8 指揮者
「…指揮者、大丈夫?」思わずフリッツに聞いてみると、フリッツは頷いた。
「驚きと喜びで感情が荒ぶっているんだ。ちょっと待っててあげて」
夜明は大人しく口を閉じた。やがて、指揮者は大粒の涙を流しはじめた。
「新しい子よ、歓迎する」
肩を震わせながら、言葉と言葉の合間に嗚咽を漏らしながらも、指揮者は懸命に挨拶の言葉を紡いだ。
「僕はここから遥か遠く南の海にいたセイレーンという種族の最後の生き残りだ。本当の名前は故郷の海に葬ってきたが、今ではこの楽園の中で小鳥たちと音楽を愛でて、指揮者と呼んでいただいている。」
「いつも初対面にしっかりした印象を残したいんだよね、指揮者は。」イェルムは小声でフリッツに話しかけた。「あとどれぐらい我慢できるか賭けないか?」
「賭ける必要もないじゃん。ほら、もうどんどん震えが…」
指揮者は手を差し伸べた。手の甲には少し青い鱗が生えており、厚みのある手の中に夜明の手が吸い込まれるように収まった。指先は細長く綺麗だが、指の腹や付け根には複数のタコができていて、意外と硬く、しなやかな手だった。
その瞬間、指揮者は再び泣き出した。
「ああ、こうも愛らしい顔をしているのに、なんで岩石のような手なのか…さぞかし苦労を…」
その通りに、幼い頃から重労働を強いられた夜明の手は年齢にしてはゴツゴツとして、治りかけのひび割れもたくさんあった。
「見苦しくてすみません…」
申し訳なく思って手を引こうとした夜明は、ふわっと指揮者の大きな翼で包み込まれるように抱き寄せられた。
「いや、見苦しいなんてとんでもない!君の手は苦労の証だ。君がここまで生き抜いてきた強さと優しさの証だ。どうか誇りを持って…うう…可愛い可愛い子よ。辛いことを忘れ、ここでは…くすん…ゆっくり休んでおくれ。」
そこまで泣かれると、夜明は自分が慰める側にならないといけないと思ってしまう。しかし、泣きながら震える指揮者は、赤ん坊をあやすようにそっと夜明の背中をトントンと叩いてくれた。その奇妙だが、一生懸命に自分を憐れむ健気さに、夜明の胸の奥が温まる。
「ありがとう、指揮者」
「お礼を言うのは僕の方だ。」
「え、どういう事ですか?」
「よく頑張って生きてくれたから、こうやって僕の世界に舞い降りてくださった。」
「物理的に舞い降りたのは指揮者の方だけどね。」フリッツは小声でくすくす笑った。
「愛しいフリッツよ、確かに僕にも本物の翼があるけれども、僕にとって君たちこそ翼を生えた天使なのだ。」
「分かっていますよ。」夜明は思わず冗談めいて笑いだすと、その笑顔に指揮者もつられたように心からの笑みを浮かべた。
一粒の涙がゆっくりと頬を伝い、笑み溢れる口元に触れた瞬間、大きな真珠へと変わった。
「わあ、水の中に落ちちゃう。」
夜明は急いで両手でそれを受け止めた。純白な光を放つ、大ぶりな真珠だった。返そうとする夜明に、指揮者は静かに首を横に振った。
「受け取ってくれ、愛らしい翡翠よ。僕から君への贈り物だ。」
「こんな貴重なものは…」
仕えていた貴族の奥さんでも、これほど大きくて立派な真珠を持っていなかった。助けを求めようと振り向くと、フリッツは真珠でできた腕輪、イェルムは真珠の指輪を5本指に嵌め、カルノとガルクはそれぞれ数粒の真珠でできた首飾りを夜明に見せた。
「よくもらえるから、気にしないで受け取って。」
「君が嫌じゃなければ、受け取って欲しい。」指揮者は真珠を夜明に握らせた。
「涙が真珠になる、という体質で、我が種族は昔から人間に捕らわれて、涙が涸れるまで苛まれてきた。僕も一度囚われていたが、生まれつき涙が真珠になりにくい体質で、どれほど痛めつけられても真珠を作れなかったので、価値がないと思われた。そのため見張りが少なくなり、その隙に逃げ出してブナイルに救われたんだ。」
【どれほど痛めつけられても】、と恐ろしい事をさらっと言った。指揮者の言葉の背後には、どんなに痛いことをされたか、想像するだけでおぞましい。しかし、夜明を見つめる妖しく光る青い魔物の瞳は、今はただ穏やかで優しい眼差しが向けられている。
「僕は余生を愛する音楽と過ごせるのみならず、こうやって愛らしい君たちと共に音楽を楽しめることができ、今はこれ以上なく幸せだ。なので、僕が君たちにあげるものは音楽以外何も無いが、その真珠を受け取ってくれたら光栄だよ。」
「分かりました、大事にします。」夜明は頷いて、頭を下げた。
「またね、指揮者」
「僕の心の中の愛の花が枯れるまでに、また逢いに来てくれ、小鳥たちよ。」
指揮者と別れて扉を閉めた途端、イェルムは堪えていたかのように吹き出した。
「もう、鳥なのか、花なのか、宝石なのか統一して欲しい。」
夜明は、もらったばかりの真珠をしばらく見つめていたら、ふと疑問に思ったことを口に出した。
「泣いてもなかなか真珠になりにくいって指揮者が話していたけど、なんでみんなこんなに持っているの?」
「誤解しないで、俺たちが真珠欲しさに指揮者をいじめたりしないよ。」フリッツはすぐに答えた。
「笑顔。」無口なカルノがぽつりと言った。
「笑顔?」夜明が聞き返す。
「嬉しいあまりに泣いた時だけ、指揮者の涙が真珠になるよ。」
フリッツは屈託のない笑顔を浮かべながら、答えた。
扉が閉まった【海】から、楽器の種類まではわからないが、かすかに優美な弦楽器の演奏が聞こえてくる。月明かりの下で、海風に吹かれながら、青い海を眺めて楽しそうに笑う指揮者の姿が頭に浮かんだ。
「美しい音色…」
夜明は思わず口からこぼれた。
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