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10  蛇女

 

 頬が痩せこけているため、若いとも中年とも言えないやつれた人間女性の顔だった。襤褸を纏う上半身はところどころ肌が見える。皮下脂肪がほぼないようで、鎖骨と肋がくっきり浮き上がる。


 ――人間の瞳ではない。


 不気味なほど凝視されながら、目を背けたくなるが、身体が硬直ししていて何もできない。


 ――なぜこの魔物が自分を触れることができるのか。言われたように古木の根元から離れていないし、鍵もちゃんとかけてあって胸元に温かさが今でも感じられるのに。


 ――そうだ、樹妖(ドライアド)


 周囲を見渡そうとしたら、近くに何かが土の上で激しく暴れる音がした。


樹妖(ドライアド)?」


 白髪の魔物の下半身は蛇そのものだった。その鋼のような鱗に覆われた蛇の尾に、樹妖(ドライアド)が巻き付けられている。声を発せない樹妖(ドライアド)は必死に抜け出そうと身体を動かすが、その度に締め付けが強まり、自由が奪われていく。


 ――逃げて。


 樹妖(ドライアド)は自分の心配よりも、徐々に締め付けられ苦しそうな表情になっていっても、ただ必死に夜明にそう訴えるような目線を送っている。


 樹妖(ドライアド)を置いて逃げる気がさらさらない。何よりも、冷たい鎖のように自分の腕を捕らえる力は振り解けそうにない。その間、白髪の魔物は恍惚とした表情で夜明を見つめている。


 ―なぜ、この表情の意味、僕は知っているのだろう。


「ね、彼女を離して!」


 自分でも理解できないまま、自分の声ではないように言葉が飛び出す。


「僕が、一緒に行く」


 どこに行くのか分からないが、そう求められたような気がする。


 その言葉を聞いた途端、魔物はにたっと笑った。人間の笑みよりも遥かに大きく口が裂け、上の歯に二本の鋭い牙がはっきりと見える。


 そして樹妖(ドライアド)を離した瞬間、魔物は夜明を抱きしめ、樹海の暗闇に全速力で走り出した。


 後ろから樹妖(ドライアド)が必死に追いかける足音が聞こえる。しかし、それを上回る速度で、白髪の魔物はまるで暗闇の中でもはっきりと見えるように、何にもぶつからないまま素早くなめらかに木々の間を駆け抜け、あっという間に樹妖(ドライアド)の足音が聞こえなくなった。


 冷たい腕に抱かれ、身体が凍りつきそうだ。どこに連れて行かれるのか全く分からない。鍵は今でも光っているのに、なぜこんなことになってしまったのか。頭の中がぐちゃぐちゃと混乱している。


 樹妖(ドライアド)は助けを呼びに行ってくれるのか、それとも自分を探しに来るのか。鍵の光を追えば見つけてくれるだろうが、その前にこの魔物は自分に何をするのか。


 暗い樹海の中をしばらく音もなく進んでいた。どれほど時間かかったのか、ようやく魔物は夜明を抱きしめる力を強め、どこか洞窟のような場所に潜っていった。自分の周囲しか見えないが、腐葉土のような匂いがし、湿った暖かさが漂っている。


 突き当たりに、山のようにかき集められた落ち葉の上に、魔物は夜明をそっとおろした。この魔物の巣窟なのか、過ごしやすい温度に湿度だった。


 しばらくの間、魔物の吐息に、鱗が擦れる音だけ聞こえる。


「…お…」


 魔物は口を開いた。喉が潰れたような乾いた女性の声だった。


「…お…かえ…り…」


 冷たい手が夜明の頬を撫でる。少しぎこちない手つきだった。


 鍵の光に照らされて、魔物の表情が浮かび上がる。


 蛇のように大きく裂ける口だが、夜明に笑みを見せようとしている。


 ――嬉しい。そのような感情を読み取った。


「おかえりって、僕に?」


 その問いに、魔物はすぐに頷いた。


「…おか…えり…」


 樹妖(ドライアド)とは違い、ハッキリと人間の言葉を話せるようだ。


「わらわの…かわいい…坊や…」


 やはり自分のことを指しているようだ。そして、夜明は先から感じていた違和感の正体を掴んだ。


 見た目は大きく異なろうが、樹妖(ドライアド)と同じ目をしている。この下半身が蛇である白髪の魔物はずっと樹妖(ドライアド)とよく似た眼差しで自分を見ている。少しうつろながらも、親が我が子を見るような眼差しである。


