あばばばば ふわっと現代語訳 後編
或る秋も深まった午後、保吉はタバコを買った次いでにこの店の電話を借用した。
主人は日の当たった店の前で空気ポンプを動かしながら、自転車の修理に取り掛かっている。小僧も今日は使いに出たらしい。女は相変わらず勘定台の前に居て、受け取りか何かの整理をしている。
こう云う店の風景はいつ見ても悪いものではない。何処かオランダの風俗画じみた、物静かな幸福に溢れている。保吉は女のすぐ後ろで受話器に耳を当てながら、このとても穏やかな光景に、愛蔵する絵画集に納められた De Hooghe の一枚の絵を思い出した。
しかし、電話はいつになっても、先方へは容易に通じないらしい。のみならず交換手も、一二度「何番へ?」を繰り返した後は全然沈黙を守っている。保吉は何度もベルを鳴らした。……が、ベルは彼にぶつぶつ云う音を伝えるだけである。
こうなればもうDe Hooghe などを思い出している場合ではない。
保吉はまず、ポケットから Spargo の「社会主義はやわかり」を出した。幸い電話機にはブックスタンドにうってつけな板がついている。彼はその板に本を乗せると、目は活字を拾いながら、手は出来るだけゆっくりと強情にベルを鳴らし続けた。これは横着な電話交換手に対する彼の戦法の一つである。何時だったか、銀座尾張町の公衆電話を使った時には、やはり散々ベルを鳴らし、とうとう「佐橋甚五郎」を完全に一編読んでしまった。今日も交換手の出ないうちは断じてベルの手を止めないつもりである。
散々に交換手と喧嘩した挙句、やっと電話をかけ終わったのは二十分ばかり後のことである。
保吉は礼を云う為に後ろの勘定台を振り返った。するとそこには誰もいない。女はいつの間にか店の戸口で何か主人と話している。主人は秋の日向の中で自転車の修理を続けているらしい。保吉はそちらへ歩き出そうとした。……が、思わず足を止めた。女は彼に背を向けたまま、こんなことを主人に尋ねている。
「さっきね、あなた、ゼンマイ珈琲とかってお客さんがあったんですがね、ゼンマイ珈琲ってあるんですか?」
「ゼンマイ珈琲?」
主人の声は自分の妻にも、客に対する時のような不愛想である。
「玄米珈琲の聞き間違えだろう。」
「ゲンマイ珈琲? あぁ、玄米から拵えた珈琲。――何だか可笑しいと思っていた。ゼンマイって八百屋さんにあるものでしょう?」
保吉は二人の後姿を眺めた。同時にまた天使が来ているのを感じた。天使はハムのぶら下がった天井を飛び回り、何も知らぬ二人に祝福を授けているのに違いない。尤も、燻製の鯡の匂いには顔をしかめているだろう。――保吉は突然鯡の燻製を買い忘れたことを思い出した。鯡は彼の鼻先に浅ましい形骸を重ねている。
「おい、君、この鯡をくれ給え。」
女は忽ち振り返った。振り返ったのは丁度ゼンマイが八百屋にあることを察した時である。女は勿論、その話を聞かれたと思ったのに違いない。猫に似た顔は、保吉の視線に気付いたかと思うと、見る見る恥ずかしそうに染まりだした。保吉は以前にも女が顔を赤らめる瞬間に度々立ち会っている。けれども、この瞬間ほどに真っ赤になったのを見たことはなかった。
「は、鯡を?」
女は小声で問い返した。
「ええ、鯡を。」
保吉もこの時ばかりは甚だ殊勝に返事をした。
こう云う出来事のあった後、二月ばかり経った頃であろう、確か翌年のことである。女は何処へどうしたのか、ぱったり姿を隠してしまった。それも三日や五日ではない。いつ買い物に入って見ても、古いストーブを据えた店には例の斜視の主人が退屈そうに座っているばかりである。
保吉はちょいと物足らなさを感じた。また、女の見えない理由に色々想像を加えなどもした。が、わざわざ不愛想な主人に、
「お上さんは?」
と尋ねる心持ちにもなれない。
また実際、主人は勿論、あのはにかみ屋の女にも、
