4 出発
一度足を踏み入れれば、逃れることは叶わず、命尽きるまで彷徨い続ける――それが迷いの樹海である。
どこまでも広がるその森には、樹齢数千年を超える無数の大木がひしめき合い、密生している。鬱蒼と繁る木々の葉は空を覆い隠し、太陽の光を一筋たりとも通さない。森の内部は常に真夜中のように暗く、不気味な魔物が蠢いていると伝えられている。このあたりには、まず人が近づくことはない。
「まあ、その方が好都合だけどね。」
これから向かう場所について何も知らない夜明は、ジュードの説明を聞いて思わず問い返した。
「あの…途中に危険はないんですか?」
「うん、あるよ」ジュードは補足した。「もちろん、行き方を知らない人にとってね。」
「行き方を、ですか?樹海に入るだけなら誰にでもできそうなのに…」と困惑する夜明の頭を、ジュードは軽くポンポンと叩いた。
「家までの行き方ね。君なら大丈夫だよ、オーヴィもいるし。」
立派な黒毛の牛が、夜明に任せろと言わんばかりの力強い目線を送ってきた。その後ろにはオーヴィが引くのであろう荷台付きの二輪車があり、ジュードはそこに様々な大きさの荷物を次々と載せている。
「オーヴィは、魔物が怖くないんですか?」
筋肉隆々とした巨体で威厳のある佇まいではあるが、さすがに牛は戦闘向きの生き物ではない気がする。
「怖くないよ。魔物にとってオーヴィのほうが怖いと思うよ、特にあの森の中では。」
ジュードが意味ありげに言うと、オーヴィも誇らしげに首を上げて、夜明に自慢の双角を見せてきた。
――ということは、やはりいるんですね、魔物が。
「大丈夫だ。ルーちゃんは君を危ない目に晒すわけないだろう。」ジュードは不安そうな夜明の肩を抱き寄せ、その笑顔を見ると強ばるものが不思議と消え去ってしまう。
「例の鍵、持っているよね。」
「はい、ルシアンさんからいただきました。」夜明は首元の鍵をジュードに見せた。
「そうそう、それ!特に森の中では絶対取り外したらダメよ。」
肌身離さず付けなさいと既にルシアンから何度も念押しされたが、ジュードを安心させようと力強く頷いた。
「はい、何があっても取ったりしません。」
「そう、それでいい!」ジュードは微笑んだ。「逆に言うと、それさえ付けていれば絶対大丈夫なんだからね。」
「この鍵を、ですか?」
「そう、それがあれば、親父が守ってくれるよ。…さてさて、お待たせ!いよいよ、出発の時間だよ。」
目立たせたくないとのことで、完全に暗くなってから出発することになった。それなりに荷物を乗せられた二輪車を軽そうに引っ張るオーヴィは、夜明を見て低い声で鳴いた。
「乗ってーって。」ジュードが通訳した。
「大丈夫ですよ、僕歩けますから。」
オーヴィはさらに促すように鼻を鳴らした。
「あと10人乗っても余裕だって。長旅だから、乗っててほしいってよ。さぁさぁどうぞ!」
赤ん坊を抱き上げるように、ひょいとジュードは夜明を持ち上げて荷台の上に乗せた。そのために、元々荷台の一部に絨毯が敷かれている。
「ありがとうね、オーヴィ。」
返事の代わりに、立派な黒牛は尻尾を嬉しげに何度も振った。そしていとも軽そうに歩き出した。
ジュードの雑貨屋は街の外れにあるので、牛車が少し進むだけで街の外に出た。石畳の道から土の道へと変わり、周囲の風景も徐々に変わっていく。遠くには、うっすらと森の輪郭が見える。
「これだけのお荷物は、あの…そちらにいる方々が注文したんですか?」
孤児院でも学校でもない、自分がこれから暮らす場所のことをどう呼べばいいのか、夜明はまだ決めかねている。
「そうだよ、子供たちのおもちゃや教科書とか、教師たちに頼まれた嗜好品、あと僕個人からの差し入れ。親父の好物とか。」
「親父という方は、先生のひとりですか?」教師たちと一線を画したような言い方に夜明は気になった。
「うーん、先生というより、位置づけは経営者とか院長なんだろうけど…」松明の光が揺れる中、ジュードの目には温かい光が宿っていた。大切な人を思い出す時のなつかしさに満ちた表情である「少なくとも、僕にとってはただ一人の父親だな。血が繋がらなくとも、ね。」
――父親。それは夜明にとって、魔物という存在と同じぐらい未知の概念に等しい。
自分の話に聞き入った夜明に、ジュードはにこっと笑った。
「君ももうすぐ親父に会えるね。いっぱい甘えてね。」
「僕はもう、甘える年齢ではないと思いますが…」
「親にはいつまでも甘えていいものさ。」
ジュードがそう言うと、オーヴィはふんと鼻を鳴らした。
「あんたは、もう少し大人になりなさいってオーヴィに言われた。相棒なのに容赦ないな。」
大げさに泣き顔を作るジュードに、夜明は吹き出した。
「さて、いよいよ着きましたよ。」
ジュードに笑わせられながらしばらく進むと、ついに樹海の外側に到着した。一本一本の木が太古の時代から生きてきたかのように太く、幹は屈強で、その梢は空を突き刺すかのようにどこまでも伸びている。これほどの巨木が、あたり一面にびっしりと立ち並んでいる。
木々の間から中を覗こうとしても、葉が茂りすぎて太陽の光を完全に遮り、光を反射しないほどの深い闇だけがそこに広がっている。その光景を見つめながら、不安が胸に募るのを感じた。
「さて、鍵の最終確認!」
「はい、ちゃんとあります!」
「よい!」ジュードは夜明の背中を叩いた。
「ここからは、君とオーヴィだけだ。」
夜明は自分の耳を疑った。
暗闇の中に魔物が蠢くという、この深い樹海に、オーヴィと二人だけで入るというのか。
「そうだよね、不安だよね、ごめんね。」ジュードは申し訳なさそうに頭を掻いた。
「この森には、子供を守るためのいろんな【おまじない】が施されていて、そのひとつが成人すると簡単に入れなくなるっていうものなんだ。」
「おまじないって、結界みたいなものですか?」夜明は無意識に自分のうなじを触り、使用人に逃げさせないために貴族が施した結界を思い出した。
「元を辿れば同じかもしれない。ただ、親父のおまじないの方が圧倒的に古くて本格的で、本物だな。」
そういえばルシアンも屋敷の結界のことを見栄えだけとか言っていた。
「ルシアンさん、会いに来てくれるって言ってたんですが…」
「それも嘘じゃないよ。普段簡単に入れないだけで、絶対ではないから。彼の言葉を信じて待ってみて。」
「…分かりました。頑張ります!」
「うん、怖くなることもあるかもしれないけど、僕の言葉とオーヴィを信じて。ほんの少しだけ暗いのを我慢したら、色々楽しいことがその先で待ってくれているから」
「はい!ありがとうございます!」
「僕も近々会いに行くからね、それまでに新生活楽しむんだよ」
最後にもう一度、ジュードは夜明を優しく抱きしめた。
「怖がらずに進めばいい、鍵が導いてくれるから」
「ジュードさん、ありがとうございます」
いい子だ。素直で心優しくて、幼い頃のルシアンを思い出す。
夜明を乗せた牛車がゆっくりと森へ入っていくのを、ジュードは見守った。
そして、古代語で祝福の言葉をそっと唱えていた。




