10 姉妹
夜明を先に気づいたのは黒毛の大牛である。挨拶をするように、やさしい低めの声で鳴くと、少女も振り向いた。
「……。」
蒼玉のような大きな瞳である。少女が、夜明の髪や目を興味津々に観察しているようだったが、その目線は決して不快なものではなかった。
「…新しい子?」鈴を転がすような声である。
燃えるような赤髪が繊細に編み上げられ、さらさらと風に揺れている。つり目気味の澄んだ瞳は射すくめるような鋭さを持ち、愛らしさと凛々しさを兼ね備えている顔立ちである。
エリーと同じ赤髪だ。初対面なのに懐かしい気持ちになる。ただ、気が強そうなこの少女と比べると、エリーはもっと悩みのないような明るい表情だった。
「はい、夜明と言います。よろしくお願いします。」
「そうなんだ。私はネリーよ。堅苦しい口調は要らない」少女は軽く会釈して自己紹介をした。ハキハキとしているが、意外と気さくな話し方である。「目の色、綺麗だね。」
肌の色変だとか、それ以上何も言われないことはありがたかった。ただ、胸の中で何かがざわめき始めた。
炎のような艶やかな赤髪。ネリーと、エリー。共通点が二つもあると、偶然とは言えなくなってくる。
――生き別れになった姉が彼女をずっと探していたんだ。
ルシアンの話は、もちろんはっきりと覚えている。
「ありがとう。よろしくね、ネリー。」自分を落ち着かせようと、できるだけ平常心で返事をするが、どうしても脳が勝手に動き出し、点と点を線に繋げようとする。
「よろしく。」ネリーはもう一度軽く会釈し、その動きに赤い髪がさらりと揺れた
――冒険者としてではなく、私個人への依頼。
――大事な人に頼まれたからだ。
本当に、【それ】でしか説明がつかないのか。
あらゆる可能性を考え巡る夜明を現実に引き戻したのは、オーヴィだった。撫でられたくて、鼻先でそっと夜明の手を突っついていたのだ。
「…あ、オーヴィ。おはようございます。昨日はお疲れ様でした。」
意図に気づいてもらえていないオーヴィは、諦めずにもう一度夜明を鼻で突っつく。するとネリーが口を開いた。
「触ってあげて、撫でられるのが好きだから。」
そういえば距離感の近いラピスと違って、オーヴィには威厳を感じるので、あまり思いっきり撫でたことがない。
手を伸ばすと、オーヴィはその手に顔を押し付けて力強く上下に擦り寄せた。ラピスの甘える仕草によく似ていて可愛らしい。遠慮をしなくてもいいと感じた夜明は、黒毛の牛をたっぷり撫でることにした。
「ネリーもオーヴィに乗ったことがあるの?」
「そうだよ。」ネリーはポンポンとオーヴィの逞しい背中を叩いた。「ジュードさんに会って、オーヴィに乗せてもらうという流れは、だいたいみんな同じだよ。」
「ジュードさん、すごく優しかったね。また会いたいね。」
「いい人だけどちょっと距離感が近すぎる。」
そう言うネリーはほんのり顔を赤らめた。歓迎儀礼としてのあの熱烈な抱擁を思い出したのだろう。気の強そうなネリーがジュードに頭をなでなでされるのはなかなか想像できない光景だ。
「来月、シンの誕生日会があるから、ジュードさんは遊びに来ると思うよ。シンというのはここの子供の一人ね。12歳ぐらいだから、私と君より少し下の子だけど、時間の長さでいうと私たちの先輩だね。私も来て半年ぐらいしか経ってないから。」
笑顔が少ないが、ネリーは丁寧に説明してくれている。
「ジュードさん、誕生日会に来るんだ。普段、成人は入られないと聞いたけど。」
「そうね、院長のおまじないがあるから。ただ、年に数日、卒業生なら入れる日もあるよ。自分と関わりのある子供の誕生日会とかね。ジュードさんはほぼ全員と関わりがあるから、わりとよく顔を出してくれる。欲しいものがあったら、彼に頼めばだいたい用意してくれるよ。」
来た時にオーヴィの荷台に積まれたいろいろな小包は、そのためかと夜明は思い返した。
