【終幕】狂乱の晩餐会 1
香草、香辛料と脂の香りが食欲をそそり、皮まで黄金色とこんがりと焼かれた子豚の丸焼きは釜から取り出されたばかりで、まだ熱気を帯びている。その腹には刻まれた野菜と果物が詰められており、調理場に芳醇な香りが広がる。料理人の渾身の自信作だ。
――特別な日には、必ず出される一品である。
その他にも、焼きたてのパンや、珍しい魚介をふんだんに使われた料理など、様々のご馳走が食堂ににどんどん運ばれていく。
旦那様やご家族様の誕生日などでもないのに、随分と気合いが入っているもんだと、食器磨きや掃除に駆り出された使用人たちは目を見合わせて不思議がる。
ただ、少年だけが不安に駆られていた。
イグナシオがやってくる。そして、そこにルシアンもおそらく。
どんなことが起きるのか、想像するだけでますます不安が募る。
知っている限り、イグナシオを今まで晩餐会に招かれたことがない。イグナシオは旦那様にとって重要な協力者であることは間違いないが、それでも同じ食卓に座りたくないのかもしれない。
もうひとつ。エドリックがその場にいることは、おそらくルシアンでも知りえなかった情報だ。
ルシアンはかなりの実力者であるのは確かだ。ただ、実際のところどれほど強いのか、「強い」とはそもそもどういう基準によって定められるか、まったくわからない。
未知が不安を呼び、不安がさらに恐怖に変わっていく。
「もし可能なら、イグナシオが屋敷に到着してから、君にはできるだけ安全な場所に隠れて欲しい。」
別れ際、ルシアンはそう告げた。
「安全な場所…」
少年はそのような場所を思いめぐらせた。
「そうだ。もし、周りが騒がしくなってきて怖くなったら、この森に来なさい。全て終わったら私が迎えに来る。」
「迎えに、僕をですか。」
「そうだ。君を連れていきたい場所がある。行くかどうかの返事はまたその時でいいが、ひとまず君には安全でいてほしい。」
「…エドリックもつれてきてもいいですか。」
「エドリックというのは。」
「新入りの子。まだ7歳ぐらいで、背もこれぐらいしかない」
手振り身振りでエドリックの身長を伝えようとする少年にルシアンは微笑んで、ポンと肩を叩く。
「もちろんだ。ほかにも子供がいれば、みんな連れてきなさい」
――エドリック。
朝から、エドリックは給仕の準備として、風呂だの着替えだのと早速呼び出された。なんと言って送り出すべきか分からず、少年はただ、「気をつけて」としか言えなかったのだ。
「頑張ってきます」と言ったエドリックの笑顔はいつにもまして眩しかった。
どうか、無事にすべてが終わりますように。
ルシアンはその後どこに連れていってくれるのか、この屋敷から離れられるかもしれないということよりも、今はただエドリックが心配で仕方がない。
一人だけ安全な場所に隠れて待つなんて考えられない。騒がしくなったりしたら、とりあえずエドリックを連れて森へ逃げよう。きっとその時は、誰も自分たちを気にするほど余裕はない。
足の早さと身体の丈夫さに、少年は少し自信がある。おんぶしても抱えても必ずエドリックを一緒に連れていく。
頭の中で予行演習をしている間に、晩餐会の準備がどんどん進行していく。賓客も到着し始めた。貴族の友人に、奥様側の親戚――よく招かれた顔ぶれである。
その絵に描いたような高貴な貴族たちの中で、イグナシオが座っているのを想像するとやはり違和感がある。
そもそも、なんのための晩餐会なのか。
今までイグナシオが来訪するとき、旦那様の書斎で話すことがほとんどだった。使用人たちを馬車に乗せていく時だって同じである。
だとすると、今日はいつもの面会ではないのか。何か特別なことでもあるのだろうか。
「ほんと、なんのお祝いごとでしょうね」
小声で耳打ちする若い侍女ふたりの会話が耳に入る。
誰もが不思議に思っているようだ。誰かの誕生日祝いとすれば、そのための贈り物や特別な焼き菓子、花の飾り付けなどが用意されるはずだが、それらも見当たらない。
