8 栗拾い
旦那様のお住まいの敷地は、一体どれほど広いのだろうか。正確な面積など知る由もないが、少年は数年前にその広大さを身をもって感じたことがある。
数年に一度、旦那様は首都から腕利きの魔法使いを呼び寄せる。貴人の住まいに魔物が侵入しないよう、領地の周囲に張り巡らされた結界を定期的に強化しなければならないからだ。その魔法使いは、傲慢な態度で数日かけて馬車で領地を一周しながら作業を行う。作業中、彼は水を運べだの、荷物を持てだのと、少年を散々こき使った。
しかし、そのおかげで、少年は普段目にすることのない屋敷の外の広大な世界を垣間見ることができた。
壮麗な屋敷の背後には、山に隣接する広大な森が広がっていた。さらに、葡萄畑と醸造所があり、そこでは上質な葡萄酒が作られている。美しい水源を提供する湖もあり、その透明な水面がきらきらと輝いていた。
結界というものは、少年が読めない不思議な文字を、特殊な力を持つインクで書かれた文字列である。そのインクは、簡単には消えないという。魔法使いがしゃがんで結界の具合を確認している間、少年は目を輝かせながら景色を眺めていた。
雲ひとつない青空。爽やかな春の風が湖の水面を撫で、太陽の光が煌めいている。その美しい光景に心を奪われ、思わず前へと一歩踏み出した。
「おい、止まれ」
魔法使いが鋭く呼び止めた。
「死んだら色々と面倒だから、結界の中に居ろよ」
戸惑う少年に、魔法使いがさらに面倒くさそうに説明を始めた。
「この旦那様の領地の結界は特殊仕様だ。貴族の屋敷でよく見られる入ることを防ぐものじゃなく、出ることまで阻止するんだ。」
「入れ墨、あるだろ?」と、魔法使いが尋ねた。
少年は自分のうなじに手を当てた。そこには、旦那様の家紋が黒い入れ墨で刻まれていた。使用人なら誰でも同じ入れ墨が彫られている。旦那様の家紋を刻まれることが光栄だと教えられてきたため、誰一人として疑ったことはなかった。
「それはただの入れ墨じゃないぞ。旦那様の許しなしに結界から出た瞬間、その入れ墨が反応して首を締め付けるように色々と仕込まれているんだ。だから、維持が普通の結界よりも面倒くさいんだがね」
そういえば、執事や侍女などはこの入れ墨を彫られていないと聞いた。つまり、少年のような「人間扱いしなくてもいい」使用人だけがその印をつけられていたのだ。
思えば、入れ墨が一斉に彫られ始めたのは、領地の経済状況が悪化し始めた数年前のことだった。たまたま今まで逃げ出そうとする者がいなかっただけで、一度も発動しなかった。旦那様は使用人たちに説明する気もなかったのだろう。
逃げ出す「モノ」には、死を。その純粋な悪意に、全身の隅々まで戦慄した。
悩んだ末にこのことを他の使用人たちに伝えたが、ひどく動揺する者も少なくなかった。しかし、最終的には皆が声を揃えて言ったのは、
「どうせここから出ても生きていられない」
絶望もなければ希望もない。それが、使用人たちに与えられた生き方だった。
噴水から清らかな水が止まることなく噴き出される。一人もいない立派な中庭は静かである。中庭の周囲は、外からは見えないように煉瓦壁で囲まれた。その一角にある使用人用の小さな扉を開けると、冷たい夜の空気が頬を撫でた。
(そういえば、一人で屋敷を出るのはこれが初めてかもしれない)
さきほど中庭にある道具入れの小屋から拝借してきたオイルランプを手にしていた。オイルは半分ほどしか入っていなかったが、少しでも光があるだけで心強かった。明かりとほのかな暖かさが、心にわずかな安心をもたらす。何よりも、栗を探す過程で誤って結界の外に出ないように足元を照らす重要な役割を果たしてくれる。
数分歩くと、ランプがその先にある森を照らし出した。木々の影が揺れる中、少年は深呼吸をして一歩一歩慎重に進んでいった。
森は、端から端まで歩くのにおよそ一0分かかる広さだった。これまでにも森に入ったことがあるが、多く見積もっても一、2本しかない栗の木がどこにあるのかは覚えていなかった。
夜の冷たい風が木々を揺らし、不気味な音を立てる。結界のおかげで魔物はいないだろうが、狼や熊はどうだろう?
嫌な想像が次々と浮かんできた。
それでも、早く栗の木を見つけなければならない。ランプの小さな光に頼りながら、一歩一歩慎重に進んでいった。夜が深まり、足元の小道もおぼろげにしか見えない。寒さが一層身にしみる中、奇跡のように、溢れるばかりの栗がたまたま落ちていることを祈りながら、彼は進んでいった。
闇に包まれた森の奥深く、寒々とした空気が身を突き刺す。
もう何時間、探していたのだろう。
指先まで冷え込んでいく
栗どころか、栗の木の一本も見つけられない。地面に栗が落ちてなければ、そもそも栗の木であるかどうかの分別すらつかない。
明かりが弱く感じてきた少年は手元のオイルランプを見ると、いつの間にか、オイルは残りわずかとなっていた。
「え、うそ、もう?」
ランプの光がなければ、どうやって栗を探せばいい?
冷たい風がさらに強くなり、ランプの炎が揺れ動く。夜明けまで待つのか?明るくなってからでは、執事に言われた朝食の準備の時間までに戻るには、ほとんど時間が残されていない。
少年の焦りを嘲笑うかのように、ランプの炎はいっそう激しく燃え、そして、ポッと消えた。
暗闇の中、ただ自分の呼吸の音しか聞こえない。もう、手探りで探すしかない。手を伸ばし、木を触れるとしゃがんでその地面の周りを手の先の感触で探す。
冷たい土に小石、枝ばかりであった。
鼓動が激しくなる。この過程で、足元の結界でも見逃してしまったら――
――パキッ。
少し離れた場所から、枝が折れたような音がした。
いや、何かが枝を踏んだ音であると、少年は悟った。
狼?熊?逃げる?どこへ?
心臓の音がバクバクする。
そもそも、屋敷ってどの方角だった?
狼に出くわすか、結界の外に出るか。それは喉笛が噛み切られるか、呪文で首が締め付けられるか、の二択を意味する。
息を潜んでやり過ごすか。野生動物の鼻はどれぐらい利くのだろう?栗を食べに来た猪なら問題がないのか?猪の牙に太もも突き刺されて死んだ人もいると聞いたことがある。
どうするべきか決断ができない。
その次の瞬間、音がした方角にほのかな明かりが見えた。少年が持っていたランプによく似た、小さな灯りである。
わずかながら安堵を覚えた。
光源を持っているとなれば、少なくとも狼などの類いでは無い。
屋敷から、誰かが自分を探しに来たのか?この真夜中に?明かりが徐々に近づく。暗闇の中から浮かび上がったのは見知らぬ姿である。
ーー屋敷の人間ではなかった。
屋敷編も残り1/3程!ほのぼの生活を読みたい方はもう少しご辛抱を。
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