「そうなんだ。でも、僕は自分の誕生日が分からない。」昔いた孤児院はそこまで豊かな場所ではなく、そもそも誕生日会を開く習慣もなかった。
「分からない子もいっぱいいるから、後で自分で決めればいい。」
「誕生日って決めるもの?」
「ないなら仕方がないじゃん。分からないだけで誕生日会ができないのは不公平でしょ。」
「ネリーは分かるの?」
「分かるよ。私は、10歳まで普通の家庭にいたんだから。」
その後、何が起こったのか、聞くに聞けなかった。
――どこにも居場所がないような子供をここに。
というブナイルの話を思い出す。
誕生日を決めれば、もしかしてルシアンさんが会いに来てくれるのか。そう思うと嬉しい反面、夜明は動悸がしてしまう。
やはり、確かめるべきなのか。
「あの…ネリー。」
「ん?どうした?」
夜明が話し始める前に、ネリーの目が大きく見開いた。視線の先に、夜明が首に付けていた白金の鎖がある。
「ね…その鍵の色…紹介者から貰ったよね?」
ルシアンの珍しい青緑色の瞳と同色の宝石が夜明の胸元で煌めいている。宝石をはめたその鍵に、ネリーの目は釘付けになった。
「君の紹介者の名前はなんというの?」
ネリーの反応になぜか胸騒ぎがする。
まるで、自分が長い間探し求めていたものがもう目の前にいるかのように。
「僕の鍵は、ルシアンさんという卒業生からもらったんだ…ルシアンさんのこと、もしかして知ってる?」
「知ってる!!この国に10人しかいない【飛竜】クラスの冒険者よ!かっこいい人でしょ!」ネリーの顔はパッと明るくなった。
「ルシアンさんが半年前ぐらいにここに来た時に初めて会ったんだ。私も来たばかりだったので。そしたら、腕が立つ冒険者であることを知って、ルシアンさんにお願いしたんだ!」
「お願い…って?」
聞けば聞くほど、この会話がどこに向かっているかがだんだんはっきりしてくる。そして、その着地点は、夜明の予感とまったく同じ方向に向かっている。
「私の妹を探してもらうの、ルシアンさんに!私、お父さんもお母さんも…死んじゃったけど、妹が一人だけいるの。しばらく同じ孤児院で一緒に暮らしていたけど、1年前にその孤児院が火事で燃えちゃって、国の人が来て、私たちを別々の施設に移したの。」
ネリーは一瞬、何かを思い出したように顔が強ばった。
「…その後いろいろあって、私はここに来たんだけど、妹がどこに行ったかずっと気になっていて…」
ネリーは目を輝かせて、畳み掛けるように話し続けた。
「そしたら、ルシアンさんが必ず見つけ出すって約束してくれたんだ。院長からもルシアンさんにお願いしてくれたんだ。ね、ルシアンさんから何か少女の話とか聞いてなかった?院長に何か手紙とか渡すように言われなかった?」
高揚感に満ちていた声でネリーは一気に話した。ただ、手はわずかに震えているように見えた。
もしそうであるとしても、それは自分の口から話していいものか、夜明は答えが分からない。ただ、確かめずにはいられない。夜明は腹を括った。
「もしかして、妹さんの名前って、エリー?」
名前を口に出した瞬間、夜明は初めてネリーの笑顔を見た。心が突き刺すほどの眩しさだった。
「そう、エリーだ!!私の妹!!もうエリーの行方は掴んだの??ルシアンさんからなんか聞いたの?ね、教えてくれる?」
どうすればいいか分かっていないが、もう引くに引けない。
「…エリーは僕と同じ屋敷にいた。ある貴族の屋敷で使用人として。」
「え、エリーのことを知ってる?」
ネリーが驚いたのはただ一瞬だった。すぐさま、夜明の表情の強ばりに違和感を覚えたように、怪訝な顔をした。
「…ね、どうしてルシアンさんはあんただけ連れてきたの?…『いた』って、どういうことなの?」
「エリーは…」
喉に何かがつかえた。何もかも、昨日のことのようにはっきりと覚えている。
小さい手のほのかな温かさ、うるっとしている大きな青い瞳。そして、エリーを看取ったあの朝のこと。
「…ね、あの子は、今どこにいるの?」
