14 予告
ぐつぐつと、大きな鉄鍋から湯気が立ち上り、野菜や肉、香草で煮込まれたスープから食欲をそそる香りが漂う。
明け方近く、袋いっぱいの栗を持って帰る少年を、使用人たちは驚いて出迎えた。その後、確認しに来た執事も、幽霊でも見たかのように驚愕していた。その流れで、今日は料理人の仕事を手伝うことになった。
調理場の火を、少年はぼんやりと眺める。ほぼ一睡もしなかったのに、ルシアンからもらった飲料のおかげで、さほど疲れも空腹も感じない気がする。
今度また会えたら、中身はなんだと聞いてみたい。ルシアンのことを思うと、ほんのり温かさを感じたのと、森の中での会話が脳裏をよぎり、胸がざわめく。
――月光のルシアン。あの冷ややかで美しい姿を忘れまいと、少年はこっそりとあだ名をつけた。同時に、ルシアンとの会話が脳裏に浮かんだ。
「その日、私はイグナシオの命を奪いに来る。」
――命を奪う。つまり、殺す?聞き慣れていない言葉を思わず心の中で変換した。
イグナシオが行ってきたことに対して恐怖と嫌悪しかない。また、話の流れから察するに、ルシアンはおそらく国家直属に近しい階級の冒険者であって、その極悪非道なる魔法使いを捕えにくるのも当然だろう。その過程でもし反抗に遭えば、身を守るためやむを得ない戦闘が始まり、結果として命を奪うこともあるだろう。
――その流れなら、仕方ないと思えるのに。
成り行きではなく、こう簡潔明瞭に言われるとまったく違う印象を抱えてしまう。もちろん、結果的には同じだが、実際に耳にすると、その言葉が持つ氷のような冷たさが肝を冷やす。
イグナシオに連れて行かれて二度と戻らない人達。熱を出て、うなされて、冷たくなっていくエリー。今はみんな、同じ場所に行き着いたと思っている。呼吸が止まった。命を失った。死。少年にとっては馴染みがないものではない。
ただ、それを「殺す」というあまりにも直接的な概念と結びつけると、一重の透明な壁のようなものが感じられる。
その不安を払拭しようとするのかのように、ルシアンは説明を続けた。
「実のところ、イグナシオの余罪がまだあった。」
ルシアンによると、彼の周りに未解決の事件、不審な急死は掘れば掘るほど出てくるという。
「最初の実験台にされたのは、魔法学院時期の同級生だったようだ。食後の珈琲を飲んだあと、意識朦朧となって亡くなったという。薬草や調合室の材料庫からは、貴重で効き目の強いものが盗まれた。しかし、亡くなった同級生は成績が良く友達も多かったので、憎まれるような動機が全く見出されなかった。そのため、全在校生や関係者が容疑者となりうるので調査は難航した。薬学が好きというだけで、イグナシオが容疑者として疑われることもなく、決定的な証拠が出ないまま事件は風化してしまった。」
数年前のことにもかかわらず、ルシアンはまるで目の前に報告書があるかのように詳細に語り始めた。
「この事件を追えたのは、ここ最近の事件によってイグナシオの名前が浮かび上がったからだ。彼を中心にどんどん遡っていくと、共通点が見えてきて、すべてが一つの輪のようにつながった。幸い、彼がここ最近薬の調合に使った材料がかなり独特で、そのおかげで多くの物的証拠も集めることができた。」
ルシアンは少年の表情をじっと見つめ、少しの間を置いてから再び口を開いた。
「君の言いたいこともわかる。生け捕りにすれば調査もできるだろうに、それを選ばずに殺してしまうのは果たして正解か。実際のところ、国から直に彼の抹殺令が下りた。あまりにも多くの無実の命を背負っているから、泳がせたりして逃がしたり、生け捕りしようとする過程で一般人を巻き込んでしまったら…と、偉い方たちはさっさと処刑をご所望のようだ。」
ルシアンは苦笑いした。
「私も最初は捕らえて尋問したかった。だが、彼のことを調べれば調べるほど、大人しく生け捕りされるとは思えなくなってきた。うら若い少年少女を平気で薬漬けにして、用済みになれば売り払って次の標的を物色するような奴だ。要するに、自分の歪んだ夢を叶えるためになんだってできる男だ。生け捕りもひとつの選択肢だったが、拷問したところで彼は我々の言いなりになるかどうかが疑わしい。それこそ、逃げるためにはどんなことだってやりかねない危険な男だ。どんな代償を払うだって。」
