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あばばばば ふわっと現代語訳  作者: 原作 芥川龍之介  現代語訳 fun9
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あばばばば ふわっと現代語訳 前編

むかしむかし、と言うほど昔でもない大正時代、一人のアイドルオタクの男がいました。その男は、推しの少女に会うべく、毎日、仕事帰りには地下劇場へ通っていました。男と少女の関係は「ファン」と「アイドル」の関係ではありましたが、男が(少女にだけ分かる)特別なサインを送ると、少女はそれに気づき、反応を返してくれました。……さて、オタクとアイドルの恋は成就するのでしょうか?


これは文豪 芥川龍之介が書いた短編恋愛小説『あばばばば』を木っ端なろう作家 fun9が現代語訳した作品です。

 保吉(やすきち)はずっと以前からこの店主を知っている。


 ずっと以前から?或いはあの帝国海軍学校に赴任した当日だったかもしれない。とにかく、彼はふとこの店にマッチを買いに入った。


 店には小さい飾り窓があり、窓の中には大将旗を掲げた戦艦三笠の模型があり、その周りにはキュラソー(カクテル『ブルーハワイ』の原料である青いリキュール)の酒瓶だのココアの缶だの、干し葡萄の箱だのが並べてあった。


 が、しかし、軒先に「たばこ」と白抜きの文字に赤い看板が出ているからには、マッチを売らないはずがない。


 彼は店を覗き込みながら、


「マッチを一つくれ給え。」


 と言った。ちょっと尊大な感じの物言いだった。


 店先には高い勘定台の後ろに若い斜視の男が一人、つまらなさそうに佇んでいた。それが彼の顔を見ると、算盤(そろばん)を縦に構えたまま愛想笑いのひとつも無く、


「これをお持ちなさい、生憎(あいにく)、マッチを切らしましたから」


 といって、一番小さなマッチ箱を取り出した。タバコを購入してくれた客に対して付けるおまけ用のマッチだった。保吉は微かに「むっ」不機嫌な音を漏らし、


「貰うのは気の毒だ。じゃあ、朝日を一つくれ給え。」


 と答えた。ところが男は、


「何、構いません。お持ちなさい。」

「いやいや、朝日をくれ給え。」

「お持ちなさい。これでよろしけりゃ、要らぬ物をお買いになるには及びません。」


 と引き下がらない。強情であった。


 もっとも、斜視の男の言うことは親切から出たものに違いない。が、その声音(こわね)や顔色は如何にも不愛想を極めていた。


 保吉(やすきち)は自らをインテリのエリートであると自負していた。そのエリートたる自分が、タダで物を貰って喜ぶ庶民と同じように見られていると思うと、忌々しく素直に受け取る気にもなれない。


 だからといって、怒って店を飛び出すのは多少相手に気の毒ではあるし、エリート的にも見苦しいではないか。


 保吉はやむを得ず勘定台の上へ一銭の銅貨を一枚出した。


「じゃあ、そのマッチを二つくれ給え。」

「二つでも三つでもお持ちなさい。ですが、お代はいりません。」 


 これは困った。


 どうすればこの男に代金を受け取らせられるだろう?と悩んでいると、戸口に下げた金線サイダーのポスターの影から、小僧が一人首を出した。特徴に乏しい朦朧(もうろう)とした表情の、ニキビだらけの小僧だ。


「旦那、マッチは此処(ここ)にありますぜ。」


 保吉は内心“Yeah!(イェーイ!)”と凱歌(がいか)を挙げながら、大型のマッチを一箱買った。お代は勿論一銭である。


 彼はあまりの喜びに、マッチに人生最大の感動を覚えた。(こと)にこの箱、三角の波の上に洋式帆船と商標が描かれていて、額に入れたとしてもイイ感じのイラストではないか。


 彼はズボンのポケットの底へちゃんとマッチを落としてから、得々と店を後にした。


 爾来(じらい)、保吉は半年ばかり、学校に通う往復に、度々この店に買い物に寄った。結果、今では、目をつむっていても、はっきりとこの店を思い出すことが出来る。


 例えば、天井の梁からぶら下がっているのは鎌倉ハムに違いない。欄間(らんま)の色ガラスから差し込む光は、漆喰塗りの壁へ緑の光を映していて、板張りの床に散らかっているのは、コンデンスド・ミルクの広告であろろう。正面の柱には時計の下に、大きな日めくりカレンダーが掛かっている。