「エリーは、もう…もう…」それ以上、どうしても言えなかった。
「――死んじゃったの?」
夜明の言葉を遮ったその声は驚くほど冷静だった。しかし、利発そうな顔から血の気が失せている。言葉がうまく紡げず、夜明は小さく頷くしかできなかった。
空気が凍りついたのが肌で感じられる。
「…そうなんだ。教えてくれて、ありがとう。」
淡々と静かに返事をしていたネリーの唇が震えていることに夜明は気づいた。赤い鬱金香の樹妖は心配そうにネリーの顔を覗き込んでいるが、ネリーはただ呆然と何もないところを見つめているだけだった。
急激に小さく見えるネリーの姿を見れば見るほど、エリーと重なってしまう。
小柄でやせ細った少女が高熱に悶え苦しむ光景を、ただ見守ることしかできなかった。冷や汗が身体中に滲み、拭っても拭っても止むことなく溢れ出ていた。口に入れた水や食べ物は、飲みこめずにすぐ吐き出されてしまった。
目の前の少女の身体から命が少しずつ消え去るのに、何ひとつできることがなかった。
絶望によく似た無力感がよみがえる。
謝らなければ。
エリーのお姉さんに、謝らなければ。
あの日から、ただそれしか考えられなくなった。
「ネリー、探していた…。」
中庭に入ってきたブナイルは、夜明もそこにいるのに気づいた瞬間、何かを察したかのように動きを止めた。
「…ネリー、遅くなってすまない。部屋の中でゆっくり話そ…」
「…ごめんなさい。」
夜明は口を開いた。
「え?」
振り向いたネリーの目に映ると、夜明の言葉はもう止められなかった。
「エリーを守れなくて、ごめんなさい…エリーのお姉さんに会えたら、自分で伝えようと思っていました…」
「…ごめんなさい?」
ネリーはその言葉を初めて聞いたかのように、低く繰り返した。
「エリーは病気で亡くなったんだけど…でも、僕がもっと何かしてあげていたら、もしかしてエリーは今でも…」
パンを拾い食いしたのを止めればよかった。
もっとあらゆる手段を尽くして、命を助ける努力をしたかった。
できなかった、しなかった自分が、憎くてしかたがない。
そして伝えたい。謝罪したい。ただ、その一心だった。
「夜明、これ以上は…」
ブナイルだけでなく、隣にいる樹妖も夜明を止めようと手をぎゅっと握るが、もう止まらない。
胸の奥から湧き上がる苦いものが、言葉を絞り出させた。
「僕が代わりに死ねばよかったって、今でも…」
ほんの一瞬だが、まるで時間が止まったかのように、すべての音が消え去った。
「うぬぼれるな。」
怒りに染まった澄んだ声が、張り詰めた静寂を打ち破った。
それとともに、身体が力強く突き飛ばされた。樹妖が受け止めてくれなかったら、地面に倒れ込んでいた。
「あの子を守るとか、二度と言うな。」
ネリーは肩を震わせ、涙を浮かべた目で夜明を睨みつける。幼さが残る顔は真っ赤になっていた。
うぬぼれる?
夜明は茫然とした。僕は、うぬぼれていたのか。自分が何にうぬぼれていたのか理解できなかった。ただ、その怒りが自分に向かっているのは明らかだった。それを知らなければ、ネリーに謝ることすらできない。
「うぬぼれるな…」
ネリーはもう一度涙に掠れた声を上げた。そして、糸が切れたかのように膝から崩れ落ち、ブナイルがすぐに駆け寄って彼女を支えた。
「二人はひとまず、少し距離を置こう。」
ネリーの肩をブナイルはそっと抱え寄せ、柔らかな声で夜明に話しかけた。「きみも少し休んでおくれ。すまないが案内の件は少し待ってくれないか。」
ブナイルと赤い鬱金香の樹妖に支えられながら、ネリーは建物の中へと歩み去っていった。夜明はその背中を見送ることしかできなかった。
「自惚れ…」夜明は呟きながら顔を上げ、樹妖の方を見つめた。「僕はネリーに、ひどいことを言ったのかもしれない…」
詫びるどころか、怒らせてしまった。自己に対する嫌悪が募る。
樹妖はそっと彼の背中を撫でる。その温もりでさえほんの少ししか心を癒せなかった。




