13 指揮者
――温い光と、耳障りな音。スポットライトの向こうで弾かれる下劣な音に、私は人間らしく嘆息をした。何故、この下賤なる種族共は己が身を叩くだけの不作法な音を賞賛表現として用いたがるのか。私にとって、どうにもこれだけは理解し得ぬことであるようだった。
だが、嗚呼。この者らが奏でる音だけは、なんと素晴らしいものなのだろうか。此奴らを使えば、きっとかの無限の核におわす王の狂おしき無聊すらも慰められるに違いない。
品性無き太鼓にも、単調なる笛の音にも、遠く及ばぬ。私こそが、至上たる歓喜を。
私こそが!
私こそが、神の唯一たる歓喜を!
――鳴り響いていた拍手も止み、世界に静寂が訪れる。一旦舞台から下がっていた指揮者が、アンコールに応えて戻ってきた。
細長いシルエットだった。燕尾服に身を包んだ背筋の伸びた男は、迷いのない足取りで指揮台へと上がる。
……違う。
楽団員の全ての目が、耳が、指揮者に釘付けになった。
……違う。誰だ。
誰だ、貴様は。
貴様は、“彼”ではない。
「……なるほど、同じ動きをするか。景清君の報告してくれた通りだな」
指揮台に立つ男は、切長の目を妖艶に細めた。
「何、案ずることは無い。私は中伴氏、並びに貴方との約束通り、この演奏を完奏させに来ただけだよ。その為の用意もまあ……してきたつもりだ」
「……」
「さあ、そろそろお客様も我らの演奏を待ち兼ねている。始めようか、皆の衆――いや、」
殺意にも似た視線を一身に浴びる男――曽根崎は、凛とした仕草で指揮棒を構えた。
「古和イオよ」
そして脳をも揺さぶるおぞましき天才の曲が、曽根崎の一振りで放たれた。
コンサートの始まる三時間前。会場の裏口から入った曽根崎は、中伴のいる楽屋を訪れていた。
「ああ曽根崎さん、聞いてください!」
だが一歩入るなり、中伴が曽根崎の元へと駆け寄ってきた。――まるで少年のように、声を弾ませて。
「一体どうしました?」
「お、音楽が消えたんです! ずっと耳元で聞こえていたあの音楽が、聞こえなくなったんですよ! 元に戻ったんです!」
「……何?」
晴れ晴れとした笑顔を見せる中伴だったが、対照的に曽根崎は眉をひそめた。
「それはつまり、楽団に奪われた耳が戻ってきたということですか?」
「そうです! ほら見てください! アイツらに奪われた私の耳は、今ちゃんと私の顔の横についてます! こんなに嬉しいことはありません!」
「……」
「良かった……例のおぞましい絶叫だって、もう聞こえないんです! 私は救われたんだ! ねぇ曽根崎さん、そうなんでしょう!?」
「中伴様」
しかし彼の質問には答えず、曽根崎は早口で問う。
「今一度改めて伺います。以前貴方は、本音では『The Deep Dark』を世に出すべきではないと仰っていた。未だ、それは変わりませんか?」
「……え、な、なんですかいきなり」
「どうなんです」
途端に怯えた目になり、中伴は辺りを見回す。が、曽根崎ははっきりと首を横に振った。
「ご安心ください、楽団員は今この近くにおりません。時間もありませんし、簡潔かつ正直に貴方の本音を教えていただければと」
「そ、そりゃ、本音は……ど、どうかと思いますよ。あ、あの曲を聴かせることでまた恐ろしいことが起こるのであれば、え、演奏すべきではない。で、ですが、古和イオの楽曲自体は……紛れもなく革新的で、素晴らしいものです。よ、世に出す、べきだ。だ、だから、事前のお約束通り曽根崎さんが対処してくれるなら……わ、私自身は、指揮台に立つことを拒むつもりはありません」
「……そうですか。では貴方は、『The Deep Dark』の演奏を望んでいるのですね?」
「は、はい」
「分かりました」
質問の意図が読めず困惑する中伴を尻目に、曽根崎はスマートフォンを取り出す。そして、どこかに電話をかけ始めた。
「……ああ、予定が変わった。……そうだ、つまり私が行くことになる。……そりゃあリスクはあるが。気にせず君は君の仕事を全うしてほしい。……うん、よろしく頼むよ」
「だ、誰にかけてるんです? ま、まさか私は何か判断を間違えて……!?」
「いいえ、まったくもって万事順調ですよ」
だが電話を切って振り返った曽根崎の顔を見て、中伴は一歩後退りをした。
「……え、なんで」
中伴の背中が冷たい壁に当たる。狭い楽屋では、逃げ場など無きに等しかった。
「なんで……あなたは笑ってるんですか?」
――何故だ。何故この男は私の名を知っている。何が目的だ。何がしたいのだ。