 その他、飾り窓の中の軍艦三笠も、金線サイダーのポスターも、椅子も、電話も、自転車も、スコットランドのウィスキーも、アメリカの干し葡萄も、マニラの葉巻も、エジプトの紙巻タバコも、(にしん)の燻製も、牛肉の大和煮も、(ほと)んど見覚えのないものはない。(こと)に高い勘定台の後ろに仏頂面を曝した主人は、飽き飽きするほど見慣れている。


 いや、見慣れているばかりではない。彼は如何に咳をするか、如何に小僧に命令するか、ココア一缶を買うにしても、


「Fryよりこちらになさい。これはオランダのDroste です。」


 などと言って、如何に客を悩ませるか、最早、主人の一挙動さえ(ことごと)くとうに心得ている。心得ているのは悪いことではない。


 が、しかし、退屈なのは事実である。


 保吉は時々この店へ来ると、教師をしているのも妙に久しいものだな、とカッコをつけて常連ぶったことを考えたりもした。((ちゅう):彼の教師生活は、始まってまだ一年もたっていない。当然、この店との付き合いも一年未満である)


 けれども、万物を支配する変化は、やはりこの店にも起こらずには済まないのである。


 保吉は()る初夏の朝、この店へタバコを買いに入った。店の中は普段の通りである。水を()った床の上に、コンデンスド・ミルクの広告が散らかっていることも変わりがない。が、あの斜視の主人の代わりに勘定台の後ろに座っているのは西洋髪に結った女であった。


 若い女である。年はやっと十九くらいであろうか。正面から見た顔は猫に似ている。まるで日の光の中で目を細めてずっと佇む、混じりっ気のない真っ白な猫のようだ。


 保吉は、おや?と思いながら、勘定台の前に歩み寄った。


「朝日を二つくれ給え。」

「はい。」


 女の返事は恥ずかしそうである。のみならず、出したのは朝日ではない。二つとも箱の裏に旭日旗を描いた三笠であった。保吉は思わずタバコから女に目を移した。同時にまた、女の鼻の下に猫の長い髭を想像した。


「朝日を、こりゃあ朝日じゃない。」

「あら、本当に……。どうもすみません。」


 猫、(いや)、女は顔を赤くした。この瞬間の感情の変化は正真正銘に娘じみていた。それも当世のお嬢さんではない。数年前に解散した文学結社【硯友社(けんゆうしゃ)】の作品に出てきそうな感じの初心(うぶ)な娘である。


 保吉はばら銭を探りながら、「たけくらべ」、乙鳥口(つばくろぐち)の風呂敷包み、燕子花(かきつばた)、両国、鏑木清方(かぶらぎきよかた)、その他にも色々なものを思い出した。と、同時に”初心な娘”からこれだけのことを連想できるって、やっぱ僕ってインテリだよねぇ、と自賛した。女は勿論この間も勘定台の下を覗き込んで、一生懸命に朝日を探している。


 すると奥から出てきたのは、例の斜視の主人である。


 主人は三笠を一目見ると、(おおよそ)その容子(ようす)を察したらしい。そして、今日も相変わらずの苦り切った仏頂面のまま、勘定台の下に手を入れるが早いか、朝日を二つ保吉へ渡した。しかしその目には微かではあるが、微笑みらしいものが動いている。


「マッチは?」


 女の目もまた猫だとすれば、喉でも鳴らしそうな感じに媚を帯びている。主人は返事をする代わりに唯ちょいと頷いた。女は咄嗟に(!)勘定台の上へ小型のマッチを一つ出した。それから、もう一度、恥ずかしそうに笑った。


「どうもすいません。」


 すまないのは何も朝日を出さずに三笠を出したことばかりではない。保吉は二人を見比べながら、何時しか彼自身も微笑したのを感じた。

2021年5月3日午前1時に『あばばばば ふわっと現代語訳 中編』を投稿予定。

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