然至極な物だったの。
今更感があるけど、やっぱり言わなくちゃならないんだろうな…
「実は私、生まれも育ちも台南市で日本に行った事がないんだ。お父さんの影響で日本語は話せるけど…おかしいよね、こんないかにも日本人らしい名前なのに。」
「ううん、そんな事ないって!日本人らしいとか台湾人らしいとか言う前に、菊池さんは菊池さんじゃない。そんなクヨクヨせずに、ぐっと胸を張れば良いと思うな。」
珠竜ちゃんの語り口は、至って日常的な自然体のトーンだったの。
殊更な同情も、腫れ物に触るようなわざとらしい慎重さも、そこには一切なかったんだ。
「菊池さんだって、本当は自分の名前の事を気に入っているんじゃないの?そうでなかったら、須磨区のある神戸の事を聞きたいって心境にはならないんじゃないかな。」
「そ、それは…」
何とも鋭い指摘に、私は思わず口籠ってしまったの。
台湾では戸政事務所で手続きさえすれば三回まで改名する事が出来るけど、私は改名権を行使した事は一度もないんだよね。
いかにも日本人的なフルネームに思う所はあっても、案外私は両親の思いが籠もった姓名を憎からず感じていたんだろうな。
「そうかも知れないね、珠竜ちゃん。私、自分の名前の事をもっと好きになってみるよ。そうしたら台湾の事も日本の事も、今以上に好きになれると思うの。日本はお父さんの生まれた国だし、台湾は私とお母さんの生まれた国だからね。」
「良いじゃない、それ!こんな私だけど、菊池さんが自分の名前をもっと好きになれる後押し位は出来るかも知れないよ。同じクラスの友達としてお互い仲良くやっていこうね、菊池さん!」
いかにも日本人らしい名前と台湾人としての自己認識を持つ私と、家族ぐるみで親日家の珠竜ちゃん。
こんな両極端な私達だけど、意外と友達として上手くやっていけるのかも知れないね。