「……やはり、演奏を止めなかったな。中伴氏がいないにも関わらず」
男は器用に指揮棒を操りながら、言葉を紡ぐ。
「つまりあなたはここで、『The Deep Dark』を演奏するしか道が残されていないわけだ。それも、仕切り直しさえ許されることなく」
男は、いかにも分かったような不遜な態度で言葉を吐いている。不完全で、醜悪な指揮を晒しながら。
「――そこをどけ。彼を連れて来い」
私は、ヴィオラ奏者の口で言った。
「貴様にこの至高の音楽は不相応。彼だけだ。彼の指揮だけが、我らを天上に導くにふさわしいのだ」
「どうだか。私も彼も同じ人間さ。所詮君とて」
「否、私は選ばれし者だ。扉を開けし者だ! 他の者とは位が違……」
「ところで、そろそろ君のパートのようだが」
指揮棒が振られ、ヴィオラ奏者は沈黙する。だが、不本意な指揮者交代に私の音は乱されていた。
……いや、そこまで大仰なことではないのかもしれない。直前の演奏まで、“彼”はここで指揮をしていた。よって確実に館内には存在するはずである。
そして館内にさえいれば、各所に設置されたスピーカーにより我がオーケストラの影響下におくことができる。
ならば、最終計画には何も支障は無い。天上への道が“彼”の指揮により導かれなかったのは不快極まりないが……いずれは彼も、またホールを満たす者ら全ても神の御許に到る身だ。
無論、先程から杓子定規な指揮を続けるこの男も。
「もう一度断っておくが、私とてこの演奏を止める気は無い」それを知ってか知らずか、男は不敵に笑ってみせる。
「多少イレギュラーはあったものの、新たなる指揮者として最後まで君を導こうと思う。……古和イオ。君そのものとなったこの楽団による、『The Deep Dark』をな」
――だが、なんと鼻につく男だろうか。目障りで、喧しくて、反抗的で。
この男には、指揮をやめさせ観客側に回ってもらわねばならない。指揮者はいなくなるが、程度が低いならいっそ無い方が良いだろう。
私は、トランペットのベルを男に向けた。
「……ッ」
男の眉間に皺が寄る。右足が崩れかける。だが、指揮棒を振る手は止まらない。側頭部を針で抉るような痛みを与えたのにも関わらず、男は前を向いた。
「……警告のつもりか」
引き攣ったように、男は笑う。
「だが生憎だったな。私は酷く痛みに鈍くてね、偏頭痛程度じゃ、とてもこの素晴らしいコンサートを降りる気にはなれないよ」
「……」
「嫌がらせは終わりか? ならば、遠慮無く続けさせてもらおう」
男の腕が大きく振り上げられ、主旋律がオーボエに移る。恐らく観客にとって、この演奏は滞りなく進んでいるように聞こえるのだろう。
――しかし、怒りが。八十数名に及ぶ私の怒りが、ステージ上で巨大に膨れ上がっていた。
何を、小癪な。たかが、平俗凡庸たる人間のくせに。
だったら、もういい。いらない。貴様の骨や血肉から発せられる音はきっと恐ろしく下劣で品の無いものに違いない。そんな楽器をどうして崇高なる私の楽団に迎え入れられようものか。神に聴かせられようものか。
――貴様は永遠に、この野蛮で卑俗な土地で肉を腐らせるがいい!
私は、己の意識全てを男へと向けた。精神を結ぶ鎖を撫で上げ、その綻びを探る為に。入り込み、脅かし、侵す為に。
「……ぐ」
ところがこの男は、忌々しいことにまたしても私の干渉を跳ね除けたのである。
「……言っただろう、君を最後まで導くと」
男は、まるで私の腹の中を読んだように言った。
「演奏に集中したまえ。もっとも、私が言えたことではないが」
……馬鹿な。そんなはずはない。たかが人間が私の音を跳ね除けるなど、あるはずが。
最前列のバイオリンとチェロの私が男を観察する。男の体に変わった所は無いか。何か仕掛けはしていないか――!
「……ふむ、もうバレたようだな」
集まる私の視線に気づいた男は、片手で軽く耳に触れた。
「正解だよ。私は今、君が中伴氏に施した手段で君の曲を防いでいる」
男の両耳には、見逃しそうなほど精巧にできた小さなイヤホン。そして私の音楽は、そこから流れてくる極小の音を聞き取った。
――驚愕した。流れていたのは、私のよく知った曲だった。
「……すまない、景清君、藤田君。相手に気づかれた」
男が、どこへともなく呟く。
「だが、もう少しだ。どうか、最後まで私に付き合ってくれ」
『The Deep Dark』は、既に四分の一を過ぎていた。