心の奥で何か不吉な兆しが囁いている。
潜在意識の中で、今まで入手した情報が何かひとつの推理を語ろうとしているが、結局言語化にできないまま、ただ心の中にモヤモヤとした不安が残る。
「魔法使いのイグナシオ様がお見えになる」
到着を知らせる執事の声が少年の不安をさらに深めた。
イグナシオは、貴族ほどではもちろんないが、ゴミを燃やしたり結界を手入れしてくれたりするほかの魔法使いとは一線を画すような扱いを受けている。
最初は不思議だったか、ルシアンの話を聞いてようやく納得した。旦那様にとって、共同経営者・協力者に近い存在なのだろう。
――ルシアンさん、早くきてほしい。
屋敷の扉が開く。姿を見るだけで寒気がする、黒ずくめの若い魔法使いが入ってくる。周囲が一気に冷え込んだように、空気が凍りついた。
相変わらず青白くて、不健康そうな顔色である。ただ、気のせいかいつもより表情が生き生きとしているようで、目にも妙に生気を感じる。
少年は頭を下げた。今は、その目を見たくないし、見られたくなかった。目の前を通り過ぎていくのを感じ、少年は少しほっとした。
顔を上げると、食事が始まる前に珈琲※などを飲みながら歓談するための社交室の扉の前に、イグナシオが使用人の一人と何かが話していた。黒髪のヨハン、という雑用担当である。
そして、何か布で包まれたものを、イグナシオが手渡しすると、ヨハンは頭を下げてそれを持って調理場へと向かった。
「すまん、ちょっと馬の世話手伝って。」
気になって調理場について行こうとすると、馬小屋を担当する使用人に呼び止められた。賓客は全員馬車で来るので、大量の馬の世話に手を焼かれているという。
馬小屋では、何匹も立派な馬車馬が休んでいる。それぞれの馬車の御者は表側に軽食を取りながら雑談している。
刷毛で汚れを落とし、綺麗な水と干し草をあげると、ひと仕事終えた馬たちは嬉しそうに鼻を鳴らす。
星のようなたてがみを持つ馬はやはり一匹もいなかった。昨日思う存分に撫でた利口な馬のことを思い出す。
――ラピス。君の主人はもう来ているのかな。
時間の経過とともに、胸のざわめきはますます強くなった。
屋敷のほうは、一向に騒がしくならない。ということは、ルシアンはまだ来ていないのか。
別の用事でもできたのだろうか。ルシアンは国からの依頼を主にこなすと説明してくれたので、もしかしてイグナシオよりも緊急な任務が入って来られなくなったのかもしれない。
だとすると、エドリックのほうは無事なのか…考えれば考えるほど、冷静に居られなくなる。
「すみません、ちょっとお腹が…」
強引な言い訳を作り、少年は我慢できず、馬小屋から逃げ出した。途中で使用人の部屋を通り過ぎると、笑い声が聞こえる。覗くと、使用人たちが各自くつろいでいた。
「あの、晩餐会は終わったんですか。」
貴族の食事会は数時間にも渡って行われるのが一般的で、その間、執事から何度も何度も葡萄酒を持ってこいだの、肉が足りないだのとこき使われ、一晩中慌ただしくなる。
なのに、今日は大半な使用人が暇そうに休んでいる。
「それが、今日は全然呼ばれないんです。調理場に二人だけ控えておいて、他の人はもう休むことにした。」
――また、いつもと違うことが起こっている。
不安が更に膨れ上がった。
少年は調理場に入った。料理人とその助手はすることなさそうな様子で、薪が燃えているのをぼんやりと眺めている。その横には、いつ呼ばれてもすぐ出せるよう、完成した料理と予備の食材が大量積み上げられていた。
その量から察するに、料理も最初に出されてから一度もおかわりをされていないようだ。盛大に用意された割に、食事がほぼ手付かずなのか。
「あの…なにか手伝うことありますか。」
少年は確かめようと声をかけた。
「ん。ないよ。今日は珍しく暇をしてる。まったく、こんだけ用意しなくてもよかった」
料理人の中年男性は、自分の渾身の料理が召し上がられていないことにひどく不満しているようだ。