「何々をくれ給え。」
と云う以外には挨拶さえ交わしたことが無かったのである。
その内に灰色な冬の街の風景にも、たまに一日が二日づつ暖かい光が差すようになった。けれども女は顔を見せない。店はやはり主人の周りに荒涼とした空気を漂わせている。保吉はいつか少しずつ女のいないことを忘れ出した……。
すると二月の末の或る夜、学校の英吉利語講演会をやっと切り上げた保吉は生暖かい南風に吹かれながら、格別買い物をする気もなしに、ふとこの店の前を通りかかった。店には電灯が灯っていて、店内には西洋酒の瓶や罐詰が煌びやかに並んでいる。これは勿論不思議ではない。
しかし、ふと気がついて見ると、店の前には女が一人、両手に赤子を抱えたまま、他愛もないことをしゃべっている。
店内から外へと漏れ出した光に映る若い母を見た瞬間、保吉はそれが誰であるのかを発見した。
「あばばばばばば、ばあ!」
女は店の前を歩き歩き、面白そうに赤子をあやしている。それが、赤子を揺り上げる拍子に、偶然保吉と目を合わせた。保吉は咄嗟に女の目が逡巡するのを想像した。それから夜目にも明らかなほど女の顔が赤くなるのを想像した。
しかし、女は澄ましている。目も静かに微笑んでいれば、顔も恥じらいなども浮かべていない。のみならず意外な一瞬の後、揺り上げた赤子に目を落とすと、人前も恥じずに繰り返した。
「あばばばばばば、ばあ!」
保吉は女を後ろにしながら、我知らずにやにや笑いだした。そうしなければ……、
「そんなことだと思ってたよ!コンチクショー!」
なんて言葉を思わず叫びかねなかった。……嘘である。そんな事態にはなりはしないし、そんなこと、無論これっぽっちも思っていなかった。思っていなかったのだ!女はもう「あの女」ではないのだ!あれはもう、度胸の好い母の一人なのだ!一たび子の為となったが最後、古来如何なる悪事をも犯した、恐ろしい「母」の一人なのだ!……ただ、この変化は勿論、女の為にあらゆる祝福を与えてもいい、そうあるべき変化である。しかし、娘じみた妻の代わりに図々しい母の姿を見出したのは……。
保吉は歩み続けた。暖かな南風が吹き、何故かふいに目から汗が零れそうに……なったりはしなかったが、茫然と家々の空を見上げながら歩み続けた。空には円い春の月が一つ、白々とかすかにかかっていた……。
読んでくださった皆さん、ありがとうございます!
本作は元々、2021年の正月に投稿するつもりでした。物語も大正時代ではなく現代に置き換えて、(あらすじのように)アイドルオタクの男と、その推しである少女との交流という形でリメイクしようと考えていました。
しかし、そうすると、原作者である芥川龍之介の持つ独特の感性が弱くなってしまい、勿体ないことに……。
そこで急遽予定を変更して、出来るだけ原作に手を加えない方向でリメイクしました。
原作は大正十二年(1923年)に発表されたのですが、今から約100年前の作品とは思えないような、現代にも通じる瑞々しさを持っています。
ただ、当時と現代では言葉遣いや生活スタイルに大きな変化が生じているため、少し読み辛いという問題がありました。
そこで、この名作をより多くの人に読んでもらおうと現代語訳するに至ったのです。
ちなみに、原作は青空文庫にて無料で読めますので、気になった方はチャレンジしてみてください。
https://www.aozora.gr.jp/cards/000879/files/14_14602.html
あと、評価・感想もお待ちしております。ではでは!
『日々雑感~日常から世界情勢まで、徒然なるままに感想を書く~』を週一連載しています。
https://ncode.syosetu.com/n3259ge/
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