「坊やって、僕のこと?」


 そう聞くと、魔物はさらに嬉しそうに頷いた。それを否定するのに、なぜか忍びない気持ちが湧いてきた。


「さがし…ていた」


 魔物はつぶやいた。再び夜明の頬に触れる。


「大事な人を探していたの?」


 魔物がふたたび頷いた。不安は変わらないままだが、触られる度に不気味さや恐怖が少しずつ薄れていく。代わりに、魔物に対する哀れみの感情が強まってくる。


 たぶん、帰してくれないだろうと薄々感じているが、なぜか本能的に危険とは思えなくなってきた。


 髪に頬を触れる、震える冷たい手。夜明はじっと、それを受け止めることにした。


 その時、洞窟の入口から微かに物音がした。


 ――サッ。


 誰かが湿気を含んだ土を踏みしめる足音だった。


 その音に、白髪の魔物の顔から一瞬にして笑顔が消え、眉が吊り上がり、警戒するような険しい表情になった。


「この子は、君の坊やではない」


 低くて重厚な声が響いた瞬間、全身が暖かい日光に包まれたような安心感が広がった。見なくとも、ゆっくりと近づいてくるのはブナイルだとわかる。どうしてこんなに早く自分を見つけたのか分からないが、その寡黙で穏やかな顔を見た途端、泣きたくなるほどの安堵を覚えた。


「わらわの…坊やだ!」


 白髪の魔物は激高し、威嚇するように太い蛇の尾を振り上げた。夜明を庇うように、両手を大きく広げた。


「落ち着きなさい、####」


 空間ごと振動させるような、銅鑼を思わせるような声が響き渡る。


 ブナイルは、夜明の耳にははっきりと捉えられないような奇妙な音を冷静に呟いた。その瞬間、魔物は凍ったように微動だにできなくなった。


「ブナイルさん…!!」


 思わずブナイルの方に駆け寄ると、力強く肩を抱き寄せられた。


「遅くなった、すまない。大丈夫か」


「僕は大丈夫…あの、彼女のことなんだか」


 身体が動けない白髪の魔物は、不安そうな目で夜明を見ている。


「彼女…少しも僕を傷つけたりしていないんです。ただ、ここに連れてきただけなんですから…どうか、彼女を…」


「わかっている、大丈夫だ、夜明」


 ブナイルは柔らかい口調で夜明の言葉を遮った。


「君を傷つけようとする魔物は、君に触ることすらできない。ただ、彼女のように害意がない魔物は、私の【おまじない】の抜け穴になってしまったようだ…もっと対策を考えるべきだった。私の不甲斐なさで怖い思いをさせてしまった…」


「ううん…あの、樹妖(ドライアド)は?僕の樹妖(ドライアド)は無事ですか?」


「ああ。彼女の身体は見た目以上に頑丈だ。ただ、君のことを心配して気が気じゃないんだ」


「そうなんだね、早く彼女に会いたい…」


「あ…あ…」


 目に見えない縄に縛られたように、白髪の魔物は口を震わせながら、釘付けになってずっと夜明を見ている。


 金色の目から大粒の涙がポロポロとこぼれ落ちた。


「ぼう…や…」


 何か大きな力に抗いながら、苦しそうに薄い唇から言葉が漏れた。その顔を見るだけで、胸が締め付けられる。


「彼女は…どうなるんですか」


「彼女が落ち着くまで一時的に行動を制限しただけだ。命を奪ったりはしない、心配するな」


「僕のことを、【坊や】とずっと呼んでいたのは…」


「そうだな、移動しながら話そう。樹妖(ドライアド)が心配している」


 ブナイルは夜明の目を確かめるように見つめた。「彼女を…治療のために隠れ家に連れて帰ろうと思っているが、構わないか?」


 夜明が頷くと、ブナイルは白髪の魔物に向けて低い声で話しかけた。


「誓って危害は加えない。【友】よ。しばらく縛ったままで申し訳ないが、共に来てほしい」


 それを聞いた魔物は、下唇を噛みながらも軽く頷いた。


 もう、何も怖いものはない。


 思えば、グーのようなすごい力を直接見せられたわけではないのに、まだ樹海の中にいるのに、ブナイルが横にいるだけで安心感が広がる。胸元に揺れる鍵の光より、数十倍も、数千倍も強い光のようなものが感じられる。


「彼女のことを…【友】と呼んでいましたね。ブナイルさんは、彼女のことを前から知っていたのですか?」


「ああ、彼女は蛇女(シェニュイ)という古くからこの樹海に棲む種族の一人だ。彼女とは昔から知り合いであって、所謂【心】をずっと失わずに生きてきたが…」


 ブナイルは憐れむような眼差しで、数歩先にいる蛇女(シェニュイ)を見た。先ほどよりも束縛の力を弱めたのか、蛇女(シェニュイ)は俯きながら、蛇の部分をくねらせてゆっくり進んでいる。


