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【転章】 

 

 花の香りを漂う、爽やかな甘みが乾く喉を潤す。


 もっと、飲みたい。


 その気持ちを応えるように、甘い飲み物が少しずつゆっくりと口の中に注がれた。


 ああ、本当に美味しい。初めてこの飲み物を飲んだ時から思った。そう、これを飲むのは初めてではなかった。


 エドリックにもこの味を教えたい。そう思った瞬間、少年ははっと目を覚ました。


 ぼんやりとした視界の中で、他の感覚が先に戻ってきた。土と草の香りが鼻をくすぐり、屋外にいることが分かる。静かな中で、風に揺れる木々の音が微かに聞こえる。


 プルル。


 暖かくて湿っているものが頬に触れる。


 まず目に入ったのは、大きくて柔らかそうな鼻である。


「ラピス…」


 プルル。と名前が呼ばれて嬉しそうにもう一度鼻を鳴らした。


 自分を見下ろすラピスの背後には、静かな夜空が広がっている。


「気分はどうだ。」


 優しい声が横から響いた。顔をあげると、ルシアンがすぐそばの大きな木にもたれ、足を組んで優雅に地面に座っていた。


「なんか、ふわふわとしている。」


 素直に答えると、ルシアンが微笑んだ。


「今飲ませたものは、多少鎮痛の効果もある。背中の火傷も簡易な手当てをしたが、一時的な処置なので、またきちんと治療をしてもらわないといけないが」


 ルシアンの手を借りて身体を起こすと、初めてルシアンと出会った屋敷の裏の森にいると気づいた。


 周囲を見渡し、自分とルシアン、ラピスしか見かけない。


「エドリック…」


 その名前を出した瞬間に、ルシアンの瞳が曇ったのを気づいた。それは何を意味しているのか、すぐにわかった。


「エドリックを、そこに寝かせた。」


 細長い指が指し示した先には、彼の黒いマントに布団のようにかぶせられた小さな男の子の姿があった。眠っているかのような安らかな顔だった。


 正直のところ、薄々気づいたのである。食堂で発見した時には、もう既に手遅れだったと。ただ無意識的に否定しようと、必死になっていただけかもしれない。


「イグナシオの薬のせいか…」


 柔らかい茶髪がきちんと梳かしてある。幼い顔にもほぼ汚れがない。ルシアンがやってくれていたのだろう。


「ああ。大人たちの様子を見ると彼の薬はほぼ完成していると言えるとが、子供に使うと効果がまだ不安定なんだろうな。…ただ、苦しんだようには見えない顔である。」


 少しの沈黙が流れた。少年はただ、茫然とエドリックを見つめ続けた。


 また何か大事なものが、指の隙間からさらさらとこぼれる砂のように落ちていく。


「彼のことを、少し聞かせてくれないか?」ルシアンは静かに問いかけた。


「まだ屋敷に入ったばかりで…怒られながらも一所懸命に仕事をして、嬉しい時はぱっと顔を輝かせる子で、いい子なんです…僕がちゃんと守ってあげればよかった…」


 少年の声を震わせながらルシアンに訊ねた。


「エリーのときもそうだったんですが、ぼく、涙が一滴も出なくて、おかしいんですよね。」


「そんなことはない。悲しみは、涙の有無で測るものではない。」


「では、どうやって…。」


「胸の奥、何も感じられないわけではないだろ」


「うん、心に大きく穴が開いたような気分。」


「エリーとお別れしてから、その穴は塞がったのか。思い出すと胸の奥の苦しさはなくなったか」


「ううん、考える時間は少し減ってきましたが、ずっと塞がっていない気がします。今は、エドリックを考えると、同じような気分になります。」


「その穴のようなものが、君の悲しみの形。それでいいんだ。」


 ルシアンの言葉を反芻(はんすう)しつつ、少年は深く思いに沈んだ


「完全に私の不甲斐なさ。君の友達を救えず、イグナシオも仕留め損した。申し訳ない」ルシアンは静かに目を伏せて言った。


「ううん、色々とありがとうございました。」


 ラピスは顔を少年の肩に置き、暖かくて、ずしりと心地よい重さである。


「ほかの人はみんな、大丈夫だったんですか」


「そうだな。食堂にいた人以外、全員助かったと聞いた。」


「では、食堂にいる人はやはり全員…。」


「そうだな、領主の娘ひとりだけを除いで。」


 旦那様、奥様、賓客、執事、侍女長、侍女…。


 ロウソクの火を吹き消したかのように、一人の仕業で大勢の人が命を落とした。


「お嬢様の容態は?」


 旦那様には一人娘がいる。年齢は自分と同じぐらいと聞くか、身体が弱く、ほぼ部屋から出ないので全く会ったことがない。


「薬を飲まされて意識不明になった。無事と言っていいかどうか分からないが、命に別状がなく、生きてはいる。町には領主と縁続きの人がいるので、そこに一旦預けた。また後日、毒薬に詳しい医者を連れて来る予定だ。」


「そうなんですね。他の使用人のみんなは?」


「領主が亡くなった今、結界と入れ墨の繋がりはもう消え去ったので、彼らは晴れて自由の身になった。ただ、職と住まいを失って困っていると思う。すぐにでも国と掛け合って、職を見つけてあげたい」


