第2話
「えええー? ことりちゃんが描くイラスト、下手だとは思わないけどっ?」
琴梨の話を聞き終わった春花は腕組みをして唸っていたが、ふと思いついたようにテーブルの上にあったペンを手に取った。
そして、そのすぐそばにあったスケッチブックを開くと、真っ白な紙面にぐりぐりと絵を描きだす。
紙の上を滑るペン先の音。ペン独特のアルコールの匂い。
真っ白だった紙の上に、次々と黒い線が伸びていく。
「……俺も描く」
お兄さんが、絵を描き続ける春花のすぐそばに座り込んだ。
青いペンを持ち、春花のイラストの余白にぐりぐりと線を描き始める。
自由に伸びていく、黒と青の線。
こらえきれずに漏れる、兄妹の笑い声。
その様子を見ていると、なぜかは分からないけれど、琴梨の手もうずうずしてきた。
ペンを握るのも恐かったはずなのに。
何を描いていいのかも分からなかったはずなのに。
気付いたら、琴梨はぐっと身を乗り出していた。
「わ、私も一緒に描いてみたい……!」
こうして、三人で絵を描くことになったのだが。
みんなで合作したそのイラストは、それはもうひどい出来だった。
「ぷぷっ! 兄ちゃんの描いた謎の生命体、面白すぎる!」
「謎の生命体ってなんだよ。どう見ても立派なイケメンだろ……というか、春花の妖精ゴンザレスの方がありえない」
「ちょっ! これは、ことりちゃんが原因だからね! 私が描いたゴンザレスの顔に、無駄にスタイルのいい体をつけたの、ことりちゃんだもん! ……って、ことりちゃん笑いすぎだし!」
兄妹が言い合っているそばで、琴梨は息が苦しくなるくらい笑っていた。
人物の全身の比率はでたらめ。骨や筋肉の構造も全く考えられていない。背景のパースだって適当で、遠近感がむちゃくちゃだ。
本当にどう見てもひどい仕上がりなのに、琴梨はこのイラストが好きだと思った。
イラストなんて、描くのも見るのも辛いと思っていたのに。
「……ありがとう」
琴梨が小さな声でそう呟くと、春花が微笑みながら頷いてくれた。
お兄さんも優しい眼差しで琴梨のことを見つめ、ふわりと笑ってくれる。
「ことりちゃん。俺はことりちゃんの描くイラスト、昔から好きだったよ。上手とか下手とか関係なく、楽しいって気持ちが伝わってくる絵だったから。だから、またイラストを描いたら見せに来て。春花も俺も待ってるからさ」
「はい」
こくりと頷いた琴梨の頭を、お兄さんが優しくぽんぽんと撫でてくれる。
それは、小学生の頃に何度もしてもらった「よくできました」の合図だった。
数日後。
高校生になってから、初めて迎える休日がやって来た。
「やっと、完成した……!」
琴梨はスケッチブックに描いたイラストを眺め、ふうと息を吐いた。
春花の家で久しぶりにイラストを描く楽しさを思い出して以来、自宅に帰ってからも楽しんでイラストを描けるようになったのだ。
これも、春花とお兄さんのおかげ――。
琴梨は椅子から立ち上がり、自室の窓から外を見る。
休日の昼下がり、春の空はどこまでも明るく晴れ渡っていた。何気なく春花の家がある方向へと目を遣りかけて、慌てて視線を逸らす。
「またすぐ学校で春花ちゃんには会えるし、焦らなくてもいいよね……」
と、独りごとを言いつつも、そっと自分の頭に手をやってしまう。
このイラストを見せに行けば、お兄さんがまた「よくできました」と褒めてくれるかもしれない。
よし、と気合いを入れて、琴梨は胸のあたりまで伸びている髪をきゅっと二つに結んだ。お気に入りの桜色のカーディガンを羽織り、鏡の前でおかしなところがないかを念入りにチェックする。
頬がほんのり赤く染まっていたけれど、それは見なかったことにして、イラストを描いたスケッチブックを鞄に詰め込んだ。
春花の家までは歩いて十分。走れば五分だ。
家を出た後で、春花に連絡を入れてからにすれば良かったと気付いたけれど、まあいいかとそのまま走る。頬に当たる風は温かく、見慣れた街並みはいつもより眩しかった。
馴染みのある曲がり角を曲がると、すぐに春花の家が見えてくる。
「あ……!」
玄関のところに、背の高い青年の姿があった。
間違いない、あれはお兄さんだ。
琴梨はぱっと顔を輝かせかけた。
けれども。
お兄さんは一人ではなかった。すぐそばに、誰かいる。
複雑に編み込まれた栗色の髪。パステルカラーのロリータファッション。
そんな華やかな格好が似合う人なんていないだろうと思いつつも、その人の顔がちらりと見えた瞬間、琴梨は息を呑んだ。
ものすごい美少女だった。肌は白くてつややかだし、瞳も大きくて可愛らしい。
その美少女とお兄さんは、仲良く楽しそうに笑い合っている。
「嘘……」
肩にかけていた鞄が、大きな音を立てて地面に落ちた。その音がきっかけで、お兄さんと美少女がこちらを振り返る。
お兄さんが琴梨に気が付いて、目を丸くした。
「ことりちゃん?」
お兄さんの声が耳に届いた瞬間、琴梨は鞄を拾うこともせず全速力で逃げだした。
なぜかよく分からないけれど、胸の奥がぎゅっとなって、喉の奥が詰まったような感じになる。
今来たばかりの道を引き返し、あと少しで家に着くというところで、琴梨の細い腕が大きな手に捕まった。
「ことりちゃん!」
息を切らしたお兄さんが、琴梨の腕を掴んだまま名前を呼んでくる。
なんで、追いかけてくるの。
あんなに可愛い彼女がいるのに、どうして。
琴梨は思いきり、お兄さんの手を振り払った。
「嫌い! こっ……い、一之瀬先輩なんて、大嫌いです!」
一瞬、お兄さんのことを昔呼んでいたように下の名前で呼んでしまいそうになり、琴梨は慌てて言い直した。
お兄さんは呆然とした顔をして、琴梨を見つめてくる。
琴梨は涙目でお兄さんを見返した後、くるりと踵を返して自分の家に駆け込んだ。
玄関の扉を、わざと大きな音を立てて閉める。
最悪だ。もう、本当に何をやっているんだろう。
お兄さんが美少女と付き合っていたって、そんなの琴梨には全く関係ないのに。
関係ない、はずなのに。
琴梨は両手で顔を覆うと、ずるずるとその場にしゃがみこんだ。
その二日後。放課後の教室。
口をへの字に曲げた春花が、帰り支度をしている琴梨のところにやって来た。
「ことりちゃん、大変。うちの兄ちゃんが乱心してる」
「……え?」
「いや、一昨日の夜から様子はおかしかったんだよ。何があったか知らないけどさ、はちみつミルクをがばがば飲んでたし、めっちゃ顔は恐いし、暗いし! しかも、今さっき届いたメッセージがあるんだけど、見てよこれ!」
ずいっと目の前に春花のスマホが差し出される。琴梨はつい目を逸らしたくなったのだが、春花はそれを許してくれなかった。ぐいぐいとスマホを琴梨の額に押しつけてくる。
地味に痛い。
「春花ちゃん、これじゃ見えないから!」
「ん? ああ、そうだね、ごめん」
春花はへらっと笑うと、改めてスマホの画面を見せてきた。
そこに表示されていたのは。
――ことりちゃんの鞄は預かった。返してほしくば、牛乳とはちみつを急いで買ってこい。
まるで誘拐犯のようなメッセージだった。