【終幕】狂乱の晩餐会 2
執事の肩越しに、広々とした食堂が見える。
賓客が全員着席している。グラスを持ち上げて葡萄酒を飲もうとする人もいたが、糸で操られているように不自然な動かし方なので、顔や服に真っ赤な液体がこぼれていた。
まるで、人形とおままごとしているように、静まり返っていた。
視線の死角にいるのか、エドリックは見当たらない。
その代わりに、奥側の暖炉を背にした、いつも旦那様が座っている主人の席に、イグナシオがいた。
恍惚とした表情を浮かべ、自分が作り出した人形をうっとりと見入っているようだ。
その全貌を目に収まるのはただ一秒ばかりの事だったが、ルシアンには何が起こったかを理解するのに十分だった。
「遅かったか」
ルシアンがつぶやき、一瞬の迷いもなく動き出した。
少年の目には、暗闇を切り裂く閃光のようにしか見えなかった。
瞬く間に、ルシアンは少年と執事一瞬で躱し、影のように滑り抜けて食堂に入った。
目も止まらぬ速さで、ルシアンは剣を抜き、イグナシオへ突き進んだ。あまりの速さで、少年はその姿を捉える間もなく、ルシアンの残像を見るだけだった。
死が目前にあるという生き物の本能か。
ルシアンの剣の先が届く前に、イグナシオはその冷たい銀色の閃光に気づき、大声で叫び出した。
――ワタシヲ、マモレ。
人間の声と思えないような、恐怖と怒りに満ちた叫びが鳴り響く。
その直後に、イグナシオの悲鳴が聞こえた。それが合図となったように、食堂にいる人は同時に動き出し、イグナシオとルシアンの間に壁を作ろうと、自分の身体を盾にして立ちはだかった。
その人間の壁の裏でイグナシオは片腕を抑え、顔を痛みに歪ませながらと扉の方に向かおうとしている
――まだ、生きている。
ルシアンは、心のない人形に成り果てた人達をかわそうと苦労しているようだ。罪のない人を傷つけるわけにはいかず、ルシアンはなんとか賓客たちを大きく怪我させない程度に退かしながら、イグナシオを追おうとする。
「痛い痛い痛い痛い痛い」
呪うように呻いているイグナシオの抑えている部分から真っ赤な血が噴水のように湧き出す。そして、何かが違和感が…
--片腕がない。
「許せない許せない許せない」
呻きがどんどん罵りに変わり、やがて少年が理解できない言語に変わった。
食堂の中という室内が、イグナシオを中心に竜巻のような黒い風が渦巻き始めた。
ルシアンが叫んだ。
「食堂から今すぐ出ろ!詠唱が始まっている!」
賓客の間からルシアンの姿を確かめようとしたら、数歩先の床に丸くなって横たわる小さな体に気づいた。
「――エドリック!」
少年は駆け寄り、小さな体を抱き上げた。力が入っていないその体は、ほんのりと温かいが、小さな胸は微動だにしない。首筋に手を当てても、自分が震えているせいか、何も感じられない。
「やっと完成したのに…おのれ邪魔しやがって!」
詠唱の合間にイグナシオが叫んだ。その声は、悲痛さすら感じさせる尾を引いていた。
「早く逃げろ!」
ルシアンの声がした瞬間、イグナシオを中心とする竜巻が黒い爆炎の輪へと変わり、燃え広がっていった。
その一瞬、少年は中にいる旦那様に気づいた。直接見かけるのは本当に久しぶりだ。白金色の金髪が乱れ、目は虚ろ。普段の姿はきっと肖像画の通りの貴公子に違いないが、今はただの抜け殻である。黒い炎がその華美な服に燃え移り始めても、何も感じられないようにイグナシオの前で両手を広げていた。
食堂はあっという間に黒い炎の海と化した。少年はエドリックを抱えて逃げ出そうとしたが、力が入っていない小さな体は想像以上にずっしりと重く、走るどころか歩くのも精一杯だった。
扉まであと数歩のところで、背後に炎が燃え上がるのを感じた。エドリックに炎が移らないように、両腕で体の前にしっかり抱え込むが、そのせいでさらに歩きにくくなってしまう。
肉が焦げる匂いが鼻をつき、背中に激痛が走る。扉までわずか数歩のところで、荒ぶる黒い炎が背中に燃え移ったと感じた。扉は開いたままなので、せめてエドリックだけでも外に放り出したい…
「――ああ!」
灼熱、激痛。背中の服が勢いよく燃え上がったのを感じる。
やばい。このままだと歩けないかもしれない。
痛みに失神しそうになる。少年は歯を食いしばると、間髪を入れず、入口から何かが少年の腕を外へ強く引っ張ってくれた。
「火事だ!!」遠くから使用人の叫び声が聞こえる。
煙まみれになった廊下に立っている、引っ張り出してくれたものに、少年は思わず目を疑う。
「ラピス?」
黒い馬が返事するようにいななく。力が抜けたエドリックのうなじを優しく咥え、ラピスは前へ走り出す。
「ラピスの後についていけ!」と、ルシアンの切迫した声が背後から響き渡った
エドリックを抱えずに済んだので、少年は背中の激痛をこらえ、ラピスの後を追った。きらめくたてがみが、道標になっていた。
屋敷の外へ出た瞬間、少年は思わず倒れ込んだ。食堂へ繋がる外への通用口がラピスに蹴り飛ばされたおかげで、何とか力尽きる前に逃げ切った。他の使用人の声も聞こえる。大勢の使用人が休憩していた使用人部屋は扉の近くにあるので、恐らくほとんどの人が無事に逃げ延びたのだろう。
屋敷の中はどうなっているのか。ルシアンのことだからきっと無事だろうが、他の人たちはどうだろう。
「エドリック…」
ラピスの足元に、小さな体が横たわる。食堂で見かけた時と同じく、まるで体から力が失われたようだった。ラピスは心配そうにエドリックと少年を交互に見ている。
力を振り絞って、少年はエドリックの傍へ這っていく。小さな手を握ってみると、先ほどよりも冷たくなっている気がする。
「エドリック…」
そのまま、深い闇に飲み込まれた。