7 理由
迷いの樹海から出たわけではないので、まだ森の中にいることは確かだが、まるで全く別の場所に来てしまったかのようだ。
まず、夜空が見える。さっきまで常夜のように暗かったのに。
森の奥深く、静寂に包まれた場所に、2棟の石造りの建築が向かい合うようにして建っている。今風ではない様式だが、重厚感が漂いながら佇んでいた。周りは、途方もなく巨大な木々に囲まれていた。天を突くように高くそびえ立ち、何世紀にもわたって成長し続けた証を示していた。
周りを取り囲むこれらの大樹は、枝葉が重なり合って天然の壁を作り上げていた。まるで、子どもを外の世界から守る要塞のようだと、夜明の目に映った。
「森の中に、こんな場所が…」心から感嘆すると、樹妖も満足げに微笑み、手をぎゅっと握り返した。その手は人肌のように温かくはないが、不思議と心を落ち着かせてくれる感触だった。
オーヴィも実家に帰ってきたかのように慣れた感じで、中庭の広がる場所で足を止めた。それを見た樹妖も手慣れた動きで、オーヴィから二輪車を降ろしてあげた。
「なんだか、すごく安心できますね。」自分の語彙力の貧しさに恥ずかしさを覚えながらも、夜明は感想を述べた。樹妖は優しく頷きながら夜明の肩に手を置き、彼の不安を和らげるようにそっと微笑んだ。
残念なことに、夜なので周囲の全貌をはっきりと見ることはできなかったが、建物の壁には見たことのない精巧な彫刻が施されているのがわかった。飛竜、狼、虎など、動物の彫刻が特に多かった。
森の中にあるということで、夜明はなんとなく隠れ家のようなこぢんまりとした場所を想像していたが、実際に目にすると、自分の想像以上に規模の大きな孤児院だったのかもしれない。そして、これから色々な人に出会うことに少し不安を覚えはじめた。
この大陸では、髪の色こそ多種多様だが、白い肌を持つ民族が最も多い。それに対し、故郷を知らない夜明は、褐色の肌に緑の瞳、くるくると巻いた髪を持ち、孤児院では肌の色のことでいじめに遭ったこともある。仲良くできたらいいな、と庭で草を悠然と食べているオーヴィを見ながら漠然と思っていると、樹妖にぐいっと手を引っ張られた。
「どうしました?」
その時、建物の中から光が見えた。誰かがオイルランプのような明かりを持って近づいてくるようだ。樹妖のほうを見ると、「大丈夫」と言わんばかりに、穏やかな笑みを浮かべている。
「あの――こんばんは!」
勇気を出して自分から挨拶をした。廊下のアーチをくぐって姿を現したのは、ひとりの恰幅のいい男性だった。彫刻のように力強い顔立ちで、顎には灰色がかった立派な髭がたなびいていた。中年から初老の間の年齢だろう。
――ジュードが話していた、親父。直感でそうわかった。
背丈は夜明とさほどかわらないので、大人の男性の中では身長は低い方かもしれないが、もし戦士ならば両手斧を振るえるほどのがっしりとした体格で、鋼のような筋肉がその体を覆っているのが服の上からもわかった。しかしその外見に似合わず、屈強な風貌の男性は前掛けを付けていて、戦場より台所のほうで活躍しそうな格好をしていた。
夜明を見るなり、厚みのある低い声で男性が口を開いた。
「その鍵、ルシアンの紹介か。」
「はい、今日からお世話になります。夜明と言います。これ、紹介状ですが。」
夜明は、ルシアンがしたためてくれた手紙を懐から取り出し、男性に渡した。封筒に書かれたルシアンの名前を一目見ただけで、中を読まずに受け取った。
「ようこそ、よく来た。この場所を作ったブナイルだ。私について来なさい。――オーヴィもご苦労だ。少し休みなさい。」
黒毛の牛は遠くから返事するかのように鳴いた。
ブナイルの後ろに付いて行く時も、樹妖は夜明の手をしっかりと握っていた。自分はもう随分前から一人で歩ける年齢だと思うが、その手を振り払う気には全くならなかった。優しくされるのはとても心地よかった。
案内されたのは、建物の1階の廊下の奥にある一室だった。長い廊下にはたくさんの部屋があったが、どれも閉まっていて中を覗くことはできなかった。
「ここが私の自室だ。今後について少し話そう。」