「…彼女の種族は、子を成すことが難しかったが…一年ほど前に最後に彼女と会った時は、五十年ぶりに健康な卵を産んだと顔を輝かせながら話してくれた。そして卵が孵ったら、赤子を会わせてくれると言っていたが…」


  聞けば聞くほど息苦しくなる。


「その卵は、もしかして…」


「ああ。もうとっくに孵ってもおかしくない時期だ。彼女の様子から察するに、最悪の事態が起こったのだろう。この辺りは、樹海の中でも特に安全な場所だが、たまに他の場所から別の魔物がやって来ることがある。恐らく以前話したような、心を失った魔物たちに…」


 ブナイルは深いため息をついた。


「…その後、聴覚が鋭い彼女は正気を失いながらも、君の声を聞いて、辿ってきたのかもしれない」


 蛇女(シェニュイ)の卵に何があったのか。食べられたのか盗まれたのか。赤子は死産だったのか、もしくは産まれてから何か恐ろしいことあったのか。いずれにせよ、さっきの洞窟は彼女の巣窟ならば卵や赤子の形跡が一切なかった。


「坊や」、とこれ以上ない優しい声で呼んでくれた。五十年ぶりに産んだ愛おしい子は男の子だったのか。暗い暗い樹海の中で、彼女はどれほど長い時間徘徊して、探していたのか。


「…ブナイルさん」


「どうした、夜明」


 柔らかい声で返事してくれた。


「僕、彼女のことを怒ったり嫌がったりしないんです…もし必要があれば、彼女を隠れ家に置いたりできますか?」


「ああ、君さえ良ければ私もその予定だった」


 ブナイルは大きな手で夜明の髪を撫でた。


「君は優しい子だ。ありがとう…ああ、君の迎えが来たようだ」


 暗闇に、何かが紺色に輝いている。


 漆黒の被毛に、紺色の鬣の馬が暗闇を穿ちながら走ってくる。ラピスと顔つきや体型が少し違うけど、立派な駿馬である。よく見ると、片方の耳の先が少し折れている。その背中に樹妖(ドライアド)が乗っている。


「!!!!」


 夜明の顔を見た途端、樹妖(ドライアド)は馬の背中から飛び降り、夜明を抱きしめた。いつも優しい樹妖(ドライアド)からは想像もつかないほどの強い力で、そして少し震えている。


「心配してくれたんだね、ありがとう」


 樹妖(ドライアド)の背中を撫でると、細かい振動が感じられた。


「怪我していない?」


 樹妖(ドライアド)が首を振る動きを感じて、夜明は胸を撫で下ろした。


「あ…あ…」


 樹妖(ドライアド)に抱きしめられた夜明の姿を、蛇女(シェニュイ)は目を大きく見開いたまま、しばらく見ていた。


「あなたの…子、だったのか…」


 蛇女(シェニュイ)はぼそっと、弱々しい声で樹妖(ドライアド)に話しかける。樹妖(ドライアド)は夜明をより強く抱きしめて、蛇女(シェニュイ)に大きく頷いた。


「そう、か…わらわの…じゃなかった」


 蛇女(シェニュイ)は、独り言を言うように呟いた。


「坊や…じゃなかった…」


 涙を流さず、ただ自分に言い聞かせるように静かに繰り返していた。


「ブナイルさん…今、彼女を触ってもいいですか?」


 ブナイルは少し考えてから、うなずいた。


「ああ、もう彼女はかなり冷静を取り戻したようだ」


 冷静を取り戻した先に、我が子がいない現実が待っている。少し不服そうに眉を顰める樹妖(ドライアド)の手を引きながら、夜明は蛇女(シェニュイ)の傍に行って、力が抜けたように垂れている冷たい手をそっと覆うように触れた。


「…ごめんね…」


 何を話しかけるべきか分からなかった。ネリーがいたら、「また謝るの?」と怒られるかもしれない。でもどうしても声をかけずには居られなかった。


 鱗が生えた、少しぬめっとした滑らかで冷たい肌の感触。この手は、誰にも負けない愛情で我が子を抱きしめるはずだった。


 ブナイルの前で涙を流したのは、我が子を再び目の前で奪われると思ったからだろうか。思わずその手を握ると、弱いながらも、握り返す力を感じた。


 蛇女(シェニュイ)とふたたび目が合った。一言も発してはいないものの、蛇のような薄い唇は、ほんの少し笑みのような柔らかい形になった。


 そこにいるのは怖い魔物ではなかった。ただ、大事なものを失ったばかりの母親だった。


読んでいただきありがとうございます!

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