あばばばば ふわっと現代語訳 中編
女はその後いつ来て見ても、勘定台の後ろに座っている。尤も、今では最初の様な西洋髪ではなく、ちゃんと赤い紙紐で丸髷に結い上げていた。
しかし、客に対する対応は不相応に初々しく、応対は支えるは、商品は間違えるは、おまけに時々赤面する始末。全く以って、お上さんらしい面影は見えない。保吉はだんだんこの女に或る好意を感じ始めていた。
と云っても恋に落ちたわけではない。
唯、如何にも人慣れない所に気軽い懐かしみを感じ出したのである。或いは、もう少し俗な言葉を借りて表現するなら、娘の初心な姿に、
「あぁ~~乙男心がぴょんぴょんするんじゃぁ~~」
となっているだけなのである。
或る残暑の厳しい午後、保吉は学校の帰りがけに、この店へココアを買いに入った。女は今日も勘定台の後ろに座って、講談倶楽部か何かを読んでいる。保吉はニキビの多い小僧に Van Houten はないかと尋ねた。
「唯今あるのはこればかりですが。」
小僧が渡してきたのは Fry である。保吉は店内を見渡した。すると、詰み上げられた缶詰の間に基督教のシスターの商標を付けた Droste も一缶混じっているのを見つけた。
「あそこに Droste もあるじゃないか?」
小僧はちょいとそちらを見たきり、やはり漠然とした顔をしている。
「ええ、あれもココアです。」
「じゃあ、こればかりじゃないじゃないか?」
「ええ、でもこれだけなんです。……お上さん、ココアはこれだけですね?」
保吉は女を振り返った。心もち目を細めた女は、美しい緑色の顔をしている。尤も、これは不思議なことではない。何故なら、欄間の色ガラスを透かした午後の光が、女の顔を緑に染め上げているからである。女は開いた雑誌を肘で押さえたまま、例のためらいがちな返事をした。
「はあ、それだけだったと思うけども。」
「実は、この Fry のココアの中には時々虫が湧いているんだが……」
保吉は真面目に話しかけた。しかし、実際に虫の湧いたココアに出会った覚えがある訳ではない。唯何でもこう言いさえすれば、確実に Van Houten の有無は確かめさせられると考えたのである。
「それもずいぶん大きいやつがあるもんだからねぇ……」
女は些か驚いたように勘定台の上へ半身を伸ばした。
「そっちにもまだ、ありゃあしないかい? ああ、その戸棚の後ろにも。」
「赤いのばかりです。此処にあるのも。」
「じゃ、こっちは?」
女は吾妻下駄を突っ掛けると、心配そうに商品棚へ探しに来た。ぼんやりした小僧も止むを得ず缶詰の間などを覗いて見ている。
保吉はタバコへ火をつけた後、彼等へ拍車を加えるように、考えながらしゃべり続けた。
「虫の湧いたやつを飲ませると、子供などは腹を痛めるしね。(註:彼は或る避暑地でたった一人で暮らしている。)いや、子供ばかりじゃない。家内も一度ひどい目に遭ったことがある。(註:勿論、妻など持ったことはない。独身である。)何しろ用心に越したことはないんだから……」
保吉はふと口を閉ざした。女は手に搔いた汗を前掛けの中で握りしめながら、当惑した様子で彼を眺めている。
「どうも見えないようでございますが。」
女の目はおどおどしている。口元も無理に微笑している。殊に滑稽に見えたのは、鼻も亦、つぶつぶと汗を掻いている。
保吉は女と目を合わせた刹那、己に小さな悪魔が乗り移るのを感じた。
この女は云わば含羞草である。一定の刺激を与えさえすれば、必ず彼の思う通りの反応を呈するに違いない。しかも、刺激は簡単である。じっと顔を見つめる。ただそれだけでも好い。或いは又、指先にちょこんと僅かに触れても好い。女はきっとその刺激に保吉の暗示を受け取るであろう。受け取った暗示をどうするかは勿論未知の問題である。
しかし、幸いに反発しなければ――――、
否、猫は飼っても好い。……が、猫のような女の為に悪魔に魂を売り渡すのは、どうも少し考えものである。
保吉は吸いかけたタバコと一緒に、乗り移った小さな悪魔を放り出した。不意を喰らった悪魔はとんぼ返る拍子に小僧の鼻に飛び込んだのであろう。小僧は首を縮めるが早いか、続けざまに大きなくしゃみをした。
「じゃ、仕方がない。Drosteを一つくれ給え。」
保吉は苦笑を浮かべたまま、ポケットのばら銭を探り出した。
その後も彼はこの女と度たび同じような交渉を重ねた。……が、悪魔に乗り移られた記憶は幸いこの一件以外に無い。いや、一度などはふとした弾みに天使が降りてきたのを感じたことさえある。
2021年5月3日、午前2時に『あばばばば ふわっと現代語訳 後編』を投稿予定。