ルシアンは一息つき、眼差しがさらに鋭くなった。
そういえば、ルシアンはなぜそこまで詳しく説明してくれているのか、少年はふと気になった。
――殺さなくとも。
そのような自分の動揺に気づいてくれたのに違いない。初対面の自分。計画に何も影響がない自分。
ただ、目の前に不安そうな困惑そうな子供がいるから、何かをしてあげたいだけ。
繊細そうで無表情な美青年だが、その湖のような冷やかさの奥にある純粋さと善良さが、意外にも少年には透き通るように見えた。
「私のやり方も屋敷の人を多少巻き込む形になるが、許して欲しい。その理由を君に説明しなければならない。」
できればそうしたくなかった、とでも言いたげにルシアンは心苦しそうに端正な顔をしかめる。
「イグナシオは自分の身の安全を守ることに余念がなく、住処もいまだに見つかってない。移動中に狙おうとも考えたが、馬車に自分に害意のある人に見つけられないように厳重な保護を施している。」
ただの用心深さか、いつかしっぽが捕まえられるという恐怖があの陰険な男にもあるのか。あの感情が欠如して、底なし沼のような瞳が恐怖の色に染まるのをどうしても想像できない。
「ということは、旦那様に会いにくるときは逆にいつも無防備になるんですか。」
少年は理解しようと口に出して整理してみる。ルシアン励ますように大きく頷いた。
「その通りだ。貴族の屋敷の結界というのは魔物避けの効果があると一般的に知られているが、実のところ外からの負の感情にも敏感に反映するように設計されている。嫉妬、欺き、憎悪…など。王宮の結界になると反撃効果まで組み込まれたが、貴族の屋敷なら察知するのに特化するものがほとんどだ。」
なるほど。結界を大掛かりに設計するより、いち早く察知すれば屋敷に常駐する護衛に外敵退治を任せることができるのだ。旦那様も護衛として常に剣士と魔法使いを一人ずつ連れている。非番の人にも屋敷に個室が用意されているのは、そうした非常事態に備えるためなのかもしれない。
「そういえば、旦那様のお屋敷に魔法使いが常駐していますが、結界を強化したりするのはできないですか?」少年は質問した瞬間、少し後悔した。本題とほぼ関係のない、ただの知識欲に過ぎなかったからだ。しかし、ルシアンは全く気にしていないようだった。
「ああ、魔法使いと言っても、攻撃、防御、結界、薬学と色々な専門分野がある。普通の魔法学校で2、3年勉強するだけなら、一つの分野を習得するのが精一杯だろう。」ルシアンは穏やかに答えた。
「教えてくださってありがとうございます。すみません…」少年は顔を赤らめて謝った。
「謝ることはない。『知りたい』というのは良いことだ。」ルシアンは優しく微笑み、話を続けた。
「魔法が使えない、武術の造詣もない普通の人と魔法使いでは、大人と赤子ほどの力の差がある。貴族様は何よりも自分の命が大事なので、その気になれば簡単に自分を殺せる魔法使いには、ある程度丸腰になってもらわないと信頼関係が築けない。イグナシオも例外ではない。結界に立ち入ったその瞬間から、追跡を防ぐ魔法や身を隠す魔法を使うことは領主への敵意とみなされる。」
「でもルシアンさんは大丈夫なのですか?屋敷に入る時にバレないですか?」
ルシアンは優雅に頷いた。
「問題ない。実際、今でも結界の中にいるんだが、バレたりしていないだろう?」
言われてみれば、この森自体がギリギリ結界の内側だと思い出した。
「壊してしまうと魔物まで入ってきて普通の人の身が危ないので、私はあくまでも、『用があるのはイグナシオだけで領主に害意がない』と、結界に言い聞かせただけだ。」
「言い聞かせた…??」
結界って、会話できるものだっけ?少年の困惑を察知して、ルシアンは冗談めかすように人差し指を唇の前に立てた。
「やり方は、またいつか。」
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予定通り、あと2話で第一章が終わると思いますが、
字数がやばそう...
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