第3話
お兄さんからのメッセージに逆らうこともできず、琴梨と春花は言われた通りに牛乳とはちみつを買って、春花の家へと向かった。
けれど、本音を言うと、ものすごく行きたくない。
だって、お兄さんには勢いで「大嫌い」なんて言ってしまったし。
今更どんな顔をして会えばいいというのだろう。
情けなく眉を下げたまま、琴梨はとぼとぼと歩く。
そんな琴梨の肩を春花がぽんと叩いた。
「大丈夫だよ、ことりちゃん。兄ちゃんは昔からことりちゃんにだけは特別甘かったもん。鞄だってすぐに返してもらえるって」
「……うん」
何事もなく、穏便に全てが終わりますように。
琴梨は切実にそう願っていたのだが、玄関の扉が開いた瞬間、その考えは甘かったと絶望してしまった。
扉の向こうで待っていたのは、あの日お兄さんの隣にいた美少女だったからだ。
「おかえり、春花ちゃん。それに……ことりちゃん?」
美少女はそう言って、可愛らしく小首を傾げた。
これは文句なく可愛い。
琴梨は涙目になって、視線を落とす。
お兄さんの彼女に、自分の名前を知られているのが嫌だった。
こんなに可愛らしい女性に、自分の名前を呼ばれるのが惨めだった。
胸が苦しい。心が痛い。
イラストが描けなくなった時よりも、今の方がずっと辛い。
じわりと視界がにじんで、鼻の奥がツンとしてきた、その時。
春花がぽんと琴梨の肩を叩いて、衝撃発言をした。
「あ、紹介するね。この人は天宮恭平先輩。兄ちゃんの親友で、私の彼氏」
「……へっ?」
耳がおかしくなったのだろうか。それとも、春花がおかしくなってしまったのか。
思わず涙もぴたりと止まり、ぽかんと口を開けてしまう。
「彼氏? 彼女じゃなくて?」
「ああ、女装してるから紛らわしいよね。恭平先輩がうちに来る時には、女装をしないといけないってルールがあるからさあ」
なんだ、その謎ルール。
「美少女に見えるけど、恭平先輩は本当に男の人で、私の彼氏だよ!」
本当に彼氏なのか。まあ、よく見たら喉仏とかあるし、確かに男の人みたいだけれども。
「まあ、細かいことは気にしなくていいから。さあ、あがって」
いや、細かいことか、これ。
いろいろと突っ込みたくなったが、心は正直なもので、なんだかすごくほっとしてしまう。
よかった、この人はお兄さんの彼女じゃないんだ。
琴梨は促されるまま、とりあえず家の中に入った。リビングの扉を開けると、真っ先にお兄さんの姿が目に飛び込んでくる。
お兄さんは椅子に座り、窓の外を眺めていた。すぐそばのテーブルの上には、あの日琴梨が落とした鞄が置いてある。
テーブルの上には鞄のほかにマグカップも置いてあった。そのマグカップの中身に気付いて、琴梨は思わず目を丸くしてしまう。
「あ、あの、一之瀬先輩……? なんで、はちみつミルクを……」
恐る恐るお兄さんに声をかけてみたけれど、お兄さんはこちらを見てはくれなかった。
窓の外に視線を向けたまま、ぼそぼそと言う。
「無理に話しかけてくれなくてもいいよ。ことりちゃんは俺のことが嫌いなんだろ」
「え……」
お兄さんはテーブルの上の鞄を掴むと、琴梨の方を見ようともせずに突き出してきた。その横顔はまるですねた子供みたいだ。
琴梨は慌ててぶんぶんと首を振る。
「き、嫌いなんかじゃないです! あ、あれは、一之瀬先輩に彼女がいるって思ったから、つい口から出ちゃっただけで!」
「彼女? そんなの俺にはいないけど?」
「それは、あの、私が春花ちゃんの彼氏さんを見て、勝手に勘違いしちゃってたみたいで……」
自分で言っておきながら、なんて勘違いだと突っ込みたくなる。でも、それが真実なのだからしかたない。
お兄さんは「そういうことか」とあっさり納得した後、はあと深いため息をついた。
「なんだ、俺、本気でことりちゃんに嫌われたと思ってた……」
お兄さんは鞄を下ろし、飲みかけのはちみつミルクに目を遣りながら、続ける。
「久しぶりにことりちゃんと会ってから、俺、ことりちゃんのことばかり考えてた。前から可愛いと思ってたけど、今はもっと可愛くなってるし。それに、目をキラキラさせてイラストを描くことりちゃんの笑顔が、なんか忘れられなくて」
お兄さんが顔を上げ、まっすぐに琴梨を見つめてきた。
「俺……俺は、ことりちゃんのことが好きだよ」
琴梨の心臓が、ばくんと大きく飛び跳ねた。一気に顔が熱くなる。
嘘、本当に? お兄さんは、琴梨のことが好き?