そして、再三に出てくる「珍しい」という言葉に胸がざわめく。
「お食事やワインのおかわりもなかったんですか」
「そうだな。というか誰一人食堂から出てこなかった。おかげさまで、ちょっと休めるんだがな」
イグナシオが使用人に手渡した布の包みのことを思い出した。
「あの、今日いらした魔法使いの方から調理場に何かもらわなかったんですか」
「なんだそれ、おれは知らねぇ」料理人が首を横に振ったが、その隣にいる助手は何かを思い出した。
「ああ、ヨハンが持ってきた乾杯の葡萄酒のことかな。魔法使い様から、今日はお祝いごとがあるから、とびっきりの葡萄酒を用意してくだざって、お食事の前に乾杯したいと言われたみたいだ。」
少年は肝を冷やした。
「その葡萄酒は…」
「もちろん、食事が始まる前に食堂にいる給仕のほうに渡したよ。ご丁寧にも、葡萄酒が苦手な方のために、高級そうな果実水も用意してくださったよ」
用意周到だ。
まるで、そこにいる全員に欠かさず飲んで欲しいかのように…
飲んで欲しい。
少年ははっとした。
全ての違和感がひとつの答えに繋がった。しかし、その繋がった先にあるものは、さらなる恐怖でしかない。
――イグナシオにとってのお祝いごと。
――みんなに飲んで欲しいもの。
無意識に食堂の方へ歩き出す。
華美な食堂にはもちろん華美な扉。目の前にあるのは、重厚な木材で作られた食堂の扉である。黄金の取っ手には旦那様の家紋が精巧に彫刻されている。
いつもなら、歓談する声が扉越しに聞こえるが、今日はまるでその中に誰もいないかのように静かである。
誰に見られても構わない。少年は耳を扉に当ててみた。
かすかに、人の話し声と、皿やグラスを取るような物音がする。
完全に無音というわけではないが、明らかに静かすぎる。十人以上の客に、旦那様のご家族がいるはずだ。エドリックを含む給仕のための執事や侍女まで入れると二十人近くが中に。
それだけの人が食事をしたり、給仕するために歩いたり葡萄酒を注いだりしているとは、全く思えないほどの静かさである。
中はどうなっているのか。何より、エドリックは無事なのか。
知りたい、見たい。
おそるおそる取っ手には手を伸ばしてみるが、もう怒られても殴られてもエドリックの無事さえ確認出来ればそれでいいんだ。
突然、後ろから肩に手が置かれた。少年は叫びそうになったが、すぐに聞き覚えのある優しい声が耳に届いた。
「私だ。驚かせてすまない。」
ルシアンだった。
まったく足音が聞こえなかったが、振り向くと、剣を持った美青年の姿があり、少年はほっと胸を撫で下ろした。廊下を見渡すと全ての窓は閉じたままである。ルシアンは一体どうやって入ってきたのだろう。
「ルシアンさん…」
「安全な場所に隠れて欲しいと言ったが、呼び出されたのか」
責めるというより、心配している温かい眼差しに、少年は安心と不安に同時に押しつぶされそうになった。
「僕、あの…」
「いや、話は後で聞く。イグナシオがもう到着しているようだな、今は食事中か。私は今から食堂に入るのだが、誰もいない今のうちに君はエドリックといった男の子を連れて森の方へ行って私を待ってくれ。」
「エドリックは、中にいるのです」
「そうか…では君だけ行ってくれ。その男の子のことを私に任せて。」
「ルシアンさん…僕、嫌な予感がするんです。」
「どうしたの。」
混乱、不安、恐怖が入り混じり、言葉が上手く紡げない。
葡萄酒のことをルシアンに説明しようとした次の瞬間、食堂の重厚な扉が音もなく内側から開いた。
そこには例の意地悪な初老の執事が立っている。ただ、普段と様子がまるで違う。
まず、目の焦点が合っていない。目の前にいるにもかかわらず、少年とルシアンをまるで見えていないようだ。いつも冷酷さを感じさせる目に、虚無が広がっていた。
まぶた、肩、指先――全身が小刻みに震え、機械的なきごちなさを感じさせる。
操り人形。
ルシアンから聞かされた薬のことを思い出して、少年はすぐさまその言葉を思いつく。