7 海
――何もいらない、ただ傍にいてくれたら嬉しい。
樹妖に大鳥、夜明が隠れ家でこれまで会ってきた魔物たちはいずれも人間の言葉がさえ発せないが、やさしくそう囁いてくれている気がする。
「また来るね」とフリッツがそう言うと、大鳥は腕のように広げた翼を再び体の方に戻した。そして、一人一人の頬を嘴で口付けのように葉が落ちたような軽やかさでそっとつつく。
螺旋階段を降りていく夜明は、心の中までポカポカになった心地になった。
「次は、指揮者だな。」
「【海】にいるっていう方だね。」
「そうそう。【海】にいくよ」前にいるフリッツが振り向かないまま答える。
――森の中の、海。夜明は先程耳に入った情報を思い返した。あからさまに違和感のある言葉の組み合わせだが、それをあえて聞かないことにした。そして、今度は着いてからの楽しみのようで、フリッツもこれ以上の情報を夜明に伝えようとしなかった。
大鳥の鐘楼を出ると、さっきまで芝生の上を駆け回っていた愛らしい生き物たちの姿は一匹も見当たらなかった。彼らはどこか別の場所に行ってしまったのだろうか。普段はどこで過ごしているのか。寝るときはみんなで丸くなって眠っているのだろうか。そんなふわふわとした想像を胸に、彼は庭の別の建物へと足を進めた。
新たに現れた建物は、先ほどのものとはまた違った趣があった。一見すると二階建てのように見えるが、小窓は高い位置にしか設置されておらず、どうやら二階建てではなく天井が非常に高い造りらしい。高さはそれほどないものの、外から見ても広々とした印象を受ける。
隠れ家の他の建物と同じく、白い石材が使われており、古風な建築様式が施されている。その様子はやはり「海」とは結びつきにくい。無論、夜明はまだ自分の目で「海」を見たことがなかったが、地平線まで広がる広大な塩水の湖のようなものだという知識は持っていた。
外観からは【海】と呼ばれる理由があまり思いつかないが、ここに来てからは毎回意表を突かれるような展開があるので、夜明は疑うことなく、ただ建物の中に入ることを楽しみにしている。
指揮者もおそらく【魔物】に違いない。隠れ家にいる魔物に対する不安や恐怖は既に無くなったが、どんな「魔物」なのかに興味が湧く。
樹妖や大鳥のような愛情深い存在なのか、グーたちのように遊びたがりで人懐っこい存在なのか。そして、なぜ指揮者と呼ばれていたか。
先頭に立つイェルムが扉を開く瞬間に、屋内にもかかわらず、不思議な匂いを帯びる風が夜明の顔に触れた。
そして、その風に混じって、奇妙な音がかすかに聞こえる。壊れた自鳴琴の奏でる悲しい曲のような、切ない音だった。
「あ―また泣いている」
フリッツの一声で、夜明はやっとそれが誰かのすすり泣いている声だとわかった。
扉をくぐると、先ほどの匂いがいっそう強まった。不快な匂いでも、夜明が知っている世界にある匂いでもない。
建物の内部とは思えない空間が広がり、夜明は息を呑んだ。
広々とした内部の大半を占めるのは、大きなため池だった。池の縁には大小さまざまな貝殻や固まった白い砂が華やかに飾られ、まるで海辺の景色を再現しているようだ。壁際には、椅子や机がぽつりぽつりと置かれた小さなスペースがあった。
「うーん、相変わらずの【潮】の香り」とフリッツが目を細めながら鼻をくんくんと動かした。
「これが、海の匂いなんだ…」夜明もフリッツの真似をして、塩や藻類、魚などを思わせる様々な匂いが混じり合った空気を深く吸い込んだ。
高い天井は夜空を模した黒色で一面が塗られ、光る小石で星座の模様が描かれていた。それぞれの星がほのかにきらめき、まるで本物の夜空を見上げているかのようだった。この空間は広さに比べて窓が少なく、暗めの雰囲気だが、それがかえって夜の情景を醸し出しているようだった。