琴梨も、お兄さんと再会してから、お兄さんのことばかり気にしていた。
お兄さんに彼女がいると思ったら、心がすごく痛くなった。
それは、きっと――。
どくん、どくん、と心臓がうるさい。
「わ、私も……」
琴梨は「一之瀬先輩が好き」と言葉を続けようとして、こくりと喉を鳴らした。
違う。「一之瀬先輩」なんて他人行儀な呼び方、本当はしたくない。
前みたいに、ちゃんとお兄さんの名前を呼びたい。
「私も、幸太くんが好き!」
琴梨の告白に、お兄さん――幸太が大きく目を見開いた。
次の瞬間、彼の顔がぱっと赤く染まる。
「こ、ことりちゃん」
「あ……幸太くんって呼んだらダメ、ですか……?」
「いや、ダメじゃない! これからも、ずっとそう呼んでほしい……」
片手で口を覆いつつ、幸太が耳まで真っ赤にして言う。あまりに分かりやすい照れ方に、琴梨はついつい頬が緩んでしまった。
「幸太くん、大好き」
思わず零れた琴梨の言葉に、幸太が我慢できないとばかりに椅子から立ち上がった。
そして、あっという間に琴梨のそばまで来ると、ぎゅっと琴梨を抱き締めてくる。
「……なら、俺の彼女になってくれる?」
吐息が感じられるほどの距離。
大好きな人の腕の中で、琴梨はこくこくと何度も頷いた。
それから、ほんの少し勇気を出して、ぎゅっと彼の体にしがみつく。
幸太は一瞬息を止めた後、ふっと笑いを漏らした。
そのまま嬉しそうに笑いながら、ぽんぽんと琴梨の頭を優しく撫でてくれる。
本当に心の底から大好きなものは、どんなに時が経っても色あせない。
たとえしばらく離れていたとしても、触れればまた、その熱を思い出す。
イラストのことも、幸太のことも。
大好きだから、簡単に冷めたりなんかしないのだ。
琴梨は幸太にしがみついたまま、幸せいっぱいに微笑んだ。
窓の向こうで、柔らかな春の風が吹いている。
春はまだ、始まったばかりだった。
――そんな二人の様子を、春花とその彼氏・恭平は居心地悪そうにしながら見守っていた。
「兄ちゃんとことりちゃん、完全に二人の世界に入っちゃったよ……」
「うん。でも、よかったね。春花ちゃんはお兄ちゃんをとられて寂しいかもしれないけど」
「べっ、別に? 全然寂しくなんかないし」
ふん、と腕組みをした春花の顔を見て、恭平が笑った。
「春花ちゃん、はちみつミルク飲む?」
「……飲む!」
このお話は、これで完結です。
読んでくださってありがとうございました!
あ、このお話は『甘い言葉とはちみつミルク』というお話と繋がっています。
そちらは春花と恭平の恋のお話です。興味があれば、シリーズ「現実恋愛」のところか、下にあるバナーのところから読みにきてくださったら嬉しいです♪
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本当にありがとうございます!
温かく応援してくださったみなさまにも、幸せな春が訪れますように……♪