「ルシアンさんは、かなり忙しくなりそうですね。」


「そうだな。イグナシオも探さないといけない。」


「イグナシオ…彼はなぜ今日旦那様にこんなことを…」


 上級貴族である旦那様との協力関係は、彼に安定した環境を供給してきたはずだ。


「推測しかならないが、ローリとジュリアの事件のあと、何かの拍子に、彼は念願の薬を完成したと思われる。いつも通りに使用人を実験台にしてもよかっただろうが、長い年月をかけて出来上がった薬をすぐにでも試したくなったのかもしれない。その中で、彼は身近にいる、いつも偉そうに振る舞い、自分を見下している貴族様に見返しをしてやろうと思ったのではないか。もしくは、自分の言いなりにしてやろう、という誘惑に負けたのかもしれない。領主もまさか自分が標的になると思えなかっただろう、薬が完成したとだけ聞かされて、それから生み出す富に目をくらみ、油断してワインを口にした。」


 その結果、片方は炎に飲み込まれ、片方は腕と後ろ盾をいっぺんに失って、命からがらに逃げ出した。


ーー薬の実演に、子供を一人用意して欲しい。そうイグナシオに言われて、エドリックが選ばれたか。そして乾杯の音頭と共に、みんながいっせいに薬を…イグナシオを除いで。


「心配ない。必ず彼を探し出す。次は油断しない。この手で彼の息の根を止める」


「はい、ルシアンさんならきっと…」


「ありがとう。そこで、きみの今後について。」


 ルシアンは、声をさらに和らげた。


「きみを連れ出してあげたい、と言ったのを覚えているか」


「はい、もちらん。」


「無理強いはしたくないし、他に行きたい場所やしたいこと、会いたい人がいれば、わたしもできるだけ手伝ってあげよう」


 少年の目を見つめ、その意志を確認するように優しく語りかけた。


「そんなの、なにもないよ。」かすかに首を振った。


「そうか。では、わたしの生まれ育った場所にきみを連れていきたい。いいか。」


「ルシアンさんの実家ということですか」


「そうだな、わたしの実家だ。わたしは君と同じ孤児だったが、そこで育って、教育を受けて、剣まで教えてもらったんだ。」


 ルシアンは懐かしそうに目を細めた。


「では、孤児院みたいなところなんですね」


「その理解でもいいが、おそらく、この世界にあるどの孤児院より、温かくて楽しい場所になるだろう。」


 ルシアンは微笑みながらラピスの背中を軽く叩いた。


「ラピスともそこで出会ったんだ。きみもきっとそこで自分の相棒に巡り会えるだろう」


「それ、ずるいです…」少年はふっと笑みをこぼした。


「すまないな。」ルシアンも微笑む。


 二人は顔を見合わせて、笑い声を上げた。


「きみの笑顔を見るのは初めてだな」


「そうなんですか。私も、自分がどれほど笑っていないなんて覚えていません」少年は自分の口角を触って確かめてみた。


「では、どうかご案内お願いします」


「そうだな、その前に、もう一つ君に訊ねなければならないことがある。」


「…僕の名前ですね。」少年は目を伏せた。


「申し訳ない。紹介者という立場できみを紹介するので、色々と都合上、名前を知らないわけにはいかない。」


「すみません、言いたくないわけではないのですが、僕は自分の名前が嫌いで。」


「なぜ?」


「名前の意味がわからないからです。」


「名前の意味?」


「うん。名前って、どれだけ珍しくても調べれば意味が出てきますよね。たとえばヨハンというのは、『牧羊人』からきた言葉で、エリーは『赤い鬱金香(チューリップ)』、エドリックは『祝福』。…昔いた孤児院に、名前の意味や由来を紹介した辞書みたいに厚い本があって、それを何度も何度も読んでいた。」


 少年は自分の手をぎゅっと握りしめた。


「…僕の名前だけ載っていなくて、語学の教師に聞いても意味がわからなかったと、他の子には変な名前だと言われるばかりで…ただの名前ですが、意味が分からないままで自分が誰かも分からなくなったような気がして、そのうち、言うのが嫌いになりました。」


「そうなんだね。それでも私は君の名前を知りたいが、嫌じゃなければ教えてほしい。」若い剣士は柔らかな笑顔を浮かべながら言った


 実のところ、ルシアンに言う抵抗感はとっくに無くなっていた。少年は深呼吸した。


「…僕の名は、()()()と言います。」


()()()か、いい名前じゃないか。」


「ありがとうございます。僕は赤子の頃から孤児院に預けられて、名前以外何も分からない。肌の色も他の人より暗いし、どこの国から来たのかもわからない…」


 ルシアンは顎に手を当てて、しばらく考えた。


「夜が明ける。」


「え?」


 空を見上げると、何時か分からないが、朝が来る気配の欠片もない、真夜中の暗い空である。


「夜が明けるまで、もう少し時間があると思いますが。」


「名前の意味だよ。君のね。」


 少年は口を開けたまま固まった。


「ルシアンさん、わかるのですか?」


「古代語で【夜明け】という意味だ。私が育った場所に、厳しい古代史の先生がいてね、嫌なほど暗記させられたのがまさかここで役に立つとは。たしかに珍しい名前だが、昔ではかなり一般的な名前だったようだ。」


「夜が明ける…」


 何度も口の中で復唱した。


「君に良く似合ういい名前だよ。」


 ルシアンは少年の頭に手を乗せ、やさしくそのふわふわとした髪を撫でた。


「長い、長い、冷たい夜がもう明けようとしている。君の新しい人生が、今この瞬間から始まるんだよ」


 その柔らかい声に、夜明(ヤメイ)は産まれたての赤子のように声をあげて泣き出した。


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