鏡のような水面を湛えた溜池は、小窓から差し込む日光に照らされ、波紋が揺らめいていた。その水面から数メートル上、天井から垂れ下がる大きな照明器具に、明らかに人間ではない男性の魔物がふんわりと腰掛けていた。
見たことのない、半人半鳥の魔物だった。
上半身は裸で、背中からは大きな翼が左右に広がり、白と赤の羽毛が薄明かりに光を放っている。下半身は海草のような深緑色の柔らかそうな布を纏い、一部に鱗が生えている。その長い足の先端は猛禽類のような鳥の足であり、鋭い爪が光っていた。少年たちが入ってきたことに気づかず、その魔物は顔を伏せてすすり泣いていた。艶やかな長い翡翠色の髪と体が、静かに揺れていた。
「こりゃかなり重症だ」「どうする?」「今日は誰が声かける?」
フリッツとイェルムも少しその光景が意外だったようで、コソッと相談している。そして意を決したのはイェルムのようだ。
「指揮者〜来たよ。」
イェルムのよく通る声に、半人半鳥の魔物はすぐに顔を上げた。人間で言うと30代前後に見える整った顔立ちに、海を映したような深い青の瞳が妖しく光る。いや、光って見えるのは、大粒の涙が溢れているせいなのかもしれない。
「ああ。イェルムなのか。」
指揮者と呼ばれた魔物は、イェルムの顔を見るなり、両目から涙がポロポロと溢れ出した。あまりにも美しく涙が流れるので、夜明はきょとんとしていたが、他の少年たちは慣れているようで、まったく動じなかった。
大きな翼をぐっと広げてはためかせると、半人半鳥の魔物は一瞬でイェルムの前に飛び降りた。長身の成人男性と同等の体格でありながら、ほとんど体重を感じさせない軽やかな着地だった。
魔物と知りながらも、その顔を見るとまるで成人男性が号泣しているようで、夜明はその珍しい光景に愕然とした。
「ああ、イェルム。僕に会いに来てくれたのか。その美しいお顔をもっとよく見せておくれ。僕の銀色の小鳥よ。」
楽器のように優美な声は残念なことに涙に震えて呂律が回っていない。そう話しながらイェルムの頬をやさしく撫でる指揮者は、涙を流しながらも無理に笑顔を作っていた。
「今日はどうしたの?」
「お、音が…美しい音が出せなかった…ああ…」
「そうなんだ、そんな日もあるね。」
イェルムは幼い子供と話すようにやさしく声をかけた。濃緑の光沢を放つ長髪をイェルムに撫でられ、指揮者は自分の顔を覆いながら咽び泣く。
「すごく悲しそう…大丈夫なの?」生まれて初めて成人男性の泣く姿を見た夜明は戸惑ってしまった。
「心配しなくていいよ。これ、いつものこと。」フリッツが夜明に耳打ちをした。「音楽を愛するあまりに、楽器の音色とか作曲とか何かが上手くいかないとこんなふうに絶望しちゃうんだよね。」
「ああ、音楽が好きなんだから、【指揮者】なんだね。」本人にとってつらいことに違いないが、想像ほど恐ろしいことではなさそうで、夜明は少しほっとした。
「そうそう。俺たちの音楽の先生でもあるよ。世界中の歌や曲を沢山知ってるし、歌も楽器もなんでもできちゃうし、泣いてない時は教え方も上手なんだよ。」
イェルムは指揮者の肩に手を置いて優しく慰め続ける。ゆっくりと、【指揮者】の涙が止まり、呼吸が落ち着いてきた。
「さあ、もう泣かないで。次はきっと美しい音が出るよ。」イェルムは微笑んだ。
イェルムの言葉に安心したのか、涙を拭いながら小さく頷いた。楽器のように優美な声が、今度は少しずつ平静を取り戻していった。
「ありがとう、イェルム。次は頑張るよ。」指揮者は震える声で言った。
「うん、俺たちも一緒に練習しようね。」イェルムは優しくうなずく。
説明を受けながら、夜明は興味津々と指揮者を観察する。芸術に心酔しているから、少年たちの中でも一番美しいイェルムがお気に入りかと思えば、すぐさまカルノとカルグの存在に気づいて二人の手をぎゅっと握りしめた。
「ああ…カルノにカルグよ。二つの太陽が僕の世界の闇を追い払ってくれた…」