部屋に入る前に、ブナイルは手短に説明した。口数が多くない人のようだ。昔いた孤児院の院長の公務室と似たような造りを想像して入ると、中の光景は夜明の予想を大きく裏切った。
暖炉の炎が照らし出したのは、生活感に溢れる部屋だった。木製の食卓と椅子、部屋の中央には大きな絨毯が敷かれ、子供のおもちゃが散らかっている。一角には小さな机があり、書類が山積みになっている。公務室よりも、民家の居間のように見える。
「ここに座りなさい。」
ブナイルが一脚の椅子を夜明の前に持ってきた。上には快適に座るための小さめの座布団が敷かれている。言われた通りに腰を掛けると、樹妖もすぐ横の地面に座り込んだ。
ブナイルは手際よく湯気の立つ暖かい飲み物を用意して夜明に渡した。「喉が渇いただろう。生姜を入れた紅茶だ、熱いからゆっくり飲むといい」
「ありがとうございます」夜明はカップがひとつしかないことに気づいた。「あの、ブナイルさんと、彼女は?」
「ああ、私のことは気にしなくていい。彼女は必要な時に自ら補給に行くほうが好むんだ。」
夜明がお茶を飲んでいる間に、ブナイルはルシアンの紹介状を黙って目を通した。鷹のような鋭い目が紙の上を素早く追い、時折、眉間に少し皺を寄せる。読み終わると、紹介状を丁寧に折りたたみながら夜明に問いかけた。
「あの子…ルシアンは、元気か?」
ルシアンの名前を口に出した瞬間、精悍な面構えが穏やかになった気がする。
「あ、はい、とてもよくしてくれました。今はいろいろ忙しいようですが…」
ブナイルはゆっくりと頷きながら、紹介状を懐にしまった「そうか。君のおかげであの子の近況を知ることができた。礼を言う。」
「いいえ、とんでもないです。」確かにここだと手紙のやり取りも大変そうだ。
「この場所のことだが、少しはルシアンから説明があったと思うが、ここは居住部と授業を受ける学校に分かれている。今いるのは学校の部分にある私の自室だ。」ブナイルは淡々と説明を始めた。部屋の中をゆっくり歩きながら、時折暖炉の火を確認し、おもちゃを片付けた。
「夜遅くまで仕事をすることが多いので、子供たちを起こさぬよう居住部ではなくここに部屋を設けた。子供たちにも一人一人自室があるが、君の部屋は少し掃除が必要なので、今日はこの部屋に泊まるといい。体調の悪い子を看病するための備え付けのベッドがあるので」
少しの間を置いてから、ブナイルは申し訳なさそうに眉をしかめた。「初めての場所ではゆっくり休めないかもしれないが、今夜だけの我慢だと思ってくれ。彼女もそばにいてくれるので、怖がらなくていい」
「あの…ひとつ聞いてもいいですか」
横を見ると、樹妖はさきほどと同じように、優しく微笑んでいる。その目には、他の何者も映っていないかのように、ただただ愛おしそうに夜明だけを見つめていた。
「どうした」
「僕はなぜ、こんなに彼女に好かれているんですか?初対面のはずなんですが」
「…彼女はずっと君を待っていたからだ。」ブナイルは一瞬目を細め、考えるように視線を遠くに向けた。「樹妖という種族は、非常に子への愛情が深い。ただ、ずっと昔に男性体が絶滅してしまい、新たな子を成すことができなくなった。それでも絶滅しないように、母木から新しい分身を生み出していたが、二度と自分の子を育てることはできないのだ。」
――二度と、我が子を抱くことができない。その現実を受け入れながら、生き続けてきた樹妖たち。夜明は、その注ぐことができない深い愛情を胸に秘めたまま生きてきた気持ちを想像した
「君のそばにいるのも、その分身の一人だ。入口の門番を樹妖にお願いすることがあると、彼女たちはやがてやってくる子供たちを自分の子供のように可愛がるようになる。魔物と聞くと怖いかもしれないが、その愛情に偽りはないと保証する」
「…待っていたって、僕が来るのを知っていたんですか。」
「知らないと思う。ただ、いつか来る君を、心から待っていただけだ」
「彼女は言葉を発せないみたいですが、どうしてそれがわかるんですか」
「言葉がなくてもわかるものだ」
樹妖はそっと夜明の手を取り、自分の頬にやさしく擦り付けた。その動きは、ただただ我が子を思うような深い愛情を伝えていた。




