第1話
春の日差しが柔らかく差し込むリビングで、琴梨は今、半泣きで逃げ回っていた。
追いかけてくるのは、クラスメイトの少女・春花だ。明るく元気な春花は真新しい制服のスカートをひらりと翻し、琴梨を捕まえようとしてくる。
「待て待て、ことりちゃん!」
「きゃああ!」
琴梨はぴょこんと跳ねて春花の手から逃れると、リビングの扉に向かって走る。
けれど、ドアノブを握ろうとしたその時、先にその扉が開いてしまった。
予想もしていなかったことに琴梨の体がぐらつき、転びそうになる。
「ひゃああ!」
「……っと、危ない! 大丈夫か?」
扉を開けたその人が、転びそうになった琴梨を抱き留めてくれた。
低くて耳に心地よい声。しっかりとした力強い腕。
琴梨は涙目のまま、恐る恐る助けてくれた人を見上げた。
少し気の強そうな顔立ちをした青年と、間近でぱちりと目が合う。
青年は琴梨を見て驚いたように目を瞠ると、少し首を傾げながら呟いた。
「もしかして、ことりちゃん?」
「ふへ?」
「ああ、やっぱりことりちゃんだ。久しぶり、元気だった?」
青年にふわりと笑いかけられて、琴梨の心臓がどきりと大きく跳ねた。同時にぶわっと顔が熱くなり、ふにゃふにゃと足から力が抜ける。
崩れ落ちそうになった琴梨を、青年が慌てて支え直してくれた。
青年にぎゅっと抱き締められる形になり、琴梨は真っ赤になりつつ、心の中で絶叫した。
なんで、どうして、こんなことになってるの、と。
さて、本当になぜこんなことになってしまったのか。
すべては今日、高校の入学式で春花と再会したところから始まった。
新しい学校、新しい教室、新しいクラスメイト。
中学の時の友達とクラスが離れてしまった琴梨は、ひとり心細い思いをしていた。
けれど、そんな琴梨に春花が声をかけてきてくれたのだ。
「あれ、ことりちゃん? 久しぶり。覚えてるかな、私のこと」
「あ……うん。一之瀬春花ちゃん、だよね」
「そうそう! わあ、ことりちゃんが同じクラスで安心したよ!」
春花は、小学生の頃に仲が良かった友達だ。中学でクラスが離れてからは、なんとなく話さなくなっていたけれど、別に仲が悪くなったというわけでもない。
なので、琴梨と春花はすぐに打ち解けた。そうして話をするうちに、春花の家に遊びに行くことになったのだ。
約三年ぶりに訪れる春花の家。よく一緒に遊んだリビングもあの頃のままで、琴梨の胸は懐かしさでいっぱいになった。
けれど、春花の何気ない提案で、この和やかな状況は一変する。
「そうだ、小学生の頃みたいに、また一緒にイラストでも描こうよ!」
それは、琴梨が今一番避けていることだった。琴梨はふるふると首を振り、さりげなくお絵かき以外のことをしようと誘導してみたのだが、春花は納得してくれなかった。
「えええ、なんで? ことりちゃん、イラスト描くの好きでしょ? 遠慮せずに描いてよ!」
そう言ってペンを差し出してくるものだから、琴梨は半泣きで逃げ出したのだ。
そして、冒頭の展開になってしまったのである。
青年は琴梨を抱き留めた後、二人の少女をソファに並んで座らせ、自分はその向かい側の椅子に腰掛けて、これまでの話を聞いた。
「なるほど、それは春花が悪い。ことりちゃんに謝れ」
事情を知った青年は、そう言って春花を諫めた。
けれど、春花はぷうと頬を膨らませる。
「でもさ、兄ちゃん」
「口答えしない。謝らないなら、今度すき焼きが出た時に、お前の分の肉を俺が全部食うからな」
「あああ! ごめんなさい、ごめんなさい!」
そう、この青年は春花の兄だ。
昔からこの兄妹は、本当は仲が良いくせに、こうしてよくケンカをしていた。
二人とも中身は相変わらずのようで、琴梨はくすりと笑ってしまう。
けれど、この二人、外見はけっこう変わっていた。
春花は男勝りな感じだったのに、かなり女の子らしくなった気がする。
お兄さんもあの頃と比べると体つきもしっかりしているし、ずいぶん大人っぽくなっていた。成績優秀な人しか入れないと評判の男子高の制服もよく似合っていて、見ているとなんだか胸がドキドキしてくる。
なんとなく恥ずかしくなってうつむくと、春花が琴梨の顔を覗き込んできた。
「ことりちゃん、どうしたの? え、そんなにイラスト描くの嫌だった?」
「あ、えっと……」
どう答えたらいいか迷って、琴梨は口ごもってしまう。
お兄さんにドキドキしていることは置いておくとしても、イラストに関することは話しておいた方がいいだろう。でも、どう話せばいいのか。
琴梨が悩んでいると、不意にお兄さんが椅子から立ち上がり、リビングに隣接しているキッチンの方へと行ってしまった。
何も言えない琴梨に呆れたのだろうか。
少し落ち込んだが、しばらくして戻ってきたお兄さんの手にマグカップがあるのを見て、そうではないと気付く。
お兄さんは琴梨にマグカップを渡しながら、にこりと微笑んでくれる。
「ことりちゃんは忘れてるかもしれないけど。うちは元気がないとき、いつもこれを飲むんだ」
「……覚えてます。はちみつミルク、ですよね」
琴梨の答えに、お兄さんはうんとひとつ頷いた。お兄さんの大きな手から受け取ったマグカップには、ほんのり温かいはちみつミルクが入っている。
そっと口をつけると、ふわりと優しい味が口の中に広がった。
ああ、この味だ、と琴梨はほっと息を吐く。
小学生の頃も、お兄さんはいつもこんな風に琴梨に優しくしてくれていた。そんなお兄さんのことがひそかに大好きだったから、この味は初恋の味として琴梨の記憶に刻み込まれている。
あの頃は勇気がなくて、告白もできないまま恋を諦めてしまったけれど。
まあ、それも過去の話だ。
そんなことより、今はイラストの話をしないと。
琴梨は両手でマグカップを包み込み、その温かさを感じながらゆっくりと口を開いた。
「イラストを描くのが嫌、というよりも……恐いの」
「恐い?」
「うん。私、中学の時に気付いちゃったの。世の中には私よりもイラストが上手な人はいっぱいいるんだって。私は、すごく下手なんだって」
琴梨は円を描くように揺れるはちみつミルクの水面を見つめながら、力なく笑った。
小学生の頃は、イラストを描くのが本当に好きだった。でも、中学生になり、部活でイラストを描くようになると状況は変わった。
同じ年齢の子や後輩が自分よりもずっと上手なイラストを描くところを、間近で見てしまったから。
自分は下手だと自覚すると、イラストを描くのが恐くなった。
下手なイラストしか描けない自分が恥ずかしくて、もう何を描いていいのか分からなくなった。
「だから、今の私はイラストが描けないの。ごめんね、春花ちゃん」