「あまり泣くと喉に悪いよ」「顔を上げて」
カルノとカルグもいつもの事のように、慣れた手つきで手拭いで魔物の顔を拭く。
子供に愛情を注ぎたくて仕方がない樹妖たちとは対照的に、どちらかと言うと子供たちに慰められている指揮者の立ち振る舞いは新鮮で興味深い。
「きっと、感受性が特に豊かな方なんだね。」夜明は自分なりに感想を述べた。
「それも間違いないな。でも、こう見えても頼れる時はたくさんあるんだぜ。教えるだけじゃなくて、ここでは音楽療法って呼ばれるようなこともやってるさ。」
「音楽療法って?」
「音楽って、聴くだけじゃなくて、音楽を使って心の悩みとか体の痛みを和らげたり、元気になったりするんだ。」
「えー、そんなことってできるんだ?」
「心に大きな傷を負って、一言も話せなくなった子がいたけど、指揮者がその子が再び話せるまで一年以上かけて、毎日根気よく色んな音楽を演奏してあげたり、故郷の民謡を歌ってあげたり色んなことしていたよ。そしたら、いつの間にか嫌なことが全部音楽に上書きされて、話せるようになったんだ。」
「今では、うるさいほどお喋りになったがな」
解放されたイェルムは戻ってきて、フリッツの肩を組んだ。
「…フリッツのこと、だったの?」
笑顔を絶やさない陽気な姿から、夜明は全く連想できなかった。フリッツはニコッと笑う。
「そうだよ。昔はいろいろあって一時期一言も話せなかったんだ。でも、指揮者のおかげで元気になれたんだ。」
「凄い…」
夜明は感心してつぶやいた。当人である指揮者は顔を拭われながらも、涙がまだ止まらないようだ。
「そうだ。本当に最高だよ、指揮者は。さて、そろそろ俺の番だな…。指揮者!逢いに来たぜ!あんまり泣いたらせっかくの男前が台無しよ」
フリッツも指揮者の傍に行って、肩をたたくと、涙と鼻汁で顔がぐちゃぐちゃになった指揮者にぎゅっと抱き寄せられた。
「フリッツ…!!!僕の可愛いひまわりよ。君の笑顔をなしに僕の夜に朝がやってこない…」
「はいはい、ありがとう、もう朝が来たから元気出してよ。」
「ああ、ブナイル、僕の守護者で心の灯火よ、彼にはまだ今日逢えてないんだ、彼の鋼鉄のごとき頼もしい手に僕の悲しみを取り払ってほしいんだ…」
「そうだよね。でも親父はこの時間忙しいのって知ってるでしょ。」
なるほど、指揮者が話す『小鳥』や『心の灯火』。その賛美の言葉が、単なる美辞麗句ではないことを夜明は悟った。年齢や容貌に関係なく、ここにいる全員に対する深い愛情が込められていた。
過剰とも思える愛情表現は、心からの感謝と喜びの表れなのかもしれない。それが、静かに、しかし確実に、その言葉から伝わってきた。
「麗しい樹妖たちにも朝から逢えてない…彼女たちの美しいお顔を拝めないと…はあん!」
突然の奇声と共に、深海のような色彩に輝く瞳が夜明を射抜いた。指揮者は口を大きく見開き、しばし夜明を凝視していた。
「は、初めまして…夜明と言います」
気まずい沈黙を破ろうと、夜明は挨拶をした。
「ああ、ああ…あああ」
それに対して、指揮者は言葉にならない声を喉の奥から絞り出す。
※お詫び※
活動報告に書いてあるように、指が負傷していて入力が大変遅い状態になっています(´;ω;`)
少しペース落としますが、頑張ります!!
読んでいただきありがとうございます!
のんびりと書いていく予定ですので、
少しでも「続きが気になる」と思っていただければ、
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『推し活のために余命1年のモブ家政婦に転生しました ~ついでに推しの運命を変えたいけど恋愛ルートは全力回避予定~ 』
という恋愛転生ものも連載